徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

南千住 小塚原



南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)2018年8月12日訪問

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南千住 小塚原 日光街道 コツ通り

 夏休みの特集として南千住の小塚原と回向院を取り上げます。この夏は非常に暑く遠出ができないと考え、近場で史蹟見学を行いました。回向院には既に数回訪れていましたが、写真も撮影していなかったので、この機会にしっかりと調べてみるつもりで出かけました。ただし拝観時間が16:30までと予想以上に早かったために、一日目は半分も見ることが出来ずに退去しました。拝観時間については回向院の公式HP(http://ekoin.fusow.net/ : リンク先が無くなりました )にも記述がありませんので皆さん注意しましょう。お寺の方に言われたように、山門前の荒川区の駒札には、ちゃんと明記されています。そう言えば確か前にも閉まっていて入れなかった記憶があります。そこで14日に回向院、18日に周辺の撮影と資料収集のために再び訪れました。取り敢えず小塚原と回向院の判明した事柄を、ここに記すことに致しました。

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南千住 小塚原 素盞雄神社
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南千住 小塚原 素盞雄神社
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南千住 小塚原 素盞雄神社 瑞光石

 「角川日本地名大辞典 13 東京都」(角川書店 1978年刊)によれば小塚原は「こづかはら」あるいは「こづかっぱら」とも読む。同書によれば地名の由来は下記の通りである。

古塚原(新編武蔵)・骨ケ原(蘭学事始)とも書く。隅田川南岸の低地に位置する。地名の由来は、この地の鎮守の飛鳥明神社境内に、大己貴命・事代主命の両神翁出現の際に瑞光を発したと伝える石があり、この小塚によるという説がある(砂子・江戸名所)。

 また室町期には既に小塚原の村名があり、豊島郡に属していたと記している。つまり刑場が設置される前から小塚原の地名は存在していたのである。これに対して「東京都の地名 日本歴史地名大系13」(平凡社 2002年刊)は、小塚原に対して「こつかつぱらまち」と読み仮名を振っている。同書も「角川日本地名大辞典」と同じ説を記した上で下記のような別の説を述べている。

また源義家が奥州攻めの際に討取った賊首を埋めた円通寺の四十八塚に起因するとともいう。

 源義家の奥州攻めは平安時代後期のことであり、首級を埋めた古塚に因んで名付けられたという意味であろう。その由来は刑場とは異なるものの、戦乱に関係するものだった。「角川日本地名大辞典」が参照している蘭学事始は、文化12年(1815)に83歳の杉田玄白が蘭学草創を回想して記した書物である。その中で杉田は千住骨ケ原で腑分けが行われたと語っている。近世以降は、古塚より骨のイメージが強くなってきたことがこのような記述からも見えてくる。

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南千住 小塚原 円通寺
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南千住 小塚原 円通寺 黒門
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南千住 小塚原 円通寺 彰義隊士の墓

 近世から近代の小塚原の印象形成の事例として挙げるならば、荒川区南千住の日光街道に面した場所に「コツ通り商店街」が存在する。商店街が運営する公式HPに掲載されている商店街の歴史の中で、この風変わりな名称を以下のように説明している。

JR南千住駅の西側から千住大橋へ続く道は五街道の一つ、日光道中の一部であり、地元の人には「コツ通り」と呼ばれる。由来は中世以来の地名「小塚原(こつかっぱら)」を略した説が有力である。

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南千住 小塚原 日光街道 コツ通り 街灯フラッグ
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南千住 小塚原 日光街道 コツ通りの広報版
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南千住 小塚原 日光街道 コツ通り 荒川区の駒札にも「コツ通り」

 「角川日本地名大辞典」では「こづかはら」あるいは「こづかっぱら」と「こづ」であったのに対して、商店街の説明では「日本歴史地名大系」の「こつかつぱら」の読み方が一般的だということであろう。このことについては、既に2007年に荒川ふるさと文化館で開催された企画展示をまとめた「杉田玄白と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2008年刊)にも掲載されている。同書ではコツ通り商店街を取り上げた上で、“コツは「骨」か?”という以下の解説を加えている。

