徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

タグ:庭園

渉成園 その2

 

渉成園(しょうせいえん)その2 2008年05月18日訪問 渉成園 漱枕居  渉成園 その1で紹介した他にも東本願寺が作成した「名勝 渉成園-枳殻邸-」の冊子には名物や景物が掲載されているのでそれらをさらに見ていく。■高石垣 西門の正面に南北に続く石垣。石橋のような切石、礎石、石臼などが見られる表情豊かなアイストップとなっている。 渉成園 高石垣 渉成園 高石垣 ■檜垣の燈篭 滴翠軒の東側に置かれた石燈籠。 渉成園 檜垣の燈篭 右手に見える石燈篭 ■亀石井戸 代笠席の南東にある亀の形に石組みされた井戸。甲羅の部分が掘り込まれ中心に井筒が埋められている。 ■獅子吼 印月池… ►続きを読む

 

渉成園

 

渉成園(しょうせいえん)その1 2008年05月18日訪問 渉成園 印月地と漱枕居  文子天満宮を拝観しているうちに、渉成園の開園時間となる。この庭園は2回目となる。前回2005年の夏は午後の時間帯の訪問だったが、今度は朝方となるため、多分光の方向が異なるのだろう。冠木門を潜り受付で参観者協力寄付金として500円を払うとパンフレットを頂けた。数種類の中から「名勝 渉成園-枳殻邸-」を選ぶ。前回の訪問の時は自由な志納ということで、このようなしっかりしたパンフレットは用意されていなかったように思う。たとえ東本願寺の所有といえども、この見事な庭園を維持し長く公開していく上では参観者協力寄付金は… ►続きを読む

 

拾翠亭

 

拾翠亭(しゅうすいてい) 2008年05月17日訪問 拾翠亭  金戒光明寺の高麗門を潜り、丸太町通へと出る。岡崎神社前停留所から京都市営バス204号に乗車し、丸太町通を西に進む。5つ目の停留所・裁判所前で下車し、堺町御門より京都行苑へと入る。門を潜るとすぐ左手に九条邸跡に残る九条池が見え、池に架かる高倉橋の向岸にある建物がこれから訪問する拾翠亭である。 拾翠亭 入口 拾翠亭 拾翠亭  九条家は、近衛家・二条家・一条家・鷹司家と共に5家ある摂関家のひとつである。この藤原氏嫡流で公家の家格の頂点となったのは鎌倉時代からである。そして摂関家にあるものは、大納言・右大臣・左大臣… ►続きを読む

 

白沙村荘 橋本関雪記念館 その2

 

白沙村荘 橋本関雪記念館 その2(はくさそんそう) 2008年05月17日訪問 白沙村荘 倚翠亭より問魚亭を眺める  今出川通に面した北門を潜ると、供待と呼ばれる待合の脇に不許葷酒入山門の碑が立つ。庭園に入ると木々の中に静御前の供養塔との言い伝えもある国東塔が現れる。総高さは750センチメートルと国内に現存する中で最大のものであり、個人が所有する大きさとは思えない。関雪が大正時代の初期に大分の別府に訪れたときに購入したものである。そのまま進むとかつての主屋で現在は和食を供する瑞米山とその前に広がる庭へ続く中門が現れる。この建物は後で説明する存古楼と同じく大正5年(1916)に建てられてい… ►続きを読む

 

白沙村荘 橋本関雪記念館

 

白沙村荘 橋本関雪記念館 その1(はくさそんそう) 2008年05月17日訪問 白沙村荘 芙蓉池と存古楼  慈照寺から白沙村荘へは、銀閣寺橋を渡り、今出川通を西に進む。程なくバス停・銀閣寺前が現れ、その脇に白沙村荘の入口がある。 白沙村荘は日本画家の橋本関雪が、大正5年(1916)に南禅寺からこの地に制作の場を移したことに始まる。この時から、亡くなる昭和20年(1945)までのおよそ30年間にわたり、約1万平米の敷地にアトリエから住居、そして庭園が作られている。関雪はこの30年間の間に、何回も敷地を買い増しながら庭園と建物群を拡張させている。自らの感性に従い設計し、心血を注ぎ造り上げたと… ►続きを読む

 

並河靖之七宝記念館

 

並河靖之七宝記念館(なみかわまさゆき しっぽうきねんかん) 2008年05月16日訪問 並河靖之七宝記念館  佛光寺本廟の山門を出て、粟田神社からの道を再び戻る。粟田神社の感神院新宮の額がかかる石造りの鳥居の前から三条通へと続く参道を抜け、三条通を西に進む。白川の手前を北側に入ると並河靖之七宝記念館が左手に現れる。 並河靖之七宝記念館 外観 京格子と虫籠窓 並河靖之七宝記念館 主屋 池が床下に流れ込んでいく  明治大正期を代表する七宝作家・並河靖之は江戸時代末期の弘化2年(1845)武蔵国川越藩の藩士高岡九郎右衛門の3男として京都柳馬場に生まれる。その後、安政2年(1855)… ►続きを読む

