カテゴリー:200911
天龍寺 弘源寺
天龍寺 弘源寺(こうげんじ) 2009年11月29日訪問 天龍寺 弘源寺 虎嘯の庭 宝厳院の山門を潜り、紅葉の美しい参道を北に進むと再び法堂の前に出る。放生池の北側を東に進み、松巌寺、慈済院を過ぎると、毘沙門天の提灯を吊るした弘源寺の山門が現れる。 天龍寺 弘源寺 山門 永享元年(1429)あるいは文安3年(1446)6月、後に室町幕府管領となる細川持之が、玉岫禅師を開山として創建した寺院。寺名は、持之の院号による。細川持之は細川満元の次男として応永7年(1400)に生まれている。兄は細川持元で、応永33年(1426)父の満元の死去に伴い、細川京兆家の家督を継いだが、僅か3年後… ►続きを読む
天龍寺 宝厳院 その2
天龍寺 宝厳院(ほうごんいん)その2 2009年11月29日訪問 天龍寺 宝厳院 苦界と三尊石の庭移転した2002年に作庭されたと思われる 前回、宝厳院を訪れた時は、冬の夕暮れ時期であったため、光量の少ない写真しか撮影できなかった。特に亀山の東に広がる庭園は、日没も早い上に逆光になってしまう。そういう点でも天龍寺方丈庭園や宝厳院は午前中の早い時間に訪れるべき庭園だと思う。 天龍寺 宝厳院 天龍寺 宝厳院 天龍寺 宝厳院 前回も指摘した通り、宝厳院の変遷には明確でない点がある。Wikipediaに掲載されている宝厳院の記述に従うと、寛正2年(1461)室町幕府の管領… ►続きを読む
亀山陵 その2
亀山陵(かめやまのみささぎ)その2 2009年11月29日訪問 亀山陵 亀山天皇の亀山陵は、後嵯峨天皇の嵯峨南陵の左側に同じ檜皮葺宝形造の法華堂という形で並ぶ。 大覚寺や妙心寺 その3で同じことを書いてきたが、父の後嵯峨天皇によって作りだされた両統迭立により、亀山天皇は最初の大覚寺統の天皇となっている。第90代亀山天皇は建長元年(1249)後嵯峨天皇と中宮藤原姞子との間に第7皇子・恒仁親王として生まれている。正嘉2年(1258)正嘉の飢饉の最中に10歳で立太子。同母兄に第89代後深草天皇となる久仁親王、異母兄に鎌倉幕府第6代将軍に就任する宗尊親王がいる。 亀山陵 亀山… ►続きを読む
嵯峨南陵 その2
嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)その2 2009年11月29日訪問 嵯峨南陵 左は亀山陵 右は嵯峨南陵 前回の訪問の時は、日没が近いうえに御陵への入口が見つからなかったが、今回は天龍寺方丈の拝観が始まる前に嵯峨南陵と亀山陵の参拝を行なうこととした。天龍寺の庫裏の脇を北に進むと小振りな門が現れる。恐らく天龍寺の墓地へと続く参道と思われる。門の右手の木の後ろに、「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵」の碑が建つ。前回はこれを見落としたため、無駄な時間を費やしてしまった。この碑は総門前に建てられた「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵 西二町」の道標と対になっている。 今回も門には竹が渡されて… ►続きを読む
天龍寺 塔頭
天龍寺 塔頭(てんりゅうじ たっちゅう) 2009年11月29日訪問 天龍寺 松巌寺 既に天龍寺 その6で触れたように、元治元年(1864)7月19日の早朝に天龍寺を進発した国司信濃軍は、蛤御門で奮戦するも、ついに幕府軍に撃退される。敗兵は進軍の道を辿り嵯峨に戻った後、渡月橋を渡り西国街道(物集女街道)を南下し山崎経由で長州に去っていった。翌20日の朝、長州兵を掃討すべき攻め寄せてきた薩摩軍の砲撃によって、天龍寺は灰燼に帰している。既に長州兵が立ち去った後であり、寺僧も避難していた中なので、なにも全山焼失までの必要がなかったようにも思えるが、賊軍に加勢(福田理兵衛によって宿舎を提供)し… ►続きを読む
天龍寺 その6
