文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 有栖川宮邸跡



京都御苑 有栖川宮邸跡(きょうとぎょえん ありすがわのみやていあと) 2010年1月17日訪問

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京都御苑 有栖川宮邸跡
現在の猿ヶ辻も元治元年までは有栖川宮邸内

 有栖川宮は後陽成天皇の第7皇子・好仁親王によって寛永2年(1625)に創設されている。当初の宮号は高松宮で、親王の祖母・新上東門院の御所である高松殿に由来する。好仁親王は、福井藩主松平忠直の娘で徳川秀忠の養女となった寧子を妃とした。寧子は明子女王と女二宮の二女をもうけたものの嗣子はなかった。好仁親王は寛永15年(1638)に薨じたためしばらく空主となる。
 正保4年(1647)11月、後水尾天皇の第8皇子・良仁親王が明子女王を娶り、高松宮第2代を継承している。良仁親王は花町宮と号した。しかし承応3年(1654)9月20日、後光明天皇が痘瘡により享年22で崩御する。その年の5月に生まれた末弟の高貴宮を養嗣子に入れ儲君としていたが、あまりにも幼いため承応4年(1655)11月28日、良仁親王が即位し第111代後西天皇となる。そのため高松宮は再び空主の時代を迎える。高貴宮は万治元年(1658)1月に親王宣下を行い、寛文2年(1662)12月に元服、10歳を迎えた寛文3年(1663)1月、後西天皇から譲位されて践祚している。
 寛文7年(1667)4月、後西天皇の第2皇子・幸仁親王が高松宮を継承している。寛文5年(1665)10月の穏仁親王の薨去に伴い、後西天皇統から新たな天皇が出すことはできなかった。既に後西天皇の第1皇子の長仁親王は八条宮を継承し第4代となっていたためである。幸仁親王が第3代を継いだ際に、後水尾上皇により宮号が有栖川宮に改められている。第4代は幸仁親王の王子である正仁親王が、元禄12年(1659)7月に相続している。宝永7年(1710)清閑寺熙定の女で徳川綱吉養女の竹姫と婚約したが、享保元年(1716)9月、婚儀を目前にして早世している。享年23。嗣子無くして薨じたため、同年10月に霊元上皇第17皇子で4歳の明宮が第5代として有栖川宮を相続し、親王宣下して職仁親王と称する。これ以後、順調に父子相続を続けていく。すなわち、第6代織仁親王が、宝暦13年(1763)10月に親王宣下を受け、ついで第7代韶仁親王は文化4年(1807)12月、光格天皇の御猶子とされて、翌5年(1808)3月に親王宣下を受けている。さらに第8代幟仁親王も文政5年(1823)11月、光格上皇の御猶子とされて、翌6年(1824)9月に親王宣下を受けている。

 第6代織仁親王の王女・幸子が長州藩第9代藩主・毛利斉房の正室に入るなど、有栖川宮は江戸時代末期において長州系の宮家とされてきた。安政5年(1858)3月12日の日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した廷臣八十八卿列参事件には連座しなかったものの、翌日には幟仁親王の王子である熾仁親王が単独で外交拒絶・条約批准不可の建白書を提出している。この建白書は「日本史籍協会叢書 野史台 維新史料叢書 上書1」(東京大学出版会 1974年覆刻)に有栖川中務卿幟仁親王上書として掲載されている。

中頃将軍家天下ニ令シ西洋邪宗ヲ厳ニ禁遏セリ今条約ヲ結ハ邪毒ノ病骨肉ニ入今拒絶セスンハ堂々タル神国永ク彼属下ニ成清潔ノ国土腥臭ノ穢地ト成事鏡ニ懸テ見ル如シ

 以上のような見方は、孝明天皇を中心とした朝廷内の考え方と一致していると思っても良いだろう。
 熾仁親王は、嘉永4年(1851)に孝明天皇の異母妹となる和宮親子内親王と婚約していた。しかし公武合体策の一環として和宮内親王の徳川家への降嫁が持ち上がり、この後の安政7年(1860)宮家から婚約の猶予願いを出さざるを得ない状況となった。内親王と徳川家茂の婚礼は多くの曲折を経て文久2年(1862)に行われている。
 元治元年(1864)5月9日、熾仁親王は幟仁親王とともに国事御用掛に任命されて朝政に参画する。国事御用掛は文久2年(1863)12月9日に、国事を議するために設けられた役職であり、有栖川宮父子は九条道孝、鷹司輔政と同日に追加任命された。この凡そ2ヵ月後に、いわゆる禁門の変と呼ばれる甲子戦争が発生する。「維新史料綱要 巻五」(東京大学出版会 1937年刊 1983年覆刻)の元治元年7月18日の条には下記のような記述がある。

