水火天満宮
水火天満宮(すいかてんまんぐう)2010年1月17日訪問
上京区扇町の大応寺の左隣には水火天満宮の鳥居が建つ。 水火天満宮はその名称から分るように、菅原道真を祀るために創建された神社である。旧村社、社殿によれば、延長元年(923)6月25日、醍醐天皇の勅願により菅原道真の神霊を勧請して建立されたものである。
昌泰4年(901)1月昌泰の変が起き、右大臣菅原道真が大宰員外帥として大宰府へ左遷されている。この左遷の原因が左大臣藤原時平の讒言であったのは有名な話である。事件は単純な2人の人間関係だけではなく、宇多上皇と醍醐天皇及びそれを取り巻く人々の政治主導権を巡った争いという観点に立つと今まで見えてこなかったものも現れてくるのではないだろうか。
仁和3年(887)8月26日に即位した宇多天皇は、同年11月21日関白に任じた藤原基経が、その職を拒絶するという阿衡事件に巻き込まれる。基経は一切の政務を放棄したため、国政が停滞する事態に陥る。天皇と基経との間に確執が解消しないままに1年以上が経過するという出来事であった。藤原氏にとっては自らの存在の大きさを誇示するのに十分な事件であったが、宇多天皇にとっては藤原北家に政治的な権力が集中することに対して、大きな危機感を抱くこととなった。先代の光孝天皇の発病に際し、一度臣籍に下った者を親王に戻し天皇に即位させたのは当時関白であった藤原基経の強い推薦があったからこそ可能となった。宇多天皇としてもこの経緯を無視することはできなかったので、阿衡事件での譲歩を止む無しとした。
寛平3年(891)に藤原基経が没すると、嫡男の藤原時平が21歳と若年であったため摂関は置かれず、宇多天皇の親政となった。藤氏長者も大叔父の右大臣・藤原良世が任じられている。この後時平を参議にする一方で、天皇は源能有などの源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物を抜擢し、寛平の治を推進してきた。
そして寛平9年(897)7月3日、宇多天皇は皇太子敦仁親王を元服させ、その日の内に譲位を行っている。新たに即位した醍醐天皇に対しても藤原北家嫡流が外戚となることを防ぐための手段は打たれていた。大納言で太政官最上席の藤原時平に対し、菅原道真を権大納言に任じ時平の次席とし、両者に内覧を命じている。このような政治体制を託して醍醐天皇に譲位した訳である。しかし醍醐天皇の後継者となる皇太子の選定や、基経の娘・藤原穏子の入内について、上皇と天皇の意見は必ずしも一致しなかった。昌泰の変は時平の道真に対する権力争いという側面もあるが、宇多上皇の政治への介入を嫌った醍醐天皇が藤氏長者・藤原時平を引き込んだ政争に発展したという見方ができるのではないだろうか。また道真の推進する中央集権的な政治姿勢が、必ずしも多くの公卿の賛同を得られていなかったのかもしれない。いずれにしても上皇と天皇に確執があったことを明らかにすることが困難である限り、事件の原因は時平の讒言という矮小化されたものになってしまったのであろう。
配流から2年余の延喜3年(903)2月25日、菅原道真は大宰府で死去する。享年59。菅原道真の死後、京では異変が相次ぐ。先ず、死後6年後の延喜9年(909)に藤原時平が39歳で病死する。続いて延喜13年(913)には首謀者の一人と目される右大臣源光が泥沼に沈み溺死するという奇妙な事件に遭う。さらに醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が延喜23年(923)、次いでその息子で皇太孫となっていた慶頼王が延長3年(925)に病死する。そして延長8年(930)、朝議中の清涼殿を雷が直撃し、大納言藤原清貫を始め朝廷要人に死傷者が発生する。これを目撃した醍醐天皇は体調を崩し、事故から3ヶ月後の9月29日に崩御している。これら全てが菅原道真の霊の仕業とされている。現在の感覚からすると、道真没後二十余年を経て生じた天災を怨霊の仕業とするのには少し無理があるようにも感じられる。しかし当時の人々にとっては、この二十余年常に道真に対する負い目を感じてきたのであろう。
水火天満宮が創建されたのが延長元年(923)であったということは、道真の死後20年を経てのことであり、この年の4月20日に贈右大臣、正二位と昌泰の変以前の官位に復されている。この措置は藤原時平、源光さらに東宮の保明親王が既に亡くなった後に行われたものである。さらに70年後の正暦4年(993)5月20日には贈正一位左大臣、そして同年10月20日に贈太政大臣と昇格している。
当社由緒書・家系図には、
『洛陽一条上る下り松の霊地に、雨水雷火の難を消除の守護神として菅公を祭る為に、延暦寺の尊意僧正に勅命ありし、日の本最初の天満宮の勧請の最初なり』
とあります。
都の水害・火災を鎮める為に、第六十代 醍醐天皇の勅願で、道真公の師でもあった延暦寺の尊意僧正(第十三代天台座主 法性坊尊意僧正)に命じられ、延長元年(923年)六月二十五日、『水火の社天満自在天神宮』という神号の勅許を醍醐天皇より賜り、水火社天神天満宮として、菅原道真公の神霊を勧請し建立されました。