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その6 2009年11月29日訪問 天龍寺 方丈庭園 国司信濃が天龍寺に駐留し蛤御門に進攻した経緯と薩摩軍の長州兵掃討隊が天龍寺全山を焼失させた状況については、寿寧院月航住職に日単に詳細に残されている。この日単については、「古寺巡礼 京都 天龍寺」(淡交社 1976年刊)でかなりのページを割いて掲載されている。また石田孝喜氏の「幕末京都史跡大辞典」(新人物往来社 2009年刊)の福田理兵衛邸跡の項にも天龍寺の記録として、ほぼ同じ内容が記載されている。 天龍寺 方丈庭園 天龍寺 方丈庭園 天龍寺 方丈庭園 禁門の変… ►続きを読む
天龍寺 その5
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その5 2009年11月29日訪問 天龍寺 方丈庭園 既に嵯峨野の町並み その4でも触れたように、天龍寺はその創建から室町時代までに、延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安4年(1447)そして応仁元年(1467)の6度、そして江戸時代に入ってからも、文化12年(1815)の火災、さらには元治元年(1864)の禁門の変の長州兵討伐のため全山焼失にみまわれている。 天龍寺 方丈庭園 亀山の形状がよく分かる 天龍寺 方丈庭園 この項では禁門の変と天龍寺について記してみる… ►続きを読む
天龍寺 その4
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その4 2009年11月29日訪問 天龍寺 大方丈と東庭 夢窓疎石が定めた天龍寺十境は下記のとおりである。 普明閣 広大慈光照世間 善財当面隔重関 眼皮横蓋虚空界 弾指開門匹似間 絶唱谿 灘声激出広長舌 莫謂深談在口辺 日夜流転八万偈 灼然一字未嘗宣 霊庇廟 精藍分地建霊宮 専冀神風助祖風 莫怪庭前松屈曲 天真正直在其中 曹源池 曹源不涸直臻今 一滴流通広且深 曲岸回塘休著眼 夜闌有月落波心 拈華嶺 霊山拈起一枝蕚 分作千株在此峰 只… ►続きを読む
天龍寺 その3
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その3 2009年11月29日訪問 天龍寺 庫裏 亀山殿最後の継承者である恒明親王は、大覚寺統の亀山上皇の末子として嘉元元年(1303)に生まれている。嘉元3年(1305)の上皇崩御に伴い、如来寿量院を相続したことが「亀山院御処分状」に記されている。亀山殿と浄金剛院は、恒明親王の母である昭訓門院(西園寺実兼女)に、薬草院は兄の後宇多院に渡っている。翌年の嘉元4年(1306)に亀山院の周忌が行われた際に、後宇多院によって薬草院と如来寿量院の両堂が壊され、その資材を以って灌頂堂が建立されている。また亀山殿を継いだ昭訓門院も延元元年(13… ►続きを読む
天龍寺 その2
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その2 2009年11月29日訪問 天龍寺 法堂 琴きき橋の碑から渡月橋を眺めながら小督塚に至る。この塚自体は後世になって作られたものとされている。塚の西側には民家が建ち、三軒茶屋あるいは三軒家と呼ばれていたようだ。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の小督桜(塚)にも下記のように記されている。 小督桜は大井河の北三軒茶屋の東、薮の中にあり。 このことからも、江戸時代の中期には既に天龍寺の境内外にあり、民家が建っていたことが分かる。なお、この三軒茶屋は元治元年(1864)の禁門の変の後に行われた薩摩軍による長州兵掃討… ►続きを読む
嵯峨野の町並み その4
嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その4 2009年11月29日訪問 嵯峨野の町並み 旧小林家住宅 嵯峨野の町並み その3では、後嵯峨上皇が建設した亀山殿を中心とした鎌倉時代後期の嵯峨野の都市構造を推測するために、その痕跡を現在の嵯峨野の町並みの中に求めてみた。2004年11月に纏められた「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-11)が提示している手法に従い、元徳元年(1329)に作成された「山科国亀山殿屋敷地指図」、貞和3年(1347)の「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」そして元禄5年(1692)の「天龍寺境内絵図」を重ね合わせてみると、亀山殿とその周辺施設と… ►続きを読む
嵯峨野の町並み その3
嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その3 2009年11月29日訪問 嵯峨野の町並み 天龍寺総門 小督塚のある天龍寺南側、保津川との間の地は天龍寺芒ノ馬場下という地名になっている。既に天龍寺の項から嵯峨南陵、亀山陵そして臨川寺にわたって書いてきたように、後嵯峨上皇が建設した亀山殿を天龍寺に改めた場所でもある。このあたりの推移は、財団法人京都市埋蔵文化財研究所が2005年に報告した「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-11)に詳細に記されている。なお当地の京都市埋蔵文化財研究所による調査は1969年の臨川寺跡の調査から始まる。同研究所の公式HP上に掲載される調… ►続きを読む
嵯峨野の町並み その2
嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その2 2009年11月29日訪問 嵯峨野の町並み 大堰川と渡月橋 既に嵐山の町並みや嵯峨野の町並みで記したように、地名としての嵐山は桂川の右岸の西京区を指す。 安永9年(1780)に刊行された都名所図会の嵐山の項でも下記のように記している。 嵐山は大井川を帯て北に向ひたる山なり。 亀山院吉野の桜をうつし給ひし所とぞ そして渡月橋を手前にした桂川の右岸地域の図会を掲載している。このことからも少なくとも江戸時代中期頃から現在と同じ地理的な認識であったことが分かる。 嵯峨あるいは嵯峨野という地名は、東西は小倉山の東から太秦や宇多野の西まで。南北は… ►続きを読む
小督塚 その2
小督塚(こごうつか)その2 2009年11月29日訪問 小督塚 拝観を受け付けていない臨川寺の山門前まで来たところで、再び三条通を西に戻る。渡月橋を過ぎた先の道を北に入ると、すぐに左手に小督塚が現れる。 安永9年(1780)に刊行された都名所図会では小督塚を下記のように記し、そして小督について平家物語をもとに説明している。 小督桜は大井河の北三軒茶屋の東、薮の中にあり また、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には、小督局塚の図絵を掲載している。この図絵には都名所図会と同じく、以下のような説明が付けられている。 小督局は桜町中納言成範卿の女にして、宮中第… ►続きを読む
臨川寺
臨済宗天龍寺派別院 霊亀山 臨川寺(りんせんじ) 2009年11月29日訪問 臨川寺 山門 桂川の左岸に建てられた琴きき橋跡の碑から、三条通を東に50メートル余り進むと、臨川寺の山門が現れる。 現在の臨川寺は臨済宗天龍寺派の別院で、山号は天龍寺と同じ霊亀山となっている。天龍寺や嵯峨南陵でも触れたように、天龍寺の大伽藍が建立されるまでの嵯峨野の中心は亀山上皇の離宮であった。原田正俊氏の「中世の嵯峨と天龍寺」(「講座 蓮如」第4巻 平凡社 1997年刊)に掲載されている「山城国嵯峨亀山殿近辺屋敷地指図」(197.2×214.5センチメートル)には、当時の嵯峨野の姿がよく表現されている。この… ►続きを読む
