カテゴリー:洛中
京都御苑 学習院跡
京都御苑 学習院跡(きょうとぎょえん がくしゅういんあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 学習院跡 京都御所の建春門(日御門)の東側に学習院跡の木標が建っている。江戸時代末期に公家の子弟のための教育機関として開設された学習院学問所がかつてこの地にあったことを示している。7世紀後半の律令制のもとに大学寮が作られたている。しかし治承元年(1177)の安元の大火(太郎焼)で焼失すると以降再建されることは無かった。江戸時代後期に閑院宮出身の光格天皇が即位すると、朝廷の儀式の復旧に取り組み石清水社や賀茂社の臨時祭の復活を果たしている。さらに天皇は平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の… ►続きを読む
京都御苑 一条邸跡
京都御苑 一条邸跡(きょうとぎょえん いちじょうていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 一条邸跡 京都御所の西北にある皇后門の西側に一条邸跡の木標が建つ。文久3年(1863)に作成された内裏図には、乾御門を挟んで近衛邸の南西の地に、一条邸が近衛邸とほぼ同じ大きさで描かれている。天保年間(1830~44)の五摂家の石高は、九条家3000石、近衛家2860石、一条家2044石、二条家1708石、鷹司家1500石であった。さらに時代の下った慶応4年(1868)の「改正京町御絵図細見大成」から、近衛家2860石余、一条家が2044石余、九条家が2043石、二条家1708石余、鷹司家は1… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡 その5
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その5 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 月照に続いては近衛家の老女で有志達と堂上方の調整役を果たした津崎矩子、すなわち村岡局について見て行く。 梅田雲浜が西郷吉之助と伊地知正治に送った安政5年(1858)2月29日と考えられている書簡(「西郷隆盛全集 第五巻」(大和書房 1979年刊)の三)に近衛家の老女・津崎矩子村岡が出てくる。 陽明家は御手を廻され候や。彼の家中大夫皆愚物のよし、老女村岡と申す婆これあり、此の人物欲は深く候得共、理非の能く分かり候器量者にて、女丈夫也。陽明家の清少納言と申し、此の者の事をば、左府公能… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡 その4
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 京都御苑 近衛邸跡 その3では、幕末の近衛家の当主である近衛忠煕の経歴と戊午の密勅の降下後から安政の大獄が始まるまでの間に近衛家が関わった政治活動を薩摩藩士・西郷隆盛を中心に書いてみた。ここからは月照と津崎村岡の活動と、近衛忠煕の落飾後のことについて見て行く。 月照は文化10年(1813)大阪の町医者・玉井宗江の子として生まれている。俗名は宗久。父に伴われ叔父の蔵海が住持する成就院に文政8年(1825)と翌9年(1826)に訪れている。そして文政10年(1827)1月14日に上京… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡 その3
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 幕末期に近衛家の当主となったのは第27代の近衛忠煕である。文化5年(1808)に左大臣・近衛基前の子として生まれている。鷹司政通が寛政元年(1789)、九条尚忠が寛政10年(1798)、三条実萬が享和2年(1802)、鷹司輔煕が文化4年(1807)、青蓮院宮が文政7年(1824)、そして孝明天皇が天保2年(1831)に生まれている。つまり忠煕は鷹司政通と九条尚忠の次の世代にあたり、三条実萬や鷹司輔煕とはほぼ同じ頃に生まれ、青蓮院宮と孝明天皇よりは一回り上の世代にあたる。 忠煕は文… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡 その2
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 京都御苑 近衛邸では、平安時代に造営された近衛室町の近衛殿から、上立売新町の近衛殿桜御所、本能寺の変の戦場となった二条新造御所の北隣の近衛前久邸、そして現在の京都御苑東北角にある今出川・近衛邸跡に至る変遷と近衛基実から始まる初期の近衛家について書いてみた。この項では室町時代から戦国時代に至る近衛家の当主達について見てみる。 近衛家第14代当主となった近衛尚通は文明4年(1472)に近衛政家の子として生まれている。文明14年(1482)に元服、当時の室町幕府第9代将軍・足利義尚より… ►続きを読む
京都御苑 近衛邸跡
