徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

タグ:墓碑

維新殉難志士墓

 

維新殉難志士墓(いしんじゅんなんししのはか) 2009年12月9日訪問 維新殉難志士墓  元治元年(1864)7月19日、樫原の勤王家殉難地で、楳本僊之介、相良頼元そして相良新八郎と小浜藩兵との間で交戦があり、三士が無残にも斬り殺されたこと。そして小浜藩撤退後、村人によって三人の遺骸は村外れの丘に葬られたことまで記した。この日の最後の訪問地は、この三士の墓であった。大まかな場所は分かっていたものの、実際には墓地への入口を探すのにかなりの時間を費やすこととなった。 楳本僊之介、相良頼元、相良新八郎の3人の名は、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)にも掲載されて… ►続きを読む

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その4

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)その4  2008/12/22訪問 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 墓地入口から全景を眺める  石田孝喜著「幕末京都史跡大辞典」(新人物往来社 2009年刊)には、この墓地の成り立ちついて詳細に記されている。鳥羽伏見の戦いは慶応4年(1868)1月10日に終わり、千両松の戦いで戦死した石川厚狭介を含む長州藩士の24体の遺体は、この地に埋葬され、一名ずつ木の墓標が建てられた。そして明治33年(1900)の33回忌に墓標が現在の石標に替えられ、この時に14名の戦傷病死者が追祀されている。 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 墓地入口… ►続きを読む

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その3

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)その3  2008/12/22訪問 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 献花台の奥に墓碑が二列並ぶ  慶応4年(1868)1月3日の夕方、小枝橋での通過交渉が決裂し、ついに鳥羽伏見の戦い、あるいは1年半に及ぶ戊辰戦争が始まる。詳しい戦いの経過は、野口武彦著「鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間」(中央公論新社 2010年刊)や以前の項に譲るものとする。長州軍の出兵した伏見方面も、この小枝橋での武力衝突の砲声を受けて始まる。伏見奉行所に詰めていた会津軍や新選組は、奉行所を出て市街戦を挑むが、碁盤の目に配置された伏見の町並みに… ►続きを読む

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その2

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)その2  2008/12/22訪問 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓  仲恭天皇 九條陵より参道を戻る途中を左手に入ると鳥羽伏見戦防長殉難者の墓地がある。前回の訪問は新緑の季節で木々も緑濃かったが、今回は葉もすっかり落ち、墓地の地面を茶色に染めている。やや高台にある九條陵と鳥羽伏見戦防長殉難者之墓の位置関係がよく分かるようになっている。 まず参道から墓地に入ると、この空間の広さに驚く。九條陵の一段下の斜面にこれだけの面積の平地を作り出している。この墓所には鳥羽伏見戦で戦死した石川厚狭介をはじめ、病死した者を含めた49名の長州… ►続きを読む

 

禁裏御陵衛士墓所

 

禁裏御陵衛士墓所(きんりごりょうえじぼしょ)  2008年12月22日訪問 禁裏御陵衛士墓所 左より、毛利、伊東、藤堂、服部の墓碑 石灯籠の裏に茨木、清原、佐原、佐野、富川、富山、中村の合同墓碑と高村の墓碑が隠れている  泉涌寺総門の手前には、鳳凰を屋根の上に載せた即成院の山門がある。改めて即成院の項で書くこととするが、この地に移転してきたのは明治35年(1902)のことである。それ以前、この場所は南東に隣接する戒光寺の境内であった。今も即成院山門の西側にある墓地は戒光寺が管理している。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の新熊野社の図会には、泉涌寺の総門とともに泉涌寺道に向かって… ►続きを読む

 

去来墓

 

去来墓(きょらいのはか) 2008年12月21日訪問 去来墓 中央の青緑の自然石  落柿舎と有智子内親王墓の前を戻り、再び野宮神社から来た道を100メートルくらい北に進むと、右手に去来墓と西行井戸がある。 去来墓 墓地の入口 右に去来塚百人一句句碑 西行井戸百人一首歌碑の石碑が見える  落柿舎の項で触れたように、宝永元年(1704)向井去来は聖護院近くの岡崎村で死去している。 落柿舎は去来の別邸であり、本邸は京都の中心にあった。伊藤洋氏の制作されたHP・芭蕉DBの芭蕉総合年表の元禄4年(1691)4月21日の項には、「朝、凡兆夫妻、夕方、去来、市中に帰りる。」という記述がある。また… ►続きを読む

 

会津藩殉難者墓地 その2

 

会津藩殉難者墓地 (あいづはんじゅんなんしゃぼち) その2 2008年11月22日訪問 会津藩殉難者墓地  真如堂から金戒光明寺の境内につながる道の左側に会津藩殉難者墓地がある。 金戒光明寺にある会津藩殉難者墓地は、坂本龍馬や天誅組の祀られている霊山墓地と違い、訪れる人も疎らで永久の眠りを護る静寂さを常に保っている。前の道は真如堂から金戒光明寺へ抜ける裏道になっているので、ある程度の数の人が行き交っているが、この墓地内で人に出会うことは少ない。恐らく明治維新史に名を留めることのない無名の人々の墓であること、そして旧幕府軍として鳥羽伏見で戦い、敗れ去った人々の慰霊の場であるからかもしれない… ►続きを読む