是夕、中務卿幟仁親王・太宰師熾仁親王・権大納言大炊御門家信・前権大納言中山忠能・権中納言橋本実麗等、参内、萩藩士等ノ請願聴許ヲ議ス。後刻、弾正尹朝彦親王・常陸太守晃親王・関白二条斉敬・右大臣徳大寺公純・内大臣近衛忠房等、召ニ依リ参内、家信等ノ議ヲ不可トシテ大ニ諍フ。是夜深更、禁裏守衛総督徳川慶喜、亦召ニ依リ参内、形勢切迫ノ状ヲ聞ス。依テ遂ニ十九日早旦慶喜以下在京諸藩主ニ萩藩士等追討ノ宣旨ヲ下ス。

 幟仁親王を始めとして参内した面々は、1年前の七卿落ち以降、長州藩を支援する人々でもある。弾正尹朝彦親王は中川宮朝彦親王、常陸宮は山階宮晃親王のことである。既に追討の宣旨が下されることを覚悟していた長州勢は7月17日に男山八幡神社で軍議を開き、18日夜の天王山、天龍寺そして伏見からの進発を決していた。そして朝廷に向けて18日付で益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老連名の上書を出している。これは「防長回天史 第五編」(マツノ書店 1912年刊 1991年復刻)に掲載されている。上書は長文であるが下記の一文を見れば明らかである。

大官重職之肥後守には候得共僭越之罪は後日如何様御厳刑奉蒙候ても不苦 眼前神州之安危存亡に係り候 姦賊と相定候上は暫も猶予難仕候間 亡命輩引纏ひ国賊誅除謹て天幕之御指揮可奉侍と一決仕候間 何卒肥後守儀早々九門内を御逐払洛外へなりとも引退 尋常天誅を受候様被仰付 尚赫然宸怒被為遊国賊誅除之勅諚幕府并列藩へ被仰出度奉懇願候

 長州勢は幕府及び幕府側の諸藩を相手にはせず、敵を松平容保と会津藩に絞っている。その上で、津和野、小田原、宮津、浜田、膳所、水口などの諸藩への通告も行い、さらに長州浪士中と記した朝廷への上書、浜忠太郎、入江九一による幕府への上書、長戸国浪士 浜忠太郎名による諸藩邸への書を次々と発信している。浜忠太郎は真木和泉の変名である。
 討伐の対象を会津藩のみとすることにより、今回の戦争の長州勢の大義としたが、幕府と諸藩は禁裏に対する攻撃を暴挙として捉えて対応した。幟仁親王を始めとする長州藩支援者は、上書に従い会津藩を禁裏から放出することを主張したが、会津藩は当然とし徳川慶喜及び京都所司代、そして薩摩藩までが長州勢追討が妥当と決した。正親町三条実愛は、当日の様子を「日本史籍協会叢書 嵯峨実愛日記1」(東京大学出版会 1929年刊 1972年覆刻)に下記のように記している。

列参之輩右大臣以下憤怒退散了 其次第不憚朝憲臣子之分相立甚不当之至也 然而今夜混雑中故被宥怒此間既及五更了

 長州藩支援者が憤怒のあまり席を立った光景が目の前で行われたか如くである。

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京都御苑 有栖川宮邸跡
夷川別邸跡は京都市立銅駝美術工芸高等学校

