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妙満寺 本坊庭園



妙満寺 本坊庭園(みょうまんじ ほんぼうていえん) 2010年9月18日訪問

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妙満寺 本坊庭園 中央台形部分が旧雪の庭と思われる

妙満寺 その2では、岩倉幡枝への移転から境内の様子を見て行った。妙満寺の最後の項として本坊庭園について書いてみたい。

この妙満寺の庭園は、「雪月花の庭」や「雪の庭」の検索ワードでヒットする。先ずは「雪月花の庭」について調べてみる。もともと「雪月花の庭」とは誰が呼んだのであろうか?このあたりから分からないことが始まる。重森三玲の「日本庭園史大系」を調べてみても、清水寺成就院は所収されているものの、妙満寺は全国庭園所在一覧の京都府202件の中に含まれているが、「江戸中期 枯山水 別称:雪の庭 拝観は紹介者要」と書いてあるだけで本文掲載分89件には入っていない。勿論既に廃寺となっている北野成就院は一覧にも含まれていない。そこで「雪月花の庭」として唯一本文掲載になった清水寺成就院を調べてみると下記のように記されていた。

成就院提案を江戸中期頃から、いつとはなしに、「月の庭」と呼ぶようになったが、これは、この時代の流行した見立によってである。
京都には成就院と呼ばれる寺院が三寺あって、それらを三成就院の雪月花の庭と称しているが、雪の庭というのは、寺町妙満寺塔頭の成就院の庭のことで、これは比叡山を背景にした庭園であるから、借景の雪景色から見立てたものである。花の庭は、北野天満宮の宿坊成就院の庭のことで、これはいうまでもなく、梅花鑑賞のことから、花の庭と見立てたのである。
清水寺成就院を月の庭と称するのは、東山の月を愛する庭として、月の庭といったのであるが、何れにしても、このような見立そのものは、下手趣味であることは、今更いうまでもない。特に本庭に関しては、月の庭などという呼称と、庭園の内容とは全く何らのつながりがなく、また本庭の意図している造形ともかかわりあいがない。

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妙満寺 本坊庭園

以上のように雪月花をどのように見立てたかは分かったものの、その評価はかなり手厳しい。
さらに清水成就院について調べてみる。「日本庭園史大系 第23巻 江戸初期の庭10」(社会思想社 1972年刊)で清水成就院の作庭時期と作者について調べてみる。まずこの地が室町時代の大名・赤松氏の山荘であったことから、もとは室町時代の庭があったと推測している。しかし寺伝の相阿弥作あるいは「都林泉名所図会」にある「境内成就院の林泉は名庭にして相阿弥の作、後に小堀遠州修補ある所也。」について伝説の域を出ぬものであるとしている。つまり作者を特定できないようだ。そして常に「雪月花の庭」に出てくる松永貞徳の名もここにはない。寛永6年(1629)成就院よりの出火によって一山焼失していることから、既に存在した室町頃の庭園は原型を留めない位破壊され、一山の復興後の元禄期(1688~1704)に全く新しく作庭されたと推測している。重森三玲の清水成就院再興の経緯が正しいとするならば松永貞徳の出番は全くなくなってしまうだろう。
松永貞徳は江戸時代前期の俳人にして歌人、歌学者。元亀2年(1571)松永永種と藤原惺窩の姉の間に生まれている。子は朱子学者の松永尺五で藤原惺窩の門人である。貞徳は京都出身で、里村紹巴から連歌、九条稙通や細川幽斎から和歌、歌学を学んでいる。そして20歳頃には豊臣秀吉の右筆となり、木下勝俊(長嘯子)を友としている。晩年に俳諧の指導者となり、その俳諧を貞門俳諧と称した。60代半ばに隠居し間之町松原の花咲亭に移り、80歳頃に柿園という別荘に雅客を集めたとされている。東山区本町通泉涌寺道上るの一橋小学校内に松永貞徳柿園址の石碑がある。