コツは「骨」か? 回向院の前を走る道路は、通称「コツ通り」と呼ばれている。この道が、日本橋から日光へ向かうかつての「日光道中(日光街道)」である。
さて、江戸の人びとは、洒落っ気から小塚原町を縮めて「コツ」と呼んでいた。いつの頃からの呼称かは不明だが、「コツ」の謂れは、この辺りにあるようだ。日光道中の内、小塚原町の部分は『新編武蔵風土記稿』等によると、「小塚原縄手」と呼ばれており、「コツ通り」とは「小塚原通り」の呼称ではないかと思われる。
小塚原を「骨ヶ原」と表記し、地名の由来を仕置場に求める説があるが、これは後に付会してできた表現といえる。なにしろ「小塚原」という地名が文献上に登場するのは、仕置場ができた江戸時代初期より200年以上前、室町時代の文安5年(1448)のことだからである。

 以上が荒川区の見解と理解してよいだろう。同書では小塚原の地名伝説として3つの説を提示している。上記の円通寺の四十八塚と瑞光石の小塚に加え、吾妻鏡要目集成から多気太郎の小塚を挙げている。これだけでは不十分だと考えたのか、2009年に同じく開催された展示会の図録「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)に “「コツ通り」の由来≠「小塚原」のイメージ”というコラムを掲載している。概ね2007年と同様の説明だが、かつての仕置場から発掘された骨によって近世以降の小塚原のイメージが形成される過程について、もう少し具体的に記している。

 ここまで丁寧に説明して頂いても、どうも納得できないのは当方の頭が悪いからであろう。“古塚→小塚原町”や骨ヶ原が後世に付会されたことは十分に理解できる。しかしどうして“小塚原通り→コツ通り”かが分らない。上記のようにコツ通りの呼称の始まりを江戸時代頃とするならば、骨ではないと言い切ることはできない。つまりコツ通りの由来が骨とは関係ないとするならば、その呼称が江戸以前から存在したことを文献資料等から証明しなければならなくなる。勿論、それができるならばとっくに証明しているのだろうが、
 現代人が抱く小塚原のイメージが「コツ通り」の由来ではない。さらに“小塚原の歴史”とも一致していないということが2009年のコラムの主旨であろう。ただ江戸から昭和にかけての人々が抱いた小塚原や死に対するイメージを省みないで“「コツ通り」の由来≠「小塚原」のイメージ”と言い切れないのではないだろうか。現代人は、戦前の人々が抱いた死への親近感すら既に忘れ去ってしまっている。現在のように核家族化した日常生活には死のイメージが非常に希薄である。戦前の人々はもっと近親者のリアルな死に接していたし毎日の生活の中で事故死などを目撃することが今以上に多かった。だからこそ生と死は表裏一体であると悟っていたと思う。70余年前、インパール作戦に敗れ撤退する日本軍の退却路を白骨街道と呼んでいたことは事実である。そしてこの名称を生み出したのが、道に斃れた同胞の白骨を踏みしめて生還した将兵達であることも忘れてはいけない。

 この話しを考えていく上で思い出したのが、京都に残る轆轤町という地名である。「京都坊目誌」は町名の起源を下記のように記している。

古老云ふ此地昔日鳥部野。涅槃堂の荼毘所及興善野に続きし墳叢地たり。開拓の日人骨多く露出す。故に人呼で髑髏町と云ふ。寛永年中所司代板倉宗重命じて轆轤町と改めしむと。

 小塚原と同じ葬送の地であった髑髏町を轆轤町と改称させたのが、行政のトップ・板倉宗重であったというところが面白い。やはり不吉なイメージを地名として残すことに躊躇いがあったのであろうか。それでも改めた名称に、最初の地名の音感を残しているところに洒落っ気を感じる。

 最後に付け加えると、この2回の小塚原仕置場に関する展示会では関連企画として、区民限定の「人権ワークショップ コツ通りを考える」が行われている。その目的と内容がどのようなものであったかが分らないので、このテーマについてはとりあえず筆を置くこととする。

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南千住 小塚原 荒川区立荒川ふるさと文化館

「南千住 小塚原」 の地図





南千住 小塚原 のMarker List

No.名称緯度経度
01   泪橋 35.729139.7994
02   延命寺 35.7316139.7978
03   回向院 35.7322139.7978
04   円通寺 35.734139.7928
05   素戔雄神社 35.7371139.796
06   荒川ふるさと文化館 35.7375139.7954
07   千住大橋 35.7393139.7973
08   千住宿 35.7505139.8028
09   奥の細道矢立初めの地 荒川区 35.7331139.7985
10   奥の細道矢立初めの地 足立区 35.7412139.7985
    

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