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡 近衛家の幕末の状況を記す前に、九條家に次ぐ五摂家の一つである近衛家の歴史を見て行く。 九条家が藤原北家九条流嫡流で藤原忠通の六男・九条兼実を祖とするのに対して、近衛家は四男の近衛基実が祖となっている。保元3年(1158)近衛基実は藤原忠通に次いで藤氏長者となっているが、これが藤原氏分家出身で最初の長者となるため、近衛家が五摂家の筆頭という扱いになっているようだ。ちなみに九条兼実が長者となるのは文治2年(1186)のことで、基実との間には松殿基房 、近衛基通、松殿師家の名が並ぶ。基実以降… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その7
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その7 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡 厳島神社 長野主膳と大老・井伊直弼に共通する考え方は、現状が自らの望み通りになっていない裏には敵対する勢力の陰謀が存在するというものであろう。この敵対勢力を排除するには力の行使が必要であり、それを正当化するために関連する風聞を積極的に集めるという手法であった。井伊大老は長野主膳がもたらす京状報告を以って、関東において処断を下すことになっていたが、長野の上京以前から一連の騒動の原因は水戸藩にあり、水戸の入説に従って三公と三条前内大臣そして青蓮院宮が動いているというシナリオを用意し… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その6
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その6 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡九条池 2008年5月17日撮影 九條邸跡 その2から、その5までを使い、老中・堀田正睦の条約勅許活動から条約締結、そして戊午の密勅の降下の経緯を書いてみた。この安政5年(1858)1月から8月までの凡そ8ヶ月間の中でも、特に4月23日の井伊直弼の大老就任、6月25日の紀州藩主徳川慶福への継嗣決定、そして7月6日の将軍・徳川家定の薨去が大きな変更点となった。それに伴い、関東の政治手法も阿部・堀田時代から大きく変わることとなった。井伊直弼にとっての誤算は、日米通商条約の締結が想像… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その5
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その5 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡高倉橋と九条池 2008年5月17日撮影 安政5年(1858)2月5日に着京した老中・堀田正睦は、ほとんど何も得ることなく、4月5日に京を去っている。幕府の要請を受けて条約勅許についての落とし所を探っていた関白・九条尚忠も孝明天皇の開国拒絶の強い意思のもとには、何をすることも叶わなかった。条約勅許については、主上と青蓮院宮、鷹司太閤、近衛左大臣、鷹司右大臣そして三条前内大臣の完全な勝利であった。しかし世子問題では一橋慶喜の名を出すこともなく、ただ張紙に「年長の人を以」の六字を加… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その4
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡拾翠亭 2008年5月17日撮影 安政5年(1858)3月、関白・九条尚忠は老中・堀田正睦に対する勅答草案(第一案)を作成し、3月11日を以って宮中上層部の了承を得た。後は14日に堀田に渡す段取りとなっていた。勅答草案の内容は、既に京都御苑 九條邸跡 その3で書いたように、「何共御返答之被レ遊方無レ之、此上ハ於二関東一可レ有二御勘考一様御頼被レ遊度候事」であり、幕府が望んだとおりの一任であった。 ほぼ決したと思われた3月12日、廷臣八十八卿列参事件が発生する。つまり政治的発言力… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その3
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條池と拾翠亭 文政6年(1823)以来30余年関白職にあった鷹司政通も、ついに安政3年(1856)8月8日、左大臣・九条尚忠に明け渡している。それでも内覧の権限を引き続き保持し、太閤の称号を手に入れたことによって、政通にとって大きな権勢の衰退はなかった。しかし安政5年(1858)正月の条約勅許に至り、孝明天皇と決定的な外交方針の違いが明らかになる。2月22日の久しぶりの出仕で自らの考えを主張し、一時は拒絶一色の宮中を幕府一任に覆すも、主上の方針を変更させるには到らなかった。この日の意見… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡 その2
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡 京都御苑 九條邸跡では、五摂家の成り立ちから幕末期の九条家の当主となった九条尚忠までを書いてきた。ここでは安政5年(1859)正月に行われた条約勅許交渉までの政治の動向について見て行く。 九条尚忠は寛政10年(1798)に左大臣・二条治孝の子として生まれている。実兄の権大納言・九条輔嗣に養育されたが、その輔嗣が文化4年(1807)に24歳で薨去しているので、それ程長い期間ではなかったようだ。 この当時宮中では、文政6年(1823)の就任以来、鷹司政通が関白職にあった。5年から長… ►続きを読む
