タグ:史跡
篠坂
篠坂(しのざか) 2010年9月18日訪問 篠坂 補陀洛寺前の坂 南に下って行く 補陀洛寺と恵光寺のあるあたりから鞍馬街道(府道40号下鴨静原大原線)は南にやや下って行く。この坂は篠坂と呼ばれている。竹村俊則は「昭和京都名所圖會 3洛北」(駸々堂 1982年刊)で下記のように記している。 [篠坂]は小町寺の前の峠路をいう。一に「志野坂」とも記す。 また綱本逸雄氏の「京都三山石仏・石碑事典」(勉誠出版 2016年刊)によれば、補陀洛寺の墓地には約300体の墓石や供養塔が立ち並んでいる。室町から江戸にかけてのものが多いが中には鎌倉後期の石仏も見られるようだ。鞍馬川流域の人々は、その流域に死者… ►続きを読む
惺窩先生幽栖址是より西二町 その2
惺窩先生幽栖址従是西二丁(せいかせんせいゆうせいしこれよりにしにちょう)その2 2010年9月18日訪問 惺窩先生幽栖址是より西二町 その2 小さな石碑 惺窩先生幽栖址従是西二丁では藤原惺窩の生涯と門人・交友のあった人々について記した。ここではこの道標と市原にあった惺窩山荘について書いていくこととする。距離の単位1町は現在の109mとされているので、この道標から西に200m強離れた場所に藤原惺窩の市原山荘があったということになる。どうもこの西二町をあてにしてはいけないように思われる。今回は訪れなかったが、西二町の道標から500m以上離れた北市原第二児童公園に藤原惺窩市原山荘跡の石碑が建て… ►続きを読む
惺窩先生幽栖址是より西二町
惺窩先生幽栖址是より西二町(せいかせんせいゆうせいしこれよりにしにちょう) 2010年9月18日訪問 惺窩先生幽栖址是より西二町 鞍馬街道沿いの小さな石碑 鞍馬街道(京都府道40号下鴨静原大原線)を南に歩いて行くと、観音道是より三町の道標が目に入ってくる。この道標については市原の町並みで記したように小字堂山にある帰源寺の本尊十一面観音立像を詣でるためのものと思われる。同じ民家の南端の軒下に惺窩先生幽栖址従是西二丁という小さな自然石の道標がある。勿論、惺窩先生とは戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者・藤原惺窩のことである。藤原惺窩は永禄4年(1561)公家の冷泉為純の三男として下冷泉家… ►続きを読む
貴船神社 思ひ川
思ひ川(おもひがわ) 2010年9月18日訪問 貴船神社 思ひ川 奥宮一之鳥居 紹介の順番が前後したので少し補足する。有名な川床旅館・左源太を過ぎると府道361号上黒田貴船線の左手に相生の大杉が現れる。この御神木の先に林田社と私市社の二座を祀る祠へと続く石段がある。丁度ここから府道361号線から別れ、貴船神社奥宮へと続く参道が始まる。参道の始まりには朱塗りの鳥居がある。これを奥宮の一之鳥居と呼んでもよいのか分からないが、この鳥居を潜るとすぐに小さな橋を渡ることとなる。この橋の架かった小川が思ひ川である。西側の貴船山から発し貴船川に注ぐ、本当に小さな流れである。この思ひ川を渡った先にある奥… ►続きを読む
貴船神社 つつみが岩
つつみが岩(つつみがいわ) 2010年9月18日訪問 貴船神社 つつみが岩奥宮参道入口にある駐車場の一角スクーターが写真に入ってしまった 相生の大杉、その傍らのその傍らの貴船神社末社の林田社と私市社からさらに奥宮に向かって進むと、左側につつみが岩と呼ばれる巨石が現れる。 貴船石特有の紫色で、古代の火山灰堆積の模様を表している。重さは約43t、高さ4.5m、周囲9mの巨石である。いわゆる貴船石とは、賀茂川の上流貴船付近で採れる川石の総称である。石種は輝緑凝灰岩ともいわれるが、さらに上流から流れてきたものもあるため1種に限定されるものでは無いようだ。従って貴船石と呼ばれる石には黒紫色、柴色、… ►続きを読む
蛍岩
蛍岩(ほたるいし) 2010年9月18日訪問 蛍岩 叡山電鉄鞍馬線の貴船駅から京都府道361号上黒田貴船線を北に200メートル進むと府道と貴船川の間に朱塗りの玉垣と大きな岩が現れる。傍らに建てられている駒札には以下のように記されている。 蛍岩(蛍の名所)もの思へば 沢の蛍も わが身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る木船川 山もと影の夕ぐれれに 玉ちる波は 蛍なりけり 平安時代の女流歌人・和泉式部が貴船神社に参詣し、蛍の歌を詠みました。それから千年後の現在も、六月中ごろからこの付近一帯で、蛍の乱舞が見られます。 ここでは蛍岩と紹介しているが、安永9年(1780)に刊行された「都名所… ►続きを読む
足酒石
足酒石(あしすすぎいし) 2010年9月18日訪問 梶取橋 足酒石は右欄干の上流あたり 京都市立鞍馬小学校の南側高台にある石寄大明神と鬼一法眼之古跡から、再び鞍馬川と貴船川の合流する貴船口に戻る。赤い欄干の美しい梶取橋を渡り、貴船神社を目指し府道361号 上黒田貴船線を北上する。橋から叡山鉄道鞍馬線の高架まではそれほど離れていない。橋の左手には梶取橋の由来を記した石碑とバスなどの車両が方向転換するための空地、右手には京都市消防局鞍馬消防出張所の建物がある。今回の訪問では見つけることができなかったが、このあたりにはかつて足酒石、鉄輪掛石と呼ばれる名所があったようだ。 貴船神社 二之鳥居… ►続きを読む
鉄輪掛石
