徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

タグ:茶道宗家

表千家 不審菴 その2

 

表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)その2 2010年1月17日訪問 表千家 不審菴紀州藩より文政8年(1825)に拝領された長屋門  表千家 不審菴では、千少庵の大徳寺門前屋敷と二条屋敷に設けられた茶室について書いてきた。この項では千家再興後の少庵、宗旦による本法寺屋敷の不審菴を中心に見て行く。既に裏千家 今日庵の項で一部記したので重複する所もあるが、もう一度時系列的に変遷を辿る。 先ず少庵が二条釜座から本法寺門前に移居したのは、千利休が賜死する直前の天正19年(1591)正月のことであった。詳細不明であるが、秀吉の町割替えによって立ち退かざるを得なくなったようだ。敷地規模は「南… ►続きを読む

 

表千家 不審菴

 

表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)2010年1月17日訪問 表千家 不審菴  裏千家 今日庵では、千利休切腹後に家名断絶となった千家が再興し、表千家、裏千家そして武者小路千家に分かれていった経緯について記した。この項では不審菴と名付けられた茶室の変遷と表千家について書いて行く。 千宗左、千宗室、千宗守監修の「利休大事典」(淡交社 1989年刊)によれば、利休の手がけた茶室の姿が記録に現れてくるようになるのは、天文13年(1544)宗易の名で堺屋敷に於いて茶会を催すようになってからとしている。それ以前については、与四郎の名で記された茶室記録に武野紹鷗の教えを受けたとい… ►続きを読む

 

裏千家 今日庵

 

裏千家 今日庵(うらせんけ こんにちあん)2010年1月17日訪問 裏千家 今日庵 兜門  水火天満宮のある天神公園から小川通を南に下ると最初に現れるのが裏千家である。表千家と裏千家は、この小川通の東側に並んで建っている。2008年5月に訪問した際に、表千家と裏千家を記し、両家及び武者小路を含めた三千家の成り立ちについて触れている。利休亡き後、文禄3年(1594)千家は再興を果たし、2代千少庵そして3代千宗旦と利休の茶を継承してゆく。さらに3代宗旦の三男である江岑宗左が千家の継嗣として不審菴を継ぐ。宗旦が隠居所として不審菴の裏に建てた今日庵を四男の仙叟宗室が受け継ぎ、独立して裏千家を成し… ►続きを読む

 

表千家と裏千家

 

表千家と裏千家(おもてせんけとうらせんけ) 2008/05/13訪問 表千家 表門は文政5年(1822)紀州家よりの拝領  百々橋の礎石が保存されている寺之内通小川の先には、表千家と裏千家が並ぶ。 元亀4年(1573)織田信長によって足利義昭が京都から追放され室町幕府が崩壊する。利休が信長の茶堂となった正確な時期は分からないが、天正元年(1573)頃には信長に仕えていたと考えられている。信長は茶の湯を嗜むだけではなく、茶の湯を政略的に利用した。特に茶器の蒐集に力を入れ、手柄を立てた家臣には恩賞として名物の茶器が与えられた。領国や禄など有限の資産ではなく、信長により無形の価値が茶器に付与さ… ►続きを読む

 
 

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