文書と写真・地図による「記憶」の再現

嵯峨野の町並み その3



嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その3 2009年11月29日訪問

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嵯峨野の町並み 天龍寺総門

 小督塚のある天龍寺南側、保津川との間の地は天龍寺芒ノ馬場下という地名になっている。既に天龍寺の項から嵯峨南陵亀山陵そして臨川寺にわたって書いてきたように、後嵯峨上皇が建設した亀山殿を天龍寺に改めた場所でもある。このあたりの推移は、財団法人京都市埋蔵文化財研究所が2005年に報告した「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-11)に詳細に記されている。なお当地の京都市埋蔵文化財研究所による調査は1969年の臨川寺跡の調査から始まる。同研究所の公式HP上に掲載される調査報告書については「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2002-10)から閲覧することが可能になっている。その後も新たに建物が建築される際に、部分部分での調査は継続されている。「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-7)、「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2006-9)、「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2008-14)が報告されている。なお、2002-10は天龍寺から旧渡月橋への道路敷にあたると推定される箇所、2004-7はホテル嵐亭の東側に小倉百人一首殿堂時雨殿が建設されるときに行なわれ、2006-11は現在の旅亭嵐月、2006-9は小督塚に隣接する北から西側にかけての箇所、2008-14は阪急電鉄嵐山線嵐山駅前の調査であった。

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嵯峨野の町並み 小倉百人一首文芸苑野々宮地区(2008年12月21日撮影)

 2004年11月に纏められた「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-11)では、元徳元年(1329)に作成された「山科国亀山殿屋敷地指図」、貞和3年(1347)の「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」そして元禄5年(1692)の「天龍寺境内絵図」を重ね合わせ、その上で現在の嵯峨野のどの位置にかつての建物や施設が存在していたかを推定している。
 先ず、これら3つの図絵に見られる地形的な特徴点に対して、AからLまでの符号を付けている。Aはかつての朱雀大路あるいは出釈迦大路と造路が交わる箇所で現在の京都府道29号宇多野嵐山山田線の天龍寺総門前にあたる。Bは弘源寺の北側、野宮神社へと続く道の小倉百人一首文芸苑野々宮地区のあたり。この地点は亀山殿の東端となっている惣門前路の突き当たり、すなわち浄金剛院の東北角となっている。CはBの西側にある野宮神社へと北に曲がる角、すなわち三宅安兵衛遺志の檀林寺旧跡・前中書王遺跡の碑が建つあたりで、かつての亀山殿の野宮大路の始まりとなっている。 Dは京都府道29号宇多野嵐山山田線と丸太町通の交差点、嵯峨釈迦堂門前瀬戸川町という地名からも分かるように、かつての釈迦堂、現在の清涼寺の山門へと続く門前町であったことが分かる。この交差点の南西角に毘沙門天(*沙門堂 *は「田比」)があったことが「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」からうかがえる。そしてEは野宮大路と現在の丸太町通の交差点。

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嵯峨野の町並み 芹川の上流(2008年12月21日撮影)

 Aを含めてF、K、Lは出釈迦大路あるいは朱雀大路と直行する造路上の地点である。造路は京都の中心から亀山殿へとわたるために作られた道である。現在にも嵯峨天龍寺造路町という地名で、京福電気鉄道嵐山本線の終着駅嵐山駅の周辺に残っている。亀山殿が天龍寺に改装されると天龍寺へのメインストリートとなる。現在の京福電気鉄道嵐山本線の嵐電嵯峨駅とJR山陰本線の嵯峨嵐山駅を結ぶ三叉路のあたりがLとなり、「山科国嵯峨諸寺応永鈞命絵図」によると、ここには天下龍門という門があったことになる。Jは瀬戸川が桂川に注ぎこむ河口に位置している。小倉山の北側山地に源を発し、天龍寺の東を南流する川は、かつては芹川と呼ばれ歌枕となっている。後撰集和歌集には、在原行平の歌として

     嵯峨の山 みゆき絶えにし 芹川の 
         千代のふる道 跡はありけり

が収められている。また光孝天皇の下記の有名な歌も芹川の流れに沿った芹川野で詠ったものとされている。

     君がため 春の野に出でて 若菜摘む
         我が衣手に 雪は降りつつ

 芹川の流域では芹が自生していたとされていることから、若菜とは春の七草のひとつであるセリかもしれな。光孝天皇は嵯峨殿を築いた嵯峨天皇の孫にあたる。光孝天皇も、嵯峨天皇や任明天皇に続き芹川行幸を度々行なったようだ。ただし、「山科国亀山殿屋敷地指図」と「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」を見比べると芹川の桂川への河口位置Jが変わっていることが分かる。臨川寺が建立される以前にあった河端殿御所の中に引き込まれた芹川はさらに朱雀大路を越え、その西側にあった芹河殿を通り大堰川に注いでいた。河端殿と芹河殿の池泉に使われていたのかもしれないが、天龍寺が創建されると、その必要がなくなったためか、臨川寺の東側で桂川に注ぐようになっている。

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嵯峨野の町並み 龍門橋(2009年1月12日撮影)

 さて造路の上のKのポイントは、芹川と交わる場所に架けられた龍門橋を指し示している。

     つぼのうち にほひし花は うつろひて
         霞ぞ残る 春のしるしに

 西行がこの橋のたもとにあった酒屋で歌を読みあい、この歌の返歌に詰まったとの伝説があり、歌詰橋と名づけられている。その後、創建された天龍寺の門前に当たることから、龍門橋と呼ぶようになった。

 残りのG、H、Iは、かつての渡月橋の位置と亀山殿の東端にあった惣門前路上の地点である。Iは道昌によって架けられた橋の北詰、Hは2004年に行なわれた調査地あるいは後年に小督塚が築かれた場所、そしてGは亀山殿の芹河殿小路の交差点あるいは亀山殿の惣門のあった地点で、天龍寺が創建されると八幡門に続く道上となっている。

 これらを現在の地図上に落とすと下記のとおりとなる。

      1 A:天龍寺総門
      2 B:浄金剛院の東北角
      3 C:野宮大路の始まり
      4 D:毘沙門天
      5 E:野宮大路と現在の丸太町通の交差点
      6 F:造路上の地点
      7 G:亀山殿惣門
      8 H:現在の小督塚
      9 I:かつての渡月橋の北詰
     10 J:芹川の河口
     11 K:龍門橋
     12 L:天下龍門

     青線  :かつての渡月橋の位置
     赤線  :惣門前路とその延長線
     紫色  :朱雀大路・出釈迦大路
     緑色  :造路

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嵯峨野の町並み 小督塚

「嵯峨野の町並み その3」 の地図


大きな地図



嵯峨野の町並み その3 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 I:かつての渡月橋の北詰 35.0134 135.6764
 I:かつての渡月橋の北詰 35.0139 135.6764
  かつての渡月橋の南詰 35.0125 135.6766
  朱雀大路の南端 35.0166 135.6768
01  A:天龍寺総門 35.0159 135.6771
02  B:浄金剛院の東北角 35.0174 135.6753
03  C:野宮大路の始まり 35.0172 135.6745
04   D:毘沙門天 35.0195 135.6758
05   E:野宮大路と現在の丸太町通の交差点 35.0191 135.6738
06   F:造路上の地点 35.0161 135.6782
07   G:亀山殿惣門 35.0145 135.6763
08   H:現在の小督塚 35.0137 135.6764
10   J:芹川の河口(「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」) 35.0136 135.6806
11  K:龍門橋 35.0164 135.68
12   L:天下龍門 35.0166 135.681

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