現在は、下記の通り移転しておりますが、この西陣下り松の地は、尊意僧正の別邸であり、僧正下山の際の滞在し、菅公と会見した縁故深き土地である為、ここに奉祀することになったということです。
第13世天台座主・尊意は貞観8年(866)近江国で生まれている。元慶3年(879)比叡山に入り、7年後の仁和2年(886)に受戒し天台の奥義を究めたとされている。延長4年(926)に天台座主に任じられている。延長3年(925)の大旱魃の際、醍醐天皇の詔をうけ祈雨の法を修し見事に雨を降らせている。尊意僧正が水火天満宮を創建したのは、その2年前ということになる。
また、文明4年(1472)9月10日、雨乞大賽の日に後土御門天皇がこの地を行幸し、天神神号一軸を下賜している。
水火天満宮は昭和27年(1952)に行われた堀川通拡張工事によって、現在の扇町に遷座している。創建の地は現在の堀川通の道路上からその西側にかけての上天神町であった。安永9年(1780)に刊行された「都名図会」には水火天神として掲載されている。図会を見ると、水火天神は興聖寺の東側に道路を隔ててあったことが分かる。 明治25年(1892)に成立した地図・京都を見れば分るように、明治中期まで堀川通は元誓願寺通から南側であった。その先は細い道が北に進むが本法寺に当たり西側に折れながら北上している。つまり堀川通を北上させるためには本法寺の境内を横断するか、西側に蛇行させるしかなかった。現在の堀川通は後者のようになっている。この地図が作成された時期には妙蓮寺と興聖寺の間を上御霊前通が縦断していなかったようだ。都名所図会と「京都」を重ね合わせると、かつての水火天満宮は興聖寺の東、本法寺の北西の笹地のあたりではないかと思われる。
どのようにして堀川通の拡幅用地が決められたかについては、昭和20年(1945)に行われた道路疎開を調べる必要がある。建物疎開とは、第二次世界大戦において焼夷弾による攻撃を受けた際の市街地延焼防止を目的とし、国による家屋等の取り壊しである。内務省の指揮により京都府が執行し、京都市は戦時中の疎開跡地の管理を担い。戦後は疎開跡地の整理とともに都市計画上必要な土地は買収し堀川通、御池通等の拡幅整備を行った。そして不要な土地については所有者への返還を行ってきた。京都市会まちづくり委員会で報告された「疎開跡地に係る実態調査の進捗について」の資料「疎開跡地に係る実態調査の進捗について」には建物疎開跡地利用計画図が添付されている。これによれば、御池通、五条通そして堀川通が赤く塗られていることから、疎開跡地を使用して道路を拡張したことが分かる。また、堀川通と紫明通の接続形状が異なっていたことも分かる。
「戦時下建物疎開の執行目的と経過の変容 ―京都の疎開事業に関する考察―」によれば、京都は六大都市にもかかわらず、重工業よりは繊維・織物業など軽工業が多かったため、防空総本部からは二次的な都市とされていたようだ。そのため東京や大阪から半年以上遅れた昭和19年(1944)7月に第一次建物疎開を実施している。以後、敗戦までに4回の疎開が実施されている。第二次建物疎開が実施されている昭和20年(1945)3月13日深夜に大阪、同17日未明に神戸が大空襲によって被災している。これを受けて3月18日午前、急遽第三次建物疎開が開始した。事業が決定したのが同月31日、内務省告示142号が発表された4月25日には既に約9割の除却が終了していた。そのため4月上旬には幅60メートルで市内を取り囲む数kmにわたる空白地帯が完成した。
チューさんの今昔ばなしには、当時行われた建物疎開の生々しい状況が描かれている。その一部分を引用するが是非全文を読んでいただきたい。
(前略)
昭和19年(1944年)7月、京都市で 建物疎開 が始められました。御池通・五条通・堀川通 の拡幅が決まりました。道幅 5m を 50m に広げるというのです。道路のどちら側が立ち退かされるのかが、そこに住んでいる者にとっての大問題でした。
私の家も五条通 に面しているので、家中が不安に包まれました。結局、御池通・五条通 は南側、堀川通 は川の西側が、立ち退かされることに決まりました。
しかも、ごく少ない金額で土地と家屋を強制的に買い上げ、わずか10日間ほどのうちに、自分で移転先を見つけて立ち退け、という命令です。(中略)
まず、本職の者が屋根に上がって、瓦を下に落とし、次に二階の隅柱に太い縄をくくりつける、この縄をわれわれが大勢で、ヨイショ ヨイショ と何回も引っ張る、すると、家は次第に傾いて、ついに土煙を上げて倒れる、こんな作業を繰り返しやりました。(後略)
上記の大阪・神戸の大空襲を受けて開始した第三次建物疎開自体が、その立案から実施までが僅か1か月に満たなかったことも含め、かなり見切り発車で行われたことが強く伝わってくる。堀川通は川の西側が建物疎開の対象地となり、水火天満宮の所在した上天神町も、その延長線上にあったということが実情だったようだ。
公園側の鳥居を入るとすぐに、KA106の是より洛中碑がある。その横に登天石と出世石が並ぶ。登天石の謂れについては京都新聞のふるさと昔語りが比較的平易に書かれているのでご参照下さい。
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