徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:徘徊の記憶Blog

京都御苑 西園寺邸跡

 

京都御苑 西園寺邸跡(きょうとぎょえん さいおんじていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 西園寺邸跡  五摂家に次ぐ九清華家のひとつである西園寺家の歴史については、既に鎮守社でもある京都御苑 白雲神社において説明している。清華家は源氏の系統に属する久我、広幡と藤原氏の系統である三条(転法輪)、西園寺、徳大寺、花山院、第炊御門、今出川(菊亭)、醍醐に分けることができる。西園寺家は藤原北家閑院流の一門で一条家の家礼であり、三条、徳大寺とは全くの同門となる。つまり太政大臣藤原公季の孫の藤原公実の次男・太政大臣三条実行が初代となったのが三条家で、三男・権中納言西園寺通季を祖とするのが西園… ►続きを読む

 

京都御苑 中山邸跡

 

京都御苑 中山邸跡(きょうとぎょえん なかやまていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 中山邸跡  年末年始の特集ということで、京都の地図を3回(その2・その3)にわたって書いてみました。GoogleMapやYahooMapなどのオンライン地図は非常に便利ですが、いざオフライン環境で地図を持って歩こうとすると結構大変なことになるという実験になってしまいました。ただもう少し改善する余地はあると思うので、いつかの機会にまた報告してみたい。 さて2014年6月以来書いてきた京都御所と京都御苑について、さらに書き続けて行く。次第に幕末史に触れることが多くなってきたが、最終的には甲子戦争と京… ►続きを読む

 

京都の地図 その3

 

京都の地図(きょうとのちず)その3 京都の地図 Kindle Fire HD上の地図  京都の地図と京都の地図 その2で、地図を作る上で取り扱うデータについて説明した。ここでは実際に地図上に表示するまでのことを書いておく。 本ブログで使用している地図のデータは全てFilemakerで管理している。ただ座標情報を保存するだけならばExcelでも十分だが、写真や説明文などを合わせるならば、リレーショナルを組むことの出来るデータベースを使用する方が二重入力や重複データを防止する上で有効である。データベースの詳細な構造を書くことがこのブログの目的ではないので、簡単な説明に留めておく。テーブルは、… ►続きを読む

 

京都の地図 その2

 

京都の地図(きょうとのちず)その2 京都の地図 「新撰京都名所図会」  京都の地図では、オリジナルの地図を作ることとなった経緯とフィールド・ミュージアム京都と「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)を加え、史跡石標・道標と寺院神社のデータベースを作成するところまで説明した。この項ではさらに追加した情報について書いてみる。 「京都観光navi」は京都市産業観光局が運営するサイトで、寺院・神社、観光施設、文化・歴史・自然、年間行事、食事・宿泊・買い物、駒札、催し、伝統行事、コンサート、美術展の10カテゴリーに分類された情報を地図上に表示するシステム。特に駒札は、京都市の建てた駒… ►続きを読む

 

京都の地図

 

京都の地図(きょうとのちず) 京都の地図  2015年の最初の更新として、地図について書いてみます。 京都御苑 縣井で少し触れましたが、昨年2014年10月に長期間の休みを頂くことが出来、再び京都を訪れました。2008年5月の休暇に京都へ出かけたことが、このブログを始める契機となりましたが、それ以来の訪問となるため、それなりの準備を2014年4月から行ってきました。京都御所 その7を書いたのが7月6日で、それ以降旅行が終了するまでの3ヶ月間はいろいろな用意のため忙殺されブログの更新を見合わせることとなりました。ここではその間に行ってきたことを少し書いてみます。 京都の地図 本ブログ右… ►続きを読む

 

京都御苑 橋本邸跡

 

京都御苑 橋本邸跡(きょうとぎょえん はしもとていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 橋本邸跡  伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院の四世襲親王家と賀陽宮邸跡に次いで、公家邸跡を巡る。最初の橋本邸跡は京都迎賓館の西側、学習院の北側、御所の東側築地に面する位置にある。 橋本家は藤原北家閑院流、西園寺流の公家で西園寺公相の子西園寺実俊を祖とする。その創設は鎌倉時代末期に遡る。実俊は冷泉、橋本、入江などを称していたが、孫の橋本実澄の代から橋本の家名が定まる。6代目の橋本公国まで父子相続が続いたが、公国に跡継ぎがなかったため同じ西園寺家一門の清水谷家から橋本公夏が養子に入った。公夏は播磨国で出… ►続きを読む

 

京都御苑 貽範碑

 

京都御苑 貽範碑(きょうとぎょえん いはんひ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 貽範碑 2014年10月8日撮影  京都御苑 賀陽宮邸跡 その3で記したように明治元年(1868)8月16日、朝彦親王は広島に流謫されている。奇しくも文久3年(1863)8月18日から丁度15年となる2日前の出来事であった。翌3年(1870)閏10月20日の見邸帰還までの凡そ2年間を広島で過ごしたことになる。人より疎まれていると感じていた親王が冤罪と訴えることなく広島に去って行った背景には、恐らく安政の大獄で感じ得たものがあったと思う。 賀陽宮邸跡には昭和6年(1931)に貽範碑が建てられている。貽範と難… ►続きを読む