 有栖川宮に関しては、上記のような不時参内とともに、禁門の変の裏側では因州、加州を巻き込んだ謀議が行われていた。馬屋原二郎演述の「元治甲子禁門事変実歴談」(防長学友会 1913年刊)によると長州藩と因州藩の間で内応する密約が結ばれており、一旦火蓋が切られたら、有栖川宮を奉じ鳳輦を叡山に移し奉り、その後に会津と桑名を討つというものであった。当時、有栖川宮邸は御所の東北角にあり、因州藩が宮邸の守衛を行っていたので、このような遷幸の計画も実現可能と思われた。文久3年に刊行された「内裏図」を見ると、現在の猿ヶ辻のあたりに有栖川宮邸があったことが分かる。 7月18日に因州邸に泊まった桂小五郎は、19日の朝に有栖川宮邸に向かう。しかし既に伏見そして宮闕での戦闘は始まり、密約は因州側から一方的に破棄されている。加州もまた藩内の親長州勢力が世子前田慶寧を担ぎ、鳳輦を守護することにより、間接的に長州藩を援助することを計画したとされている。そして19日の夜、慶寧は病と称して急遽京を出て帰国している。

 禁門の変の終結後、有栖川宮家は長州との通謀の疑惑をかけられ、同月27日には国事御用掛を罷免され、鷹司輔煕、正親町実徳、中山忠能等とともに参朝、他行及び面会を禁じられた。この謹慎は慶応2年(1866)12月25日の孝明天皇の崩御まで解かれる事がなかったことからも、孝明天皇の宸怒がいかに深かものであったかが分かる。さらに慶応元年(1865)6月には、御所の東北角にあった邸宅は御所拡張のために召し上げられ、現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校の場所にあった夷川別邸に転居している。慶応3年(1867)正月9日の明治天皇の践祚の儀が行われ、同25日に山階宮晃親王とともに幽閉が解かれている。父の幟仁親王は国事御用掛への再就任を辞退したが、子の熾仁親王は王政復古により新政府が樹立すると総裁に就任している。さらに戊辰戦争が勃発すると東征大総督として、新政府軍を率いて東海道を下り江戸に入る。

 幟仁親王が明治4年(1871)7月に60歳で隠居したことにより、熾仁親王が有栖川宮第9代となる。しかし親王に王子がないため、同11年(1878)に弟の威仁親王を継嗣と定めた。日清戦争勃発のため参謀総長として広島大本営にいたが、この地で腸チフスを発症し、兵庫県明石郡垂水村舞子の有栖川宮舞子別邸で静養に入る。症状は一旦軽快したものの翌明治28年(1895年)に入って再び悪化し、1月15日舞子別邸にて61歳で薨去。
 兄宮の薨去により、威仁親王が第10代を継いだが、明治41年(1908)継嗣としていた栽仁王に先立たれた上、大正2年(1913)7月5日に52歳で薨去した。300年近く続いた有栖川宮家はここに廃絶している。

 慶応4年(1868)刊行の改正京町御絵図細見大成(「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))では御所の南の凝華洞あたりに有栖川宮邸が見える。これは明治2年(1869)に新たに建設した邸宅である。「続日本史籍協会叢書 幟仁親王日記4」(東京大学出版会 1937年刊 1976年覆刻)に付けられている幟仁親王略年譜によると、同年4月16日に新邸内に鎮守社其清殿勧請の遷宮式を執り行い、19日に上棟式、5月1日に旧邸より梅本社願照神明を鎮守社に遷宮している。さらに同月3日に新邸が竣工したため移徒している。有栖川宮家も東京に転居するため、この新邸で過ごした期間はごく僅かであったと思われる。禁門の変において松平容保が宿泊した凝華洞の地を下賜されるとは歴史の皮肉を感じる。宮邸の土地家屋は京都府を経て司法省に引き継がれ、裁判所として使用された。明治12年(1879)に刊行された京都府区組分細図にも有栖川宮家の表記はなくなり裁判所となっている。その後、明治24年(1891)3月に烏丸通下立売の角に旧有栖川宮邸は移築されている。2007年まで京都地方裁判所所長官舎として使われてきたが、2008年8月、学校法人・平安女学院の所有となり、現在は伝統文化の教育や文化活動の拠点として活用されている。

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京都御苑 有栖川宮邸跡
凝華洞跡 明治以降に新邸が建設される

「京都御苑 有栖川宮邸跡」 の地図


大きな地図



京都御苑 有栖川宮邸跡 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  有栖川宮邸 旧地 35.0268 135.7637
02  有栖川宮邸 夷川別邸 35.0148 135.7703
03  有栖川宮邸跡 35.0268 135.7637

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