徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2018年 9月

南千住 回向院 その3

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その3 2018年8月12日訪問 南千住 回向院  もともと南千住 回向院の一項で纏めるつもりであった観臓記念碑が思ったより長くなってしまった。この項では観臓後の翻訳作業の開始から「解体新書」の発刊までを書き、観臓記念碑についてを終了する予定である。 杉田玄白の「蘭学事始」(「岩波クラシックス28 蘭学事始)(岩波書店 1983年刊))によれば、観臓の帰り道、「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚いた杉田玄白、前野良沢、中川淳庵は、その翻訳に着手することを決める。同書では良沢の言葉として下記のように記している。 然らば善はいそげといへる俗諺もあ… ►続きを読む

 

南千住 回向院 その2

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その2 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 蘭学を生んだ解体の記念碑  南千住 回向院では日本に於ける人体解剖の歴史と明和8年(1771)3月4日に小塚原で行われた観臓が行われるまでの経緯を書いてきた。この項では観臓の様子を書いてみる。 明和8年(1771)3月3日、杉田玄白は町奉行所から翌4日に千住小塚原の刑場で腑分けが行われる連絡を受けている。玄白は至急同志に「早天に浅草三谷町出口の茶屋」で待ち合わせる旨を伝えた。この時、玄白より10歳年長の前野良沢にも使いを送っている。町奉行所から玄白に観臓の許可が出たのは、事前に申し入れが行われて… ►続きを読む

 

南千住 回向院

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん) 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 本堂ピロティ下  千住宿と小塚原の歴史について、南千住 小塚原から、その4までを使って記してきた。ようやく、ここからは本題である回向院について書いていく。 回向院は浄土宗の寺院で山号を豊国山と称す。同寺の「史蹟 小塚原回向院 縁起(http://ekoin.fusow.net/303.html : リンク先が無くなりました )」によれば、寛文7年(1667)に本所回向院の住職弟誉義観上人が常行堂を創建したことに始まる。元々、本所回向院は万治年間(1658~61)頃より町奉行の下命で牢死者や行倒人などの… ►続きを読む

 
 

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