鉄輪掛石(かなわのかけいし) 2010年9月18日訪問 梶取橋 鉄輪掛石は中央突き当りの立て看板のあたりか 鞍馬川に架かる梶取橋の北詰から叡山電鉄鞍馬線の高架の間に、宇治の橋姫にまつわる足酒石と鉄輪掛石があると比較的新しい書物にも掲載されている。しかし現状では見つける事ができない。ここでは足酒石に次いで、鉄輪掛石の謂れと謡曲「鉄輪」について書いていくこととする。 正徳元年(1711)に刊行された「山州名跡志」(「新修京都叢書第十八巻 山州名跡志 乾」(光彩社 1967年刊))には、足酒石についての記述はあるものの鉄輪掛石は見当たらない。また安永9年(1780)に刊行された都名所図会とその… ►続きを読む
鬼一法眼之古跡
鬼一法眼之古跡(きいちほうげんのこせき) 2010年9月18日訪問 鬼一法眼之古跡 石寄大明神の椋の大木 貴船口から鞍馬街道を北に進むと右手の高台に大きな椋の木が現れる。その傍らには石寄大明神があり、御社に向かい合うように鬼一法眼古跡の石碑が建つ。この石碑はフィールドミュージアム京都 いしぶみデータベースにも鬼一法眼古跡 SA001として掲載されている。その碑文から鞍馬校職員生徒が100年以上前の大正4年(1915)11月10日に建立したことが分る。 正徳元年(1711)に刊行された「山州名跡志」(「新修京都叢書第十八巻 山州名跡志 乾」(光彩社 1967年刊))にも、この地に鬼一法眼塚… ►続きを読む
薩摩藩邸跡(二本松) その4
薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その4 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡 京都市の駒札 薩摩藩邸跡(二本松) その3では本題である薩摩藩二本松藩邸が、この地に作られるまでの経緯を見てきた。この項では小松、西郷、大久保の京都での寓居跡と藩邸の位置関係を確認しておく。 小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 2018年3月18日撮影 文久3年(1863)9月、薩摩藩は小松帯刀の宿舎として鹿苑院の借受けを相国寺に申し出ている。前述の「相国寺研究 四 幕末動乱の京都と相国寺」によれば、9月11日に借用願を出したようだ。小松は久光の3度目の上京に随行し、文久3年10月には京に入って… ►続きを読む
薩摩藩邸跡(二本松) その3
薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その3 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡 薩摩藩邸跡(二本松) その2では薩摩藩の岡崎藩邸と小松原調練場について見て来た。軍事力を京都の地に置くためには、藩兵が寄宿する場所の他に軍事訓練を行える場所の確保が重要となる。そして武器の主流が刀や槍から大砲と小銃へ移った事により、屋敷内の剣術道場ではなく広大な敷地を持つ調練場が要求されるようになった。もし西洋式の軍事訓練場の準備ができなかったならば、甲子戦争においても開戦に踏み切ることができなかったのではないかとも思う。それ位、当時の薩摩藩にとっても2つの調練場は重要な施設であったと考える。 恐… ►続きを読む
薩摩藩邸跡(二本松) その2
薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その2 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡 薩摩藩邸跡(二本松) では幕末期の京屋敷について見て来た。江戸時代初期より京には諸藩の武家屋敷、すなわち京屋敷が設けられてきた。禁中並公家諸法度により、「一 武家之官位者、可爲公家當官之外事」と武家と公家の官位は分けられ、武家には将軍を通じて官位が与えられるように定められた。そのため官位叙任に関し武家は公家と直接的な関係を結ぶことがないように制限されてきた。そしてこのことが武家と公家の私的な交際まで拡大適用され、特に譜代大名は参勤交代の際にも幕府の疑念を避けるために京に入ることがなかったとされてい… ►続きを読む
薩摩藩邸跡(二本松)
薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡 同志社大学今出川キャンパス西門前 烏丸通の西側にある大聖寺は一般公開を行っていないため、その境内を拝見させていただいた。烏丸通沿いに築かれた築地塀に背を向けるようにして、花乃御所の石碑が建てられている。平成7年(1995)に大聖寺門主の花山院慈薫が建立されている。今、大聖寺があるこの地には、かつて足利義満が築いた室町殿が存在したことを示す石碑である。さらには大聖寺の開基・無相定円が義満の室町殿の中にあった岡松殿で過ごし、亡くなられた後に大聖寺に改められたことを記念するものでもある。この場所の地名は上京区御… ►続きを読む
足利将軍室町第址 その2