 

会津藩殉難者墓地

 

会津藩殉難者墓地(あいづはんじゅんなんしゃぼち) 2008年05月17日訪問 会津藩殉難者墓地  真如堂から金戒光明寺の境内につながる道の左側に会津藩殉難者墓地がある。 安政7年(1860)大老・井伊直弼が桜田門外で水戸藩浪士達によって暗殺され、安政の大獄で弾圧されてきた松平春嶽ら開明派の人々が復権してくる。その中で、兄・斉彬の死後、藩主となった島津茂久を補佐する立場となった国父の島津久光は、文久2年(1862)公武合体運動推進のため兵を率いて上京する。斉彬の遺志であった朝廷と幕府と雄藩の政治的提携を継ぐための行動であったと考えられている。久光の働きかけにより幕政改革を要求するため勅使を… ►続きを読む

 

豊国廟

 

豊国廟(ほうこくびょう) 2008年05月16日訪問 豊国廟 拝殿  新日吉神宮から豊国廟参道に戻り、さらに上っていく。京都女子大学の校舎が参道の両側に建ち、真っ赤な車体にプリンセスラインと書かれたバスが並ぶ停留所を過ぎると、両側が駐車場として使用されているものの、樹木の密度も高くなり豊国廟の参道らしくなってくる。さらに進むと大きな石灯籠の先に石段、そしてその先に石の鳥居が現れる。鳥居を潜ると正面に細長い拝殿が待ち構える。左側に建物が建ち、右手は開けているが、その奥はプリンセスラインの駐車場として使用されているようだ。このあたり一帯が30万坪はあったといわれる豊国廟の太閤担だったのだろう… ►続きを読む

 

耳塚

 

耳塚(みみづか) 2008年05月16日訪問 耳塚  豊国神社の鳥居を潜り石段を下ると、目の前に正面通と呼ばれる広い道が現れる。この大和大路通から本町通の間は中央分離帯もあり、立派な通りとなっている。しかし道幅のある部分はあまりにも短いため、豊国神社前の広場という風情である。ちなみに本町通は五条通から始まり伏見区内で直違橋通となり、国道24号につながる、かつての伏見街道でもある。 豊国神社から左手角、すなわち正面通の南に耳塚公園が見える。この公園の西側に耳塚がある。寄進者と思われる名前の入った石柵で囲まれたおよそ25メートル四方の敷地には、円墳のように盛土がなされ、その頂部には五輪塔が建… ►続きを読む

 

霊山墓地

 

霊山墓地(りょうぜんぼち) 2008年05月16日訪問 霊山墓地  二寧坂の角の翠紅館の敷地にある京懐石の京大和を右手に見ながら、霊山を上る道を進むと、道の右側に5本の碑が車止めのように建っている。左側から見ていくと木戸孝充、勤皇志士、梅田雲浜、天誅組義士そして坂本龍馬の墓所への道標であることが分かる。 道路の反対側には緑色の大きな石碑が置かれ、維新の道と記されている。昔この写真を雑誌で見かけたときは、もう少し山の中の参道の脇に置かれた石碑と思っていたが、実際には高台寺の大きな駐車場の目と鼻の先にある。この碑を過ぎると参道の両側の樹木が次第に深くなり、昔得たイメージに近づいていく。 それ… ►続きを読む

 

八番楳木 戊辰之役東軍戦死者埋骨地

 

八番楳木 戊辰之役東軍戦死者埋骨地(はちばんうめき ぼしんのえきとうぐんせんししゃまいこつち)  2008/05/11訪問 八番楳木 戊辰之役東軍戦死者埋骨地  2日目は淀→宇治→山城→墨染とかなりの強行軍となる。伏見桃山のホテルを5時にチェックアウトし京阪電鉄伏見桃山駅5:23発淀屋橋行きの普通電車に乗ると淀駅には5:30に到着した。  京阪電鉄淀駅は2011年3月予定で高架化工事がすすめられていた。淀屋橋方面のホームはまだ地上レベルにあったが、京都競馬場の下車駅となるため巨大なホームとコンコースが用意されていた。踏切を渡り納所の交差点を目指すが、途中で道路幅が広くなる場所がある。どう… ►続きを読む

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)  2008/05/10訪問 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 上部に見える白い鳥居は仲恭天皇陵  皇嘉門院月輪南陵を過ぎ、仲恭天皇陵に至る参道の途中を右手に入ると鳥羽伏見戦防長殉難者の墓地がある。上り勾配の参道の途中にあるため仲恭天皇陵より一段低い場所ではあるが、かなり広い面積の平地が確保されている。 仲恭天皇陵と同じく西側に面するように整然と2列に並べられた墓石は、陵の主を護る衛士のようにも見える。もちろん仲恭天皇については、東山本町陵墓参考地の項でも触れたように鎌倉時代の天皇であり、鳥羽伏見の戦やその戦没者とは全く関係… ►続きを読む

 
 

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