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陵墓地形図集成
陵墓地形図集成(りょうぼちけいずしゅうせい)2017年9月18日記 陵墓地形図集成 宗諄女王墓 9月の三連休を使い陵墓地形図集成の京都府部分を表示する地図を作成してみた。陵墓地形図集成は、宮内庁書陵部保管の陵、墓、分骨所、火葬塚、灰塚などの測量図を纏めた書物。1999年に宮内庁書陵部陵墓課編で「宮内庁書陵部陵墓地形図集成」が刊行されている。53cm、343枚という大型書籍で15万円と高価なものである。とても個人の趣味で購入できるようなものではない。また東京の区立図書館や市立図書館にも蔵書が無く、本書を確認するためには広尾の都立中央図書館に出向かなければならない。 幸いにも2014年に「… ►続きを読む
禁門変長州藩殉難者塔 その3
禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう)その3 2010年1月17日訪問 相国寺禁門変長州藩殉難者塔 禁門変長州藩殉難者塔 その2では、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)を中心に長州兵の戦闘状況を見てきた。いよいよ、この項では相国寺の首塚に葬られたと思われる人物について書いてみる。 薩摩藩戦死者の墓 その3でも書いたように、ここに祀られている人々が明治16年(1883)6月の第13回合祀祭から始まる幕末の志士達の合祀活動から外れているとは考えにくい。 旧長州藩としては、明治21年(1888)5月の第16回合祀祭で長州藩士… ►続きを読む
禁門変長州藩殉難者塔 その2
禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう)その2 2010年1月17日訪問 相国寺 禁門変長州藩殉難者塔 禁門変長州藩殉難者塔では、幕末維新について記された書籍が上善寺とこの相国寺の首塚をどのように紹介しているかを見た後、副碑の文面を読んだ。そして薩摩側の史料として伊知地貞馨が記した「紹述編年」(「史籍雑纂 苐四」(国書刊行会 1912年刊))と山崎忠和が明治29年(1896)に出版した「柴山景綱事歴」(非売品 1896年刊)を取り上げ、薩摩藩兵の当日の行動を確認した。この項では長州兵の戦闘状況と、その後の悲惨な敗走の現実について光を当てて… ►続きを読む
禁門変長州藩殉難者塔
禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう) 2010年1月17日訪問 相国寺 禁門変長州藩殉難者塔 相国寺の境内にある後水尾天皇髪歯塚と宗旦稲荷に続き、墓地内の禁門変長州藩殉難者塔を参拝する。 浴室と塔頭・大光明寺の間の道を西に進んだ先に相国寺の墓地が現れる。入口の左脇には、禁門変長州藩殉難者墓所の石碑が建つ。これは昭和43年(1968)11月に京都市が建立した道標である。墓地に入るとその広さに圧倒される。この地には、かつて足利幕府第12代将軍・足利義晴の戒名を冠した塔頭・万松院があった。しかし万松院が無くなり、その境内は相国寺の巨大墓地となった。 入っ… ►続きを読む
後水尾天皇髪歯塚
後水尾天皇髪歯塚(ごみずのおてんのうはつしづか) 2010年1月17日訪問 後水尾天皇髪歯塚 東門から相国寺の境内に入り禁門変長州藩殉職者塔に向う途中、経蔵の北側で後水尾天皇の髪歯塚を発見した。。相国寺の公式HPに掲載されている境内図には下記のような説明がある。 後水尾帝歯髪塚後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は、承応二年(1653)に、焼失した大塔を再建され、その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められましたが、天明八年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚を建てました。 「相国寺史稿」(「相国寺史料」(思文閣 1984年刊))によれば承応2年(1653)8月18日… ►続きを読む
薩摩藩戦死者の墓 その4
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その4 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓 相国寺の東門と墓地との位置関係 薩摩藩戦死者の墓 その3では、薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の中で、甲子戦争戦死者の行動と靖国神社への合祀について書いてきた。この項ではもうひとつの戦いである鳥羽伏見の戦いでの戦死者について記す。 上立売通北側の林光院墓地にある薩摩藩戦死者の墓の正面は南である。墓に記された「甲子役 戊辰役 薩軍戦没者墓」も南を向いている。南側正面の墓石下の基壇部分に3枚の陶板が埋められていることは既に薩摩藩戦死者の墓で記述した通りである。3枚の内正面の1枚が甲子… ►続きを読む
薩摩藩戦死者の墓 その2
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その2 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓 薩摩藩戦死者の墓では、薩摩藩と墓地を管理している相国寺塔頭・林光院の関係から甲子戦争の戦闘直前までの状況を書いてきた。この項では甲子戦争の戦闘状況を見て行く。 甲子戦争は、伏見より進撃した長州藩福原軍が藤森で大垣藩と遭遇することにより始まっている。元々、伏見、天龍寺、山崎の三箇所から御所にほぼ同時刻に到達するように出陣している。しかし伏見を子の刻(午前0時頃)に発進した福原軍は、御所に達する前に大垣兵と遭遇したため想定より早く戦闘が始まってしまった。伏見から御所への進撃経路はほぼ伏見… ►続きを読む