琴きき橋跡
琴きき橋跡(ことききはしあと) 2009年11月29日訪問 琴きき橋跡 一ノ井川の取水口にある一ノ井堰碑の前を過ぎると、すぐに府道29号宇多野嵐山山田線に合流する。ここから渡月小橋までは目と鼻の先である。 渡月小橋の南橋詰では、大正13年(1924)に建てられた三宅安兵衛遺志 西芳寺南へ二十町の道標に出会える。ここより嵯峨街道を南に2キロメートル余り下ると夢窓国師が建立した西芳寺に至るということである。そのまま渡月小橋を渡り中之島に入ると今度は渡月橋が始まる。 琴きき橋跡 渡月小橋 琴きき橋跡 西芳寺南へ二十町の道標 現在の渡月橋は昭和9年(1934)に完成した鉄筋コンク… ►続きを読む
葛野大堰
葛野大堰(かどのおおい) 2009年11月29日訪問 葛野大堰 渡月橋から保津川を眺める写真中央の堰が葛野大堰の跡とされている 大阪市中央区本町4丁目にあるホテルを朝の5時にチェックアウトし、大阪市立地下鉄本町駅より御堂筋線に乗車する。2つ先の梅田駅で下車し、地下街伝いに阪急電鉄梅田駅へと急ぐ。大阪より休日の7時前に嵐山に着くためには、梅田駅5:40発の阪急京都本線に乗車しないとならないようだ。2008年冬に、法輪寺をはじめとした嵯峨野巡りを行なった時も、確かこの列車に乗ったはずである。桂駅で嵐山線に乗換え、3つ目の嵐山駅には7時5分前に到着する。この時期だと丁度7時が日の出となる。… ►続きを読む
東福寺 龍吟庵 その5
東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん)その5 2009/11/28訪問 東福寺 龍吟庵 開山堂 偃月橋の手前に掲げられている看板「国宝龍吟庵」の通り、龍吟庵方丈は現存する最古の方丈建築として国宝に指定されている。龍吟庵方丈の基本構成は、南北を軸とした左右対称の建物であり、現在は南庭と西庭そして東庭が配され、方丈北側の軸線上に、昭和50年(1975)開山堂が建設されている。この開山堂、方丈そして表門さらには偃月橋が軸線上に配置されている。単層入母屋造杮葺き屋根を持つ建物で、桁行七間、梁間五間で、桁行正面には両開き双折桟板唐戸、両端の柱間には外部側に蔀戸、内部側には明… ►続きを読む
東福寺 龍吟庵 その4
東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん)その4 2009/11/28訪問 東福寺 龍吟庵 方丈西庭 「龍の庭」 東福寺 龍吟庵 その3では、一条実経が無関普門禅師を東福寺に招いたところまで記した。ここからは亀山上皇と無関普門とのことに記してみる。 東福寺 龍吟庵 方丈西庭 東福寺 龍吟庵 方丈西庭 東福寺 龍吟庵 方丈西庭 弘安の役終結後の正応2年(1289)亀山上皇は離宮禅林寺殿で落飾し、法皇となっている。虎関師錬が記した南禅寺の由来書「文応皇帝外紀」によれば、この当時の離宮には怪異な事が頻繁に生じていた。法皇は、高僧の徳を以って収めるしかないと考え、奈良西… ►続きを読む
東福寺 龍吟庵 その3
東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん)その3 2009/11/28訪問 東福寺 龍吟庵 方丈南庭 「無の庭」 2008年秋に引き続き、2009年も龍吟庵特別拝観のため、東福寺を訪れる。前回と同じように6時発の新幹線で東京を出る。今回はJR京都駅より徒歩ではなく、JR奈良線に乗車し東福寺駅で下車してみた。乗り換えの時間を入れるとほぼ歩くのと変わらないことが確認できた。京都から東福寺までの区間の料金精算に多少の時間を要したが、東福寺へ向かう人々の列に加わり、前へ前へと進む。 東福寺 龍吟庵 偃月橋の先に方丈の屋根が見える 東福寺 龍吟庵 表門 北門から入り霊源院の前の… ►続きを読む