 

京都御苑 賀陽宮邸跡 その3

 

京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡 貽範碑  京都御苑 賀陽宮邸跡 その2が条約勅許と将軍継嗣問題の行方で紙数が尽きた。ここでは更に進めて朝彦親王を中心とした安政の大獄について書いてみる。 安政5年(1858)4月23日、彦根藩主・井伊直弼は大老が就任すると、翌24日には堀田正睦をハリスに会見させ条約調印の延期を申し込んでいる。そして25日に調印期日を7月27日まで延期することに成功する。6月朔日、幕府は養君一件を公式に発表するが、誰を世子としたかは明かさなかった。幕府閣僚たちが世論の反発を憚ったためであるが… ►続きを読む

 

京都御苑 賀陽宮邸跡 その2

 

京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡 2014年10月8日撮影  京都御苑 賀陽宮邸跡では安政年間に入るまでの朝彦親王の事蹟について書いてきた。ここでは親王の周囲に集まってきた有志の人々とそれが親王自身に与えた影響について考えてみる。  「野史台 維新史料叢書 雑3」(東京大学出版会 1975年刊)に所収されている「唱義聞見録」によれば、池内大学は四条通の商家に生まれ、儒学者で書家そして文人画家の貫名海屋に学ぶ。その学問詩文は人の知るところとなり、知恩院宮尊超親王に仕えるようになる。宮に従い関東に下り3年を過ご… ►続きを読む

 

京都御苑 賀陽宮邸跡

 

京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡  出水の小川の苑路を挟んで東側に貽範碑と賀陽宮邸跡の駒札が残されている。西側の烏丸通からこの一帯にかけて、かつての朝彦親王の邸宅があった。そしてその庭に榧の巨木があったことから賀陽宮と称したとある。親王は青蓮院門跡、天台座主をつとめ孝明天皇の信任厚く天皇を助けてきたが、その公武合体政策は尊皇攘夷派から敵視され、明治維新後は広島に移されたと駒札は記している。最後に貽範碑建設に名を連ねた梨本宮守正王が朝彦親王の第4王子であることを付け加えている。 中川宮朝彦親王が元治元年(1864)… ►続きを読む

 

京都御苑 閑院宮邸 その2

 

京都御苑 閑院宮邸(きょうとぎょえん かんいんのみやてい) 2010年1月17日訪問 京都御苑 閑院宮邸  四世襲親王家の最後は、東山天皇の第6皇子・直仁親王が享保3年(1718)正月に創設した閑院宮。すでに2008年5月に京都御苑 閑院宮邸として一度書いているのでそちらもご参照下さい。 閑院宮の宮号は霊元上皇より賜ったものであるが、清和天皇の皇子・貞元親王の号であった閑院に由来する。宮家創設にあたっては新井白石の建議があった。すなわち、伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧されるならば天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべき… ►続きを読む

 

京都御苑 有栖川宮邸跡

 

京都御苑 有栖川宮邸跡(きょうとぎょえん ありすがわのみやていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 有栖川宮邸跡 現在の猿ヶ辻も元治元年までは有栖川宮邸内  有栖川宮は後陽成天皇の第7皇子・好仁親王によって寛永2年(1625)に創設されている。当初の宮号は高松宮で、親王の祖母・新上東門院の御所である高松殿に由来する。好仁親王は、福井藩主松平忠直の娘で徳川秀忠の養女となった寧子を妃とした。寧子は明子女王と女二宮の二女をもうけたものの嗣子はなかった。好仁親王は寛永15年(1638)に薨じたためしばらく空主となる。 正保4年(1647)11月、後水尾天皇の第8皇子・良仁親王が明子女王を娶… ►続きを読む

 

京都御苑 桂宮邸跡

 

京都御苑 桂宮邸跡(きょうとぎょえん かつらのみやていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 桂宮邸跡  京都御苑内に残る親王家、摂関家とその他の公家の邸宅跡を見て行く。先ずは、伏見宮、有栖川宮、閑院宮、桂宮の四世襲親王家について。そもそも世襲親王家とは、江戸時代においては代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた上記の四つの宮家をいう。しかし世襲親王家のシステム自体の歴史は古い。院政期以降、天皇の子女で親王宣下を受けられない者には、臣籍降下をするか出家する道しかなかった。 しかし鎌倉時代に入ると、いくつかの宮家が新たに成立するようになる。第84代順徳天皇の皇子忠成王を祖とす… ►続きを読む

 

京都御苑 桜町 その2

 