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妙満寺 本坊庭園 三宅安兵衛遺志碑とともに

清水成就院の庭園が再作庭されたのは元禄頃であるならば、 寛政11年(1799)に刊行された「都林泉名勝図会」の成就院の図絵1図絵2に掲載されることは可能である。ちなみに図絵2は本当に清水成就院の庭だろうか?現在の成就院にこのような風景は存在していないように思われる。

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妙満寺 本坊庭園 三宅安兵衛遺志碑 雪の庭 成就院
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妙満寺 本坊庭園 雪の庭 駒札

「都林泉名勝図会」以外の地誌の記述を確認しておく。大正時代に碓井小三郎が著した「京都坊目誌」(新修 京都叢書 第十七巻「京都坊目誌 下京 坤」(光彩社 1969年刊))では「本院の庭園は北方に在り。相阿弥の作と云ひ、又松永貞徳の指図に成れるものとも云ひ。小堀政一の補作せしものとも云ふ。」と記されている。雪月花云々の記述はないが初めて松永貞徳の名前が出てくる。
昭和に入って竹村俊則が著した「新撰京都名所圖會 巻1」(白川書院 1958年刊)では「室町中期の庭園を江戸初期に重修した池泉鑑賞式庭園である。」という説明に留め、作者名も雪月花云々も記していなかった。さらに後年に刊行した「昭和京都名所圖會 1洛東上」(駸々堂 1980年刊)でも、重森と同じく「都林泉名所図会」の、相阿弥作、小堀遠州補修説を紹介するが、結局作者は不明で「江戸初期に遠州系の誰かが、室町時代の庭園の地割を利用して作庭したものであろう。」と推測している。しかし脚注で雪月花三名園を紹介している。

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妙満寺 本坊庭園 ここから比叡山は見えない
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妙満寺 本坊庭園

次に妙満寺成就院である。岩倉幡枝に移る前の庭の写真や資料はほとんど見つからなかった。重森三玲は「日本庭園史大系」で「江戸中期 枯山水」と記しているだけなのでこれも松永貞徳の関与があったかは分からない。
碓井小三郎も「京都坊目誌」(新修 京都叢書 第十五巻「京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1968年刊))で、「〇成就院 同上。當院の林泉狭小なりと雖も。作庭玄妙に入り都下に名あり。元治兵燹後太に損せり。」と記し、松永の名も雪月花云々も出てこない。ただ、妙満寺成就院の庭がかなり狭かったことと甲子戦争の兵火でかなり傷んでしまったことが分かる。
竹村俊則は「新撰京都名所圖會 巻4」(白川書院 1962年刊)で、「境内南側に元塔頭四院があつて、このうち成就院の庭園は東山清水寺成就院の「月の庭」、北野成就院の「花の庭」とゝもに世に「雪の庭」といわれ、月雪花三名園の一として知られたが、戦時中の強制疎開でとりこわされた。」と説明している。ここにも松永が作庭したという記述がない。それ以上に重要なことがここに記されている。つまり岩倉幡枝に移転する前に妙満寺成就院には「雪の庭」は存在していなかったことが分かる。それならば現在の妙満寺方丈の庭はどこから移転してきたか?という疑問が生じる。1つの可能性は強制疎開で成就院を撤去する前に庭を寺町二条の妙満寺境内に移築した、もう1つの可能性は成就院以外に別の庭が妙満寺に存在したということではないだろうか。後者の場合でも寺町二条から庭を移したとは言えるが、現在の庭がかつての「雪の庭」というならば前者でなければならない。幸いのことに現在の庭に 雪の庭 成就院 大正十三年秋故三宅安兵衛依遺志建之 の石碑が残されている。大正13年(1924)に石碑が寺町二条に建立されたならば、間違いなく妙満寺成就院内にあったはずである。そしてこの石碑が強制疎開後も残っていたのであれば「雪の庭」も石碑と共に移築された可能性があるのではないだろうか?
再び竹村は「昭和京都名所圖會 3洛北」(駸々堂 1982年刊)で岩倉幡枝に移ったあとの雪の庭について、「[雪の庭]は元塔頭成就院の庭を称したが、現在は本坊内にほぼもとのままに移されている。」と記している。もう少し分かり易い説明の方法があったのではないかと思う。そして竹村は下記のように庭をさらに説明している。