足利将軍室町第址(あしかがしょうぐんむろまちだいあと)その2 2010年1月17日訪問 足利将軍室町第址 白峯神宮 その9の南門を潜り今出川通に出る。そのまま今出川通の北側の歩道を東に進むと、室町通の東北角に足利将軍室町第址の石碑が現れる。大正4年(1915)に京都市教育会が建立した碑で、「従是東北 足利将軍室町第址」と記されている。ここが室町幕府の花の御所の西南の角に当たることを示している。2008年5月13日以来2度目の訪問となる。前回は足利幕府の将軍の邸宅の変遷について書いたので、今回は第3代将軍・足利義満が築いた室町殿について書いていく。 大聖寺 室町殿の一部 奥に見える建… ►続きを読む
本阿弥光悦京屋敷跡 その3
本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その3 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷 本阿弥光悦京屋敷跡 その2では室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆への法華宗の浸透について見てきた。この項では、応仁の乱以後の法華宗の発展と法難、そして本題である光悦の京屋敷について調べてみる。 文正2年(1467)1月18日早朝、後から考えれば応仁の乱の前哨戦となる戦闘が洛中で起きている。前年末から窮地に追い込まれてきた畠山政長は、遂に耐えられず自らの邸宅に火をかけ上御霊神社に陣を敷いている。政長に対抗する畠山義就は山名政豊や朝倉孝景らの支援を受け、自… ►続きを読む
本阿弥光悦京屋敷跡 その2
本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その2 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷 本阿弥光悦京屋敷跡では初代・妙本から光悦にいたる系図を参照しながら本阿弥家の成り立ちについて見てきた。この項では、室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆に法華宗が広まって行く過程を調べてみる。 本阿弥家が強力な法華(日蓮宗)信徒になったのは、初代・妙本の頃とも、あるいは熱心な法華信者であった松田家から養子を迎えた6代・本光の頃とも謂われている。本阿弥家初代の妙本と日静上人の出会いについて記述したものは、今のところ林屋辰三郎が「光悦」(第一法規出版 1964… ►続きを読む
本阿弥光悦京屋敷跡
本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷 一部駐車場と化している報恩寺の境内を南に進むと上立売通に出る。この上立売通から油小路通に入る角に、かつての小川の痕跡を示す橋の欄干と昭和十年水害浸水被害記念碑が残されている。昭和10年(1935)6月27日から降り始めた雨は29日まで続き、京都市は明治初年以来の大水害となった。高野川、岩倉川、鴨川、東高瀬川、堀川、天神川、御室川、白川など市内諸川の堤防は決壊し、五条大橋、三条大橋、夷川橋など鴨川筋の橋を含む74橋が流失、浸水家屋は43,771戸、死者12名、負傷者81名を出す大災害となった… ►続きを読む
百々橋 その4
百々橋(どどばし)その4 2010年1月17日訪問 小川 百々橋 その3では、応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に、文正の政変直前の対立構造を書いてきた。ここでは政変前後の権力関係の変化から御霊合戦そして応仁の乱の初戦までを書いていく。 文正元年(1466)夏の時点で、第8代将軍・足利義政の幕府内に大きく分けて3つの勢力が存在していた。一つは将軍・義政の幕府権力伸長を目指す側近集団で、伊勢貞親と季瓊真蘂が中核となり、赤松政則と斯波義敏を取り込んでいた。この集団は将軍・義政を中心とした政治体制を目指したため、他の2派の勢力を削減するための方策をとってきた。すなわち守護大名… ►続きを読む
百々橋 その3
百々橋(どどばし)その3 2010年1月17日訪問 小川 百々橋 その2の項では、応仁以前の京の景観を描いたとされる中昔京師地図を基に、小川沿いの社寺及び東西両軍の大名邸宅の位置と室町幕府第6代将軍・足利義教の恐怖政治が齎したものについていた。この項では応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に文正の政変までの緊迫の状況を書いてみる。 享徳3年(1454)4月、畠山持富の子・弥三郎(政久)を擁立した神保親子は、義就派の遊佐氏の襲撃を受けて戦死、そして椎名、土肥等の神保の与党も京都から逃げ出している。このように当初優勢だったのは義就派であった。しかし畠山氏の弱体化を狙う細川勝元… ►続きを読む
百々橋 その2
百々橋(どどばし)その2 2010年1月17日訪問 小川 小川町通寺之内の西北角に残された百々橋の礎石 水火天満宮の南に広がる扇町児童公園から小川通に入り南に下る。小川通が寺之内通と交わる北西角に細長い児童公園が現れる。小川の項でも触れたように、かつて小川通“おがわとおり”に沿って小川“こかわ”が流れていた。この寺之内通と交わる場所は百々の辻と呼ばれ、宝鏡寺を含む寺之内通の南北町は今も百々町という町名になっている。応仁以前の景観を描いたとされる中昔京師地図にも「百百ノ辻寺ノ内安居院」と記され、小川にも橋が描かれている。百百ノ辻に掛かる橋から百々橋と呼ばれている。百々の名は古より使われて… ►続きを読む