徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

旧前川邸



旧前川邸(きゅうまえかわてい) 2008年05月18日訪問

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旧前川邸

 壬生の町並みで触れたように、浪士組が京に着くと更寉寺、新徳禅寺、壬生村会所、南部亀次郎邸、中村小藤太邸、四出井友太郎邸、八木源之丞邸、浜崎新三郎邸、柳恕軒邸、百姓玖太郎邸、百姓新三郎邸の11軒に分宿している。この宿割には旧前川邸が含まれていないが、八木邸には近藤たち10名が宿泊している。旧前川邸の公式HPでは、浪士組の宿舎を選定するに当たって、市中情勢にも詳しく役人の信頼も厚かった前川本家に任されたとしている。前川本家は油小路六角にあり、御所や所司代の掛屋であった。公金の出納や資金運用の仕事など現在で言うところの金融業とマネージメント業を兼ねた業務を行っていたのであろう。そのため奉行所や所司代との関係が密接なものであった。この前川本家が二条城と所司代屋敷に近い壬生の地にいる前川荘司の屋敷を中心として選定したとされている。前川家は、宿割りの記録に入っていなくても、浪士組の入京から関係していたと考えられえる。
 文久3年(1863)3月15日壬生浪士組は正式に会津藩お預かりとなる。この頃から前川家は屯所として使用されている。延床273坪、12間で146畳という広い屋敷だったが、前川荘司一家は、本家に避難することとなる。そして西本願寺に屯所を移転する元治2年(1865)年3月10日までの2年間が、壬生の新選組であった。
 旧前川邸は広大であるだけでなく、複雑な構成をしていることはGoogle Mapの航空写真からも分かる。写真から分かることは、綾小路通に面した長屋門、その南に続く主屋、さらにその南に並んで建つ西の蔵と東の蔵、そして坊城通の反対側の敷地境界に平行に建つ工場と思われる建物。「新選組ゆかりの地・探索レポ」には旧前川邸の平面図(http://home.cilas.net/~chiee/mibu4.htm : リンク先が無くなりました )が、掲載されている。この図面を90度反時計回りに回転させ、Google Mapの航空写真と比較してみるとだんだん分かってくる。八木邸の離れから移り住んだ新選組は、外部から襲撃されることを考え、この旧前川邸の要塞化に着手する。屋敷を取り囲む板塀を、ほとんど土塀に改築し西側だけにあった長屋門の出格子を東側に取り付け、抜け穴を作り、池田屋事件後は、会津藩から借りた大砲まで備えたらしい。
 この間に旧前川邸では、新選組の歴史を彩る多くの事件が起きている。
 文久3年(1863)9月18日芹沢一派が島原から八木邸に帰ってきて灯りが消えるのを蔵の2階から確認している。そして芹沢鴨の葬儀も旧前川邸で行われたとされている。
 それから間もない9月26日長州の間者・御倉伊勢武と荒木田左馬之介が、旧前川邸の縁側で斎藤一と林信太郎によって斬殺、楠小十郎は門前で原田左之助に殺害される。
 文久3年(1863)暮れの12月28日芹沢派の生き残りである野口健司が旧前川邸の綾小路通に面した一室で切腹している。明けて元治元年(1864)年6月5日池田屋事件の端緒となった古高俊太郎への拷問が旧前川邸の土蔵で行われている。そして翌元治2年(1865)年2月23日総長の山南敬助が坊城通に面した一室で切腹している。

 ところで旧前川邸は現在、株式会社田野整袋所の工場と田野十二雄氏の住居として使用されているため、建物内部は非公開となっている。しかし土曜日曜祝日に限り、長屋門を潜ると現れるかつての勝手口である土間が一般に公開される。訪れた時には長屋門が開き、隊旗が架かっていたのは、公開中であったのかもしれない。

 ここには既に前川家が居住していないため、八木邸と異なり旧前川邸と称するのが正確なのだろう。

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旧前川邸 長屋門に隊旗が翻る

「旧前川邸」 の地図





旧前川邸 のMarker List

No.名称緯度経度
01  隼神社・元祇園梛神社 35.0034135.744
02  旧前川邸 35.0022135.7445
03  八木邸 35.0022135.744
04  壬生寺 35.0016135.7433
05   新徳禅寺 35.0018135.7446
06   光縁寺

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