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妙満寺 本坊庭園
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この庭は近世初頭の俳人松永貞徳が作ったといわれ、東山清水寺の成就院の「月の庭」、北野成就院の「花の庭」に対し、本庭を「雪の庭」といい、三者並べて雪月花の三名園ともてはやされた。豪放な石組を主とした枯山水の庭園は比叡山を借景とし、その名に恥じない雄大な景観を呈している。

竹村はここで「新撰京都名所圖會」にはなかった松永貞徳作庭の可能性を述べている。また比叡山を借景としているとあるのは岩倉幡枝に移転してからのことであり寺町二条の説明ではないようだ。

色々と書籍を漁って書いてきたが、ここで纏めておく。
「雪月花の名園」の呼び方は江戸時代からあったのかもしれないが、地誌の上には少なくとも戦前にはなかった。少なくとも昭和の終わりになって一般化したように思われる。また松永貞徳によるということも寺伝等にはあったのかもしれないが、地誌には清水成就院で碓井が「又松永貞徳の指図に成れるものとも云ひ。」という伝聞を記すのみであった。実際のところ絵画や彫刻よりも、誰が作庭したか?を明らかにすることは困難であり、その分寺伝によるとという言い方が多くなるのは致し方ないことである。「松永貞徳による」という謂い方も「雪月花の名園」とセットで出回り始めたようにも見える。つまり3つの庭に共通すること、それは俳人の松永貞徳が手掛けたという説が加わることでより訴求力(インパクト)が増したのであろう。

