徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

壬生の町並み



壬生の町並み(みぶのまちなみ) 2008年05月18日訪問

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壬生の町並み 民家の屋根に見かけた鍾馗様と仁丹の町名表示板

 鳥羽殿跡から再び城南宮を経由し、城南宮道を東に進み、市営地下鉄烏丸線竹田駅に向かう。この間徒歩でほぼ30分近い。この竹田の地は、鳥羽街道、京阪国道、阪神高速8号京都線、近鉄京都線、竹田街道、京阪本線、JR奈良線、伏見街道と南北への移動は容易だが、東西を結ぶ公共交通機関は少ないのでただひたすら歩くしかない。鳥羽殿跡を出たのが15時30分頃だったので、壬生寺を目指して市内に戻ることとしたが、この城南の地にある安楽寿院などの鳥羽殿に関連する史跡を巡ったほうが効率的であったかも知れない。交通の便かを考えると再びこの地を訪れるのはなかなか難しいように感じる。

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壬生の町並み 隼神社・元祇園梛神社
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壬生の町並み 隼神社・元祇園梛神社の露店

 地下鉄竹田駅から烏丸線に乗車し四条駅で下車、市バスに乗り換えて壬生寺道停留所を目指す。どうも乗車したバスが間違えていたようで、みぶ操車場前から歩くこととする。御院通から坊城通に入り南に下る。本来下車するつもりであった四条通に面した壬生寺道停留所を越えると、隼神社・元祇園梛神社が現れる。祭礼があったのだろうか露店が並び、人も多く集まっている。後で調べると5月第3日曜日には、元祇園梛神社神幸祭が行われる。どうもこれに出会ったようであるが、既に16時をかなり過ぎていたので、祭礼も終わりに近かったのではないだろうか。

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壬生の町並み 旧前川邸
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壬生の町並み 八木邸

 そのまま坊城通を進む。京福電鉄嵐山本線の踏み切りを越えた先の交差点の左角に写真で見かける旧前川邸が現れる。通りの右手の和菓子舗の軒下には、京都教育会が昭和6年(1931)に建立した新選組遺蹟、その奥には八木邸の門が見える。

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壬生の町並み 壬生寺の東門

 旧前川邸と八木邸の先には、左に新徳禅寺、右に壬生寺が並ぶ。
 現在の新徳禅寺は非公開で中の様子を門前から伺うしかない。将軍徳川家茂上洛警護のために結成された浪士組は、文久3年(1863)2月8日に江戸を出立し、同月23日京都壬生村に到着している。到着後、各隊毎に壬生村会所や寺、郷士宅に分宿し、新徳寺(現在の新徳禅寺)には幕臣で浪士取扱の鵜殿鳩翁、浪士組の実質的な盟主となる清河八郎そして山本仙之助ら38人が宿泊している。山本仙之助は祐天仙之助という方が通りがよいだろう。幕末の侠客であり、この後江戸で新徴組に所属するも仇討ち会い板橋で斬殺されている。清河八郎は2月22日この新徳寺に主だった浪士を集め、将軍上洛の警護ではなく尊王攘夷の先鋒になることを明かし、建言書に署名させたようだ。ヒロさんの「なるほど!幕末」でも指摘されているように、このあたりの経緯はドラマ化された時のフィクションが強く印象づけられていることは確かである。最終的にはこの清河の提案に反発した近藤勇、土方歳三、芹沢鴨等は清河と袂を別ち、京都守護職を務めていた会津藩預かりの壬生浪士組となる。清河の行動に疑念を感じた幕府は、3月3日横浜の警備を強化するため浪士組の江戸帰還を命じる。3月13日京を離れ、同月28日江戸に到着する。清河八郎が文久3年(1863)4月13日麻布一ノ橋で、幕府の刺客・佐々木只三郎、速見又四郎、高久半之助等によって討たれると、浪士組は江戸市中取締役の庄内藩預かりとなり新徴組に改組される。 清河八郎は浪士組を自らの勢力とし、朝廷とつながり尊皇攘夷活動の一極を作ろうとしたのであろう。清河八郎は、この新徳寺で浪士組結成の目的と全く異なった方針変更を表明し同意を得たのであろう。いくら烏合の衆とは言え、それを成し得た策士清河には強いカリスマ性と共に自らに対する凄まじい自信が見えてくる。いづれにしても近藤等が反対の意を表明したことで新選組が派生したのだから、この新徳寺は新選組が誕生した場所ともいえる。

 新徳禅寺、壬生寺と並び新選組に関係する寺院として光縁寺が、綾小路通が大宮通に出るあたりに残る。遺族が供養した河合耆三郎を除くと、壬生寺の壬生塚に祀られている隊士は文久3年から元治元年に限られている。光縁寺に埋葬されている隊士関係者は以下の通りである。没年は墓石に記されたものとする。

 野口健司     (没年 文久3年(1863)12月27日)
 葛山武八良    (没年 元治元年(1864) 9月 6日)
 山南敬介     (没年 元治2年(1865) 2月23日)
 大谷良輔     (没年 元治2年(1865) 3月 4日)
 施山多喜人    (没年 慶応元年(1866) 6月21日)
 石川三郎     (没年 慶応元年(1866) 6月21日)
 松原忠司     (没年 慶応元年(1866) 9月 1日)
 桜井勇之進    (没年 慶応元年(1866)12月12日)
 大石造酒蔵    (没年 慶応元年(1866) 2月 5日) 隊士・大石鍬次郎の実弟
 河合耆三郎    (没年 慶応2年(1866) 2月12日)
 小川信太郎    (没年 慶応2年(1866) 2月18日)
 谷三十郎     (没年 慶応2年(1866) 4月 1日)
 柴田彦三郎    (没年 慶応2年(1866) 6月23日)
 田中知      (没年 慶応3年(1867) 1月10日)
 田中寅三     (没年 慶応3年(1867) 4月15日)
 眞明院照誉貞相大姉(没年 慶応3年(1867) 4月26日) 沖田氏縁者
 矢口健一郎    (没年 慶応3年(1867) 4月29日)
 冨川十郎     (没年 慶応3年(1867) 6月14日)
 中村五郎     (没年 慶応3年(1867) 6月14日)
 佐野七五三之助  (没年 慶応3年(1867) 6月14日)
 茨木司      (没年 慶応3年(1867) 6月14日)
 加藤熊      (没年 慶応3年(1867) 6月23日)
 藤堂平助     (没年 慶応3年(1867)11月18日)
 服部武雄     (没年 慶応3年(1867)11月18日)
 毛内有之助    (没年 慶応3年(1867)11月18日)
 伊東甲子太郎   (没年 慶応3年(1867)11月18日)

 野口健司と葛山武八良の墓碑は壬生塚にもあるが、埋葬は光縁寺に行われている。河合耆三郎も光縁寺に埋葬された後、遺族が壬生塚に墓碑を建てている。藤堂平助から伊東甲子太郎までは御陵衛士で、後に泉涌寺の塔頭・戒光寺に改葬されている。
 光縁寺の正門は閉じられているが、脇の木戸から墓参することができるようだ。

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壬生の町並み 規則正しく植樹された児童公園

「壬生の町並み」 の地図





壬生の町並み のMarker List

No.名称緯度経度
01  隼神社・元祇園梛神社 35.0034135.744
02  旧前川邸 35.0022135.7445
03  八木邸 35.0022135.744
04  壬生寺 35.0016135.7433
05   新徳禅寺 35.0018135.7446
06   光縁寺

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