薩摩藩戦死者の墓
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか) 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓 上御霊神社の西の鳥居にある応仁の乱勃発地の石碑を確認した後、薩摩藩戦死者の墓に向う。相国寺の墓地ではあるものの境内の外に位置する。塔頭の林光院の東側にある東門を潜った外側、上立売通の北側にある幼稚園の西側に墓は建立されている。この場所は林光院の墓地にあたる。 相国寺 薩摩藩戦死者墓 林光院 2016年3月5日撮影 林光院は足利幕府3代将軍足利義満の第二子、足利義嗣を弔うために建立された寺院である。義嗣は4代将軍足利義持の弟であったが、応永25年(1418)25歳の若さで早世している… ►続きを読む
慶光天皇廬山寺陵 その5
慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その5 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵 慶光天皇廬山寺陵 その4では、尊号一件の目的とするところとその始まり、そして松平定信の老中筆頭への昇格と関白鷹司輔平との交渉の経緯を書いてきた。ここでは朝廷側から申し入れられた“小一条院に準じる待遇”に対する幕府の拒絶から結末までの交渉を見て行く。 寛政3年(1791)4月22日、京の鷹司輔平より再度の照会依頼が定信に送られてきた。長和6年(1017)に藤原道長の圧力によって自ら皇太子の身位を辞退した第67代三条天皇の第一皇子の敦明親王に小一条院の尊号を前例とし、閑院宮典仁親王への尊… ►続きを読む
慶光天皇廬山寺陵 その4
慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その4 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺 慶光天皇廬山寺陵 その3では、天明8年(1788)1月30日に発生した天明の大火による御所焼失から寛政度の復古造営までの朝幕交渉について見て来た。御所御千度参において幕府との交渉の機会を得た光格天皇は、これを前例として御所造営の際には復古様式の採用を幕府に認めさせることに成功している。この項では御所御千度参と寛政度御造営に前後して発生した尊号一件について書いて行く。 既に京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように、尊号一件は光格天皇が父である典仁親王に太上天皇号を贈ろうとしたことから始… ►続きを読む
慶光天皇廬山寺陵 その3
慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その3 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺 南北に長く複数の墓石が配置されている 慶光天皇廬山寺陵 その2では、元々病弱であった後桃園天皇の急逝、安永8年(1779)11月25日の光格天皇即位から始め、天明7年(1787)6月7日より発生した御千度参りを中心に書いてきた。当時、天明2年(1782)から続く天明の大飢饉の真最中であり、同7年(1787)5月には農村から貧困に耐え切れず都市部に流入した人々により江戸、大阪で打ちこわしも行われている。御所の周りで自然発生した御千度参りは、このような世相を打破するため単に神仏に頼るではな… ►続きを読む
慶光天皇廬山寺陵 その2
慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その2 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵 慶光天皇廬山寺陵では、桃園天皇から光格天皇に至る江戸時代中期の朝廷の様子を中心に幕府の衰退の兆しにも触れてきた。この項では光格天皇によって行われた朝儀の再興、朝権の回復について書いて行く。 明和8年(1771)8月15日に閑院宮第2代典仁親王の第6皇子祐宮として生まれている。そのままならば兄の美仁親王が閑院宮家を継ぎ、祐宮は安永元年(1772)9月には聖護院宮忠誉法親王の付弟とされ、将来的には聖護院門跡に入る予定であった。しかし後桜町天皇から譲位され即位した後桃園天皇が病弱で欣子内親… ►続きを読む
慶光天皇廬山寺陵
慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう) 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵 薬医門の右脇に大阪皇陵巡拝会が建立した慶光天皇廬山寺陵への道標が残されているように、廬山寺の境内には慶光天皇の陵墓が築かれている。慶光天皇とは京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように閑院宮第2代典仁親王である。閑院宮家は四世襲親王家として現在のところ一番新しく作られた宮家である。伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧される中、天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべきという新井白石の建議によっている。最初の世襲宮家である伏見宮の… ►続きを読む