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妙満寺 本坊庭園

ここからは妙満寺の「雪の庭」を見て行く。もともとの妙満寺成就院の位置と大きさは、s_minagaさんの什門流総本山妙満寺に所収されている妙満寺境内外区別取調2を見ると分かる。成就院の敷地面積133坪5勺は約440m2程度である。建物と庭の面積比が50%と50%としても20m×10mの70坪に満たない庭しか設けることができなかったと想像される。碓井の云う「當院の林泉狭小」とはこのことであろう。恐らく実際の庭はさらに小規模であったと思われる。また京都市明細図に加筆した寺町二条妙満寺を見ると庭は南側(現在の押小路通側)に配されていた。つまり北側の建物から南側の庭園を眺めるように作られていた。この角度では庭の借景として比叡山を望むことはできない。重森の「比叡山を背景にした庭園であるから、借景の雪景色から見立てたものである。」は岩倉幡枝に移ったあとのことで寺町二条の話ではない。もし江戸時代から「雪の庭」という呼び方があったならば、それは借景ではなく庭自体を比叡山に見立てたのであろうか。いずれにしても大正13年(1924)には、三宅安兵衛依遺志として「雪の庭 成就院」(「木の下蔭」では松永貞徳翁造庭雪の庭の碑)の石碑が建立されているので一般的であったかは別として、そのような呼称がすでに存在していたのは事実である。
現在の「雪の庭」はかなり広い。妙満寺の説明によればもとの庭園と比較すると約3倍の面積になったとある。この内の方丈正面の庭、丁度2つの石灯籠で挟まれた台形型の部分がかつての庭のように見える。この庭の周りには白砂を敷いているので現在の庭園の面積に馴染ませて大きく見せることはしていない。方丈の縁側に近い部分には小振りの石を延段のように配置しアクセントを与えている。この部分は建物の軒先にあたるので、雨水によって庭が損なわれることがないようにこのような意匠にしたのではないかと思われる。2022年、この庭に対して大規模な修繕を行っている。その際にこの延段は無くなったという記述をどこかのHPで見かけたが、確かに路地でないのでこのような意匠にする必要もないし、なんか元の庭に装飾性の強い額縁を付けたようにも見える。ちなみに今回の修繕で、移築以来50年が過ぎているので石組のいたみ等の直しだけでなく苔地や樹木の見直しも行ったようだ。改修前と後を比較する写真や記述がないので、はっきりしたことは言えないが、どうも改修前より庭全体の白砂を敷き詰めた部分の面積を狭め、苔の多い庭に変えたように思う。ある意味で移築から50年も経過しているので、元の庭を引き立てるのではなく、現在の庭としての一体感を優先したのかもしれない。
よく岩倉幡枝の「雪の庭」は比叡山を借景にしていると謂われているが、実際に移築された庭の後ろの正面は一条山という丘陵地の南端の稜線である。本堂から比叡山を見ると山門と一条山の右側に見えるが、直接、「雪の庭」から比叡山は見えないと言ってもよいだろう。この一条山、京都では正式な名前よりモヒカン山といった方が通りがよいらしい。t.okunoさんの第二京都主義に2011年に書かれた岩倉のモヒカン山というエントリーがありますので、興味のある方ははそちらをご参照ください。この地で宅地開発が始まったのが1981年とあるので妙満寺が引っ越してきた昭和43年(1968)より後のようだ。流石に寺院側から見える範囲の伐採はなかったようだが、北東部を思いっきり刈上げた結果、木野駅前からはモヒカン頭のように見えた。当然、住民訴訟が起こり17年間も揉めたため、そのままモヒカンな状態が長く続いてしまった。その後、緑地率を引き上げる等の歩み寄りがなされ、現在は山の北東側は木野駅前3分の高級住宅地となっている。妙満寺本坊から見えるのはこの一条山の南端部分である。もしこの時、南端まで刈上げてしまったら今のような景観は残らなかっただろう。
「雪の庭」は、実質的には一条山を借景としているが、庭と借景とつなぐため東側にかなりの数の高木を配しているが、庭全体の印象からするとかなり違和感が残る。もともとごくごく小さな庭を移築したのだから、このような大げさなことをしなくても、という感じである。この点も2022年の修繕で手を入れたようなので次回は確認してみたいと思っている。

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妙満寺 本坊庭園
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妙満寺 本坊庭園

ちなみに明治初年に廃されたとされる北野成就院も、令和4年(2022)に北野天満宮内に「花の庭」として再興された。これで再び「雪月花の三庭苑」が戻ったことになる。七福神巡りを始め昔から日本人はセット物販売に弱い。一つを見たらあとふたつを見なければ終わらないと考えてしまう。そこが分かっているからMKタクシーはわざわざ勉強会を開いているのである。そこにご丁寧なことに「松永貞徳作」が付けられる。どうもこの一言は、さらに商品価値を上げる仕組みになっているようだ。恐らく江戸時代からずっとこのような売り込み(宣伝)が続いてきたのであろう。

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妙満寺 本坊庭園

「妙満寺 本坊庭園」 の地図





妙満寺 本坊庭園 のMarker List

No.名称緯度経度
赤●01  妙満寺 山門 35.0675135.7752
02   妙満寺 鐘楼 35.0674135.7751
03  妙満寺 本堂 35.0674135.7741
04  妙満寺 仏舎利大塔 35.0673135.7745
05  妙満寺 成就院 35.0672135.7747
06   妙満寺 正行院 35.0673135.7749
07   妙満寺 法光院 35.0672135.7753
08   妙満寺 大慈院 35.0672135.7755
09  妙満寺 本坊方丈 35.0677135.7746
10  妙満寺 本坊方丈庭園 35.0677135.7748
11  妙満寺 本坊大書院 35.068135.7748
12   妙満寺 信行道場 35.0683135.7745
13  妙満寺 中川ノ井 35.0675135.7747

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