京都御苑 桜町(きょうとぎょえん さくらまち)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 桜町 紀氏遺蹟碑 2014年10月8日撮影  京都御苑 桜町では、いくつかの地誌から、紀貫之邸は中御門北、万里小路東の左京一条四坊十二町、あるいは勘解由小路北、富小路東の左京一条四坊十四町にあったと考えられてきた。ここでは、紀氏遺蹟碑が残る仙洞御所の阿古瀬淵と紀貫之との関係についてみてゆく。 紀氏遺蹟碑の建つ仙洞御所の地には、かつて豊臣秀吉の京都新城があったと考えられている。聚楽第破却後の豊臣家の京における拠点として、慶長2年(1597)4月末から京都新城の建設が始まっている。既に、京都御所 その3… ►続きを読む

 

京都御苑 桜町

 

京都御苑 桜町(きょうとぎょえん さくらまち) 2010年1月17日訪問 京都御苑 桜町  博覧会場跡の駒札のある富小路広場に紀貫之邸跡を説明する駒札も建てられている。 京都御苑 その他の邸宅 その3でも記したように、平安京左京一条四坊十二町にあたる。この地に平安時代前期の歌人・紀貫之の邸宅が所在したことは「拾芥抄」の下記の記述に従っている。 桜町 同(中御門北)万里小路東 南庭多桜樹故号 歌仙貫之之家  貫之が南庭に桜樹を多く植えたことから、この名が付いたとしている。駒札の説明では、源氏物語の末摘花の邸宅、桐壺帝の麗景殿女御とその妹花散里の暮らしていた中川邸、源氏が空蝉と出会った紀伊守… ►続きを読む

 

京都御苑 博覧会場跡 その2

 

京都御苑 博覧会場跡(きょうとぎょえん はくらんかいじょうあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 博覧会場跡地  明治14年(1881)の第十回からは現在の富小路広場で常設博覧会場として行われた。これは大宮御所が取り壊されることとなり、新たな会場を用意しなければならなかったためである。 「京都区分一覧之図、改正、附リ山城八郡丹波三郡」は明治9年(1876)の状況を現わした地図でまだ公家町が残っている。大内保存事業は明治10年(1877)に行われた明治天皇大和国並京都行幸以降の事である。明治18年(1885)の「明治新刻京都区組分細図」には既に博覧会場が描かれている。ただし明治2… ►続きを読む

 

京都御苑 博覧会場跡

 

京都御苑 博覧会場跡(きょうとぎょえん はくらんかいじょうあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 博覧会場跡地  富小路口から京都御苑に入った先に、大きく開けた富小路広場が広がる。この広場内に博覧会跡の駒札が建つ。  明治時代に入り新しい国家を支えるためには、人材と共に国家の基盤となりうる産業自体を育成していかなければならなかった。東京奠都後、特に経済的な退廃を強く感じていた京都府にとって、産業育成は特に重要な課題となっていた。そのため京都府における勧業政策の展開は、他の都市や地域と比べても早く、より積極的なものであった。後に第2代京都府知事となる槇村正直は、明治元年(1868)より… ►続きを読む

 

京都御苑 出水の小川 その3

 

京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 出水の小川 2014年10月8日撮影  京都御苑 出水の小川では御所水道敷設について、京都御苑 出水の小川 その2では平安京造営以降の東北部の水環境と禁裏御用水の成立までを書いた。ここでは第一疎水の完成によって禁裏御用水がどのように変わったかについて書くこととする。 東京極大路の外側を南北に流れる中河の姿は源氏物語にも現われる。しかし平安時代後期から末期にかけて、中河は流れを失っていたと考えられている。そして流れを再現するため、東洞院川を北小路と一条大路の2箇所で旧中河に結び付けたのが今出… ►続きを読む

 

京都御苑 出水の小川 その2

 

京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 出水の小川  京都御苑 出水の小川では本願寺水道など話しが少し横道に逸れてしまった。そのため御所の防災対策については説明できたものの御用水について触れることができなかった。ここでは御所水道敷設以前の御所で使用する水をどのように確保してきたかについて書いてゆく。 現在の京都御所の元となった土御門東洞院殿は、権大納言藤原邦綱の邸宅で平安京北辺四坊二町に所在した。もともと邦綱は藤原北家良門流に属する下級官人の出であった。文章生から蔵人になる一方で、藤原忠通の家司として頭角を現わし、和泉、越後、伊… ►続きを読む

 

京都御苑 出水の小川

 

京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 出水の小川  出水口より京都御苑に入ると右手にせせらぎが見える。傍らに立つ駒札には出水の小川と記されている。明治時代に御所の防火用水を確保するため、琵琶湖疏水を使用した御所水道が作られている。出水の小川は1981年に御所廻りの御溝水から導水して作られたせせらぎである。しかし1992年の御所水道が停止したため、井戸からくみ上げた地下水を循環ろ過して使用しているという。この情報だけではよく分からないので、御所で使われる水について少し調べてみる。 京都御苑 出水の小川  先ず、御所水道について触… ►続きを読む

 
 

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