 

高瀬川源流庭苑

 

高瀬川源流庭苑(たかせがわげんりゅうていえん) 2008/05/15訪問 高瀬川源流庭苑 門の中ににある山縣有朋第二無鄰菴跡の碑  島津製作所の前には、現在は「がんこ 高瀬川二条苑」となっているが、かつてここには山縣有朋の第二無鄰菴があった。無鄰菴の項でも書いたように、山縣は普請道楽で造園好きとしても知られ、生涯で無鄰菴という名の邸宅を三つも造っている。 最初の無鄰菴は長州下関の草庵であった。閑静な場所に建てられ、隣家がない様から無鄰菴と名付けられた。 2番目は慶長16年(1611)、豪商・角倉了以によって作られた木屋町二条の鴨川近くの邸宅跡を明治24年(1891)に購入し、第二無鄰菴と… ►続きを読む

 

白河院

 

白河院(しらかわいん) 2008/05/12訪問 白河院 庭園  洛翠を出て、白川通から二条通に入り、1ブロック西に進むとこけら葺屋根に瓦を載せた大門が現れる。ここが白河院の表門である。車止めがあるため、左側の建物に入り、庭園の拝観を申し出る。 白河院 大門  この藤原氏の氏長者である藤氏長者として良房の7代目にあたる藤原師実の時に、この別荘地は白河天皇に献上された。師実は藤原氏絶頂期である藤原道長の孫、平等院を建立した頼通の子にあたる。師実は養女の賢子を白河天皇に入内させ、敦文親王と善仁親王が産まれたことから後宮政策は成功を収めた。その後、善仁親王への皇位継承(堀川天皇)において… ►続きを読む

 

洛翠

 

洛翠(らくすい) 2008/05/12訪問 洛翠 庭園  瓢亭より無鄰菴の長い塀伝いに歩き、再び仁王門通と白川通の交わる南禅寺前交差点に出る。そのまま白川通を200メートルくらい北上すると小さいながらも雅な印象をうける門が現れる。黒い門扉に金の菊紋の錺金具が施され、瓦葺の屋根はかなり棟を絞った形になっているため、実際よりもかなり小ぶりに見えるように作られている。駒札によりこれが洛翠の不明門であり、伏見城の遺構と伝えられていることが分かる。屋根の形状に少し硬さを感じるが、確かに桃山時代の華やかさが伝わる門である。もし伏見城の遺構ならば、1600年からの300年間の来歴が必要となるがそれは明… ►続きを読む

 

無鄰菴

 

無鄰菴(むりんあん) 2008/05/12訪問 無鄰菴 庭園  金地院より再び南禅寺の境内に戻り西に進むと、白川通と仁王門通が交わる南禅寺前交差点に出る。無鄰菴はこの交差点を渡った先にある。入口は仁王門通には面せず、瓢亭との間の細い道の先にある。 無鄰菴 長く続く塀より庭の奥行きの深さが分かる 無鄰菴 入口 あいにく屋根の工事中  無鄰菴は、明治の元老 山縣有朋が造営した別荘である。  山縣有朋は天保9年(1838)萩城下近郊の阿武郡川島村の長州藩の中間の長男として生まれる。よく山縣を揶揄して足軽出身といわれているが、実際には足軽以下の中間の出身である。しかし将来、槍術で身を… ►続きを読む

 

円山公園

 

円山公園(まるやまこうえん)  2008/05/12訪問 円山公園 日本庭園  円山公園は八坂神社に隣接しているため、写真を撮りながら散策していると境内と園地の境を意識することもなく、行き来することとなる。 この地はもともと真葛原と呼ばれてきた。都名所図会には     真葛原は祇園林のひがし、知恩院の南をいふ。 とあるように、現在の知恩院から八坂神社、安養寺、長建寺、双林寺辺りまでの総称であった。 江戸時代初期、安養寺には六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭が出現し、お互いに贅を尽くした庭園美を競っていたことが都名所図会の安養寺の項から見える。図会の安養… ►続きを読む

 

大橋家庭園 苔涼庭

 

大橋家庭園 苔涼庭 (おおはしけていえん たいりょうてい)  2008/05/10訪問 大橋家庭園 苔涼庭  九條陵より再び東福寺の勅使門 六波羅門の前を通り、そし南門をくぐり伏見街道に出て、伏見稲荷大社を目指し南下する。伏見稲荷郵便局を過ぎると左手に鳥居が見える。京阪伏見稲荷駅から続く裏参道である。左に曲がり裏参道へ入っていくと先は二股に分かれている。右側は伏見稲荷大社へ続く道、左は住宅地の中へて続いている。左に曲がり道なりに進むと左手に大きな住宅の塀が現れる。門に案内板が出ているので、ここが大橋家であることが分かる。 大橋家 大橋家 門より見た玄関  事前に見学の申し込み… ►続きを読む

 
 

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