京都御苑 九條邸跡
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡と高倉橋 京都御苑の各所には、その場所の歴史を説明する木標や駒札が設置されている。例えば橋本邸跡は和宮親子親王、中山邸跡も明治天皇が生まれ育った地であるので、木標が建てられているのだろう。五摂家に次ぐ九清華家で木標が建てられているのは、どうやら西園寺邸跡だけのようだ。これは西園寺公望が後に総理大臣になったからなのか?駒札からは以下のようなことが分かる。西園寺家が琵琶の宗家であること、現在の金閣寺の地に別荘北山堂を持ち妙音堂が既に建てられていたこと、この地へは明和6年(1769)に引っ越… ►続きを読む
京都御苑 西園寺邸跡
京都御苑 西園寺邸跡(きょうとぎょえん さいおんじていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 西園寺邸跡 五摂家に次ぐ九清華家のひとつである西園寺家の歴史については、既に鎮守社でもある京都御苑 白雲神社において説明している。清華家は源氏の系統に属する久我、広幡と藤原氏の系統である三条(転法輪)、西園寺、徳大寺、花山院、第炊御門、今出川(菊亭)、醍醐に分けることができる。西園寺家は藤原北家閑院流の一門で一条家の家礼であり、三条、徳大寺とは全くの同門となる。つまり太政大臣藤原公季の孫の藤原公実の次男・太政大臣三条実行が初代となったのが三条家で、三男・権中納言西園寺通季を祖とするのが西園… ►続きを読む
京都御苑 中山邸跡
京都御苑 中山邸跡(きょうとぎょえん なかやまていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 中山邸跡 年末年始の特集ということで、京都の地図を3回(その2・その3)にわたって書いてみました。GoogleMapやYahooMapなどのオンライン地図は非常に便利ですが、いざオフライン環境で地図を持って歩こうとすると結構大変なことになるという実験になってしまいました。ただもう少し改善する余地はあると思うので、いつかの機会にまた報告してみたい。 さて2014年6月以来書いてきた京都御所と京都御苑について、さらに書き続けて行く。次第に幕末史に触れることが多くなってきたが、最終的には甲子戦争と京… ►続きを読む
京都御苑 橋本邸跡
京都御苑 橋本邸跡(きょうとぎょえん はしもとていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 橋本邸跡 伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院の四世襲親王家と賀陽宮邸跡に次いで、公家邸跡を巡る。最初の橋本邸跡は京都迎賓館の西側、学習院の北側、御所の東側築地に面する位置にある。 橋本家は藤原北家閑院流、西園寺流の公家で西園寺公相の子西園寺実俊を祖とする。その創設は鎌倉時代末期に遡る。実俊は冷泉、橋本、入江などを称していたが、孫の橋本実澄の代から橋本の家名が定まる。6代目の橋本公国まで父子相続が続いたが、公国に跡継ぎがなかったため同じ西園寺家一門の清水谷家から橋本公夏が養子に入った。公夏は播磨国で出… ►続きを読む
京都御苑 貽範碑
京都御苑 貽範碑(きょうとぎょえん いはんひ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 貽範碑 2014年10月8日撮影 京都御苑 賀陽宮邸跡 その3で記したように明治元年(1868)8月16日、朝彦親王は広島に流謫されている。奇しくも文久3年(1863)8月18日から丁度15年となる2日前の出来事であった。翌3年(1870)閏10月20日の見邸帰還までの凡そ2年間を広島で過ごしたことになる。人より疎まれていると感じていた親王が冤罪と訴えることなく広島に去って行った背景には、恐らく安政の大獄で感じ得たものがあったと思う。 賀陽宮邸跡には昭和6年(1931)に貽範碑が建てられている。貽範と難… ►続きを読む
京都御苑 賀陽宮邸跡 その3
京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡 貽範碑 京都御苑 賀陽宮邸跡 その2が条約勅許と将軍継嗣問題の行方で紙数が尽きた。ここでは更に進めて朝彦親王を中心とした安政の大獄について書いてみる。 安政5年(1858)4月23日、彦根藩主・井伊直弼は大老が就任すると、翌24日には堀田正睦をハリスに会見させ条約調印の延期を申し込んでいる。そして25日に調印期日を7月27日まで延期することに成功する。6月朔日、幕府は養君一件を公式に発表するが、誰を世子としたかは明かさなかった。幕府閣僚たちが世論の反発を憚ったためであるが… ►続きを読む
京都御苑 賀陽宮邸跡 その2
京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡 2014年10月8日撮影 京都御苑 賀陽宮邸跡では安政年間に入るまでの朝彦親王の事蹟について書いてきた。ここでは親王の周囲に集まってきた有志の人々とそれが親王自身に与えた影響について考えてみる。 「野史台 維新史料叢書 雑3」(東京大学出版会 1975年刊)に所収されている「唱義聞見録」によれば、池内大学は四条通の商家に生まれ、儒学者で書家そして文人画家の貫名海屋に学ぶ。その学問詩文は人の知るところとなり、知恩院宮尊超親王に仕えるようになる。宮に従い関東に下り3年を過ご… ►続きを読む