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京都御苑 猿ヶ辻 その4



京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その4 2010年1月17日訪問

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京都御苑 猿ヶ辻

 京都御苑 猿ヶ辻 その3の最後で触れたように、6月11日に薩摩藩士の九門出入が自由となっている。町田明広氏は「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社選書メチエ 2009年刊)で、薩摩藩の姉小路暗殺に関する嫌疑が冤罪として氷解