廬山寺墓地
廬山寺墓地(ろざんじぼち) 2010年1月17日訪問 廬山寺墓地 廬山寺 その2でも触れたように、2008年5月13日に廬山寺を拝観した際には廬山寺陵の存在を知らなかった。そのため御土居を訪れることもなかった。その後、陵墓に関係するHPや文献を調べて見逃していたことに気が付き、今回の訪問では予定に繰み込んだ。 廬山寺の墓地は本堂の東側、御土居沿いに作られている。山門及び本堂が寺町通に西面しているので、自然と寺地の奥に墓地を作ることとなったのであろう。つまり寺町通から山門を潜ると正面の大師堂に至る。もともと北側の山門は大師堂のために造られた門と考えても良いだろう。そのため南側の薬医門が本… ►続きを読む
有智子内親王墓 その2
有智子内親王墓(うちこないしんのうのはか)その2 2009年12月20日訪問 有智子内親王墓 常寂光寺の山門を出て東へ道を進むと、100メートル足らずで視界が開ける。角には三宅安兵衛遺志の小倉山・常寂光寺・歌仙祠の碑が建つ。この石碑は愛宕街道に建ち、常寂光寺への曲がり角を示すためのものである。北東側には「北 二尊院 祇王寺 愛宕道」、南西には「南 亀山公園 嵐山」とある。現在、嵯峨野を訪れる人には無料の観光地図が配布されるのでその必要性は薄れているが、碑が建立された昭和4年(1929)には十分役割を果たしていたと思われる。 この角から見る風景が一番嵯峨野の魅力を感じさせる。目の前に広が… ►続きを読む
亀山陵 その2
亀山陵(かめやまのみささぎ)その2 2009年11月29日訪問 亀山陵 亀山天皇の亀山陵は、後嵯峨天皇の嵯峨南陵の左側に同じ檜皮葺宝形造の法華堂という形で並ぶ。 大覚寺や妙心寺 その3で同じことを書いてきたが、父の後嵯峨天皇によって作りだされた両統迭立により、亀山天皇は最初の大覚寺統の天皇となっている。第90代亀山天皇は建長元年(1249)後嵯峨天皇と中宮藤原姞子との間に第7皇子・恒仁親王として生まれている。正嘉2年(1258)正嘉の飢饉の最中に10歳で立太子。同母兄に第89代後深草天皇となる久仁親王、異母兄に鎌倉幕府第6代将軍に就任する宗尊親王がいる。 亀山陵 亀山… ►続きを読む
嵯峨南陵 その2
嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)その2 2009年11月29日訪問 嵯峨南陵 左は亀山陵 右は嵯峨南陵 前回の訪問の時は、日没が近いうえに御陵への入口が見つからなかったが、今回は天龍寺方丈の拝観が始まる前に嵯峨南陵と亀山陵の参拝を行なうこととした。天龍寺の庫裏の脇を北に進むと小振りな門が現れる。恐らく天龍寺の墓地へと続く参道と思われる。門の右手の木の後ろに、「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵」の碑が建つ。前回はこれを見落としたため、無駄な時間を費やしてしまった。この碑は総門前に建てられた「後嵯峨天皇嵯峨南陵 亀山天皇亀山陵 西二町」の道標と対になっている。 今回も門には竹が渡されて… ►続きを読む
亀山陵
亀山陵(かめやまのみささぎ) 2009年1月12日訪問 亀山陵 亀山陵は、後嵯峨天皇の嵯峨南陵の左側に同じ檜皮葺宝形造の法華堂という形で並ぶ。 大覚寺や妙心寺 その3で同じことを書いてきたが、後嵯峨天皇によって作りだされた両統迭立によって、亀山天皇は最初の大覚寺統の天皇となる。 第90代亀山天皇は建長元年(1249)後嵯峨天皇と中宮藤原姞子との間に第7皇子・恒仁親王として生まれている。正嘉2年(1258)正嘉の飢饉の最中に10歳で立太子。同母兄に第89代後深草天皇となる久仁親王、異母兄に鎌倉幕府第6代将軍に就任する宗尊親王がいる。 亀山陵 亀山陵、嵯峨南陵へと続く門… ►続きを読む
嵯峨南陵
嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ) 2009年1月12日訪問 嵯峨南陵 左:亀山陵 右:嵯峨南陵 史跡名勝天然記念物に指定されている天龍寺の庭園を拝観した後、今年度最後の訪問地に向かう。2008年5月10日、京都駅に降り立ち小雨の泉涌寺に最初に訪れて以来、幸いにも8ヶ月の間に何回か京都に来る機会ができた。その間に少しずつ、一般的には観光名所とはよばれない場所も含めて、訪問箇所が広がってきた。京都の全土を網羅的に見たわけではなく、結局見てきたものを書いている間に、見落とした場所を再度訪問していたことに気が付く。すなわち、書く度に泉涌寺や東福寺の周辺を、また歩いていてしまったというのが素直… ►続きを読む
成菩提院陵
成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問 成菩提院陵 安樂壽院南陵と安楽寿院の間の道を再び西に向かう。さらに安樂壽院南陵の西側を南に進むと、片側2車線の大通り・新城南宮道に出る。そのまま西に進むと油小路通とその上に架かる阪神高速8号京都線の高架が現れる。とても京都の町並みとは思えない光景ではある。乗用車ではなく大型車が続く流れを見ると、京都・大阪間の物流の大動脈としての必然性を強く感じる。この交差点を西に渡ると、角地には建物は立っておらず、そのまま白河天皇の成菩提院陵の姿が良く見える。 成菩提院陵 天下三不如意の御陵とは思えない現状 白河天皇は尊仁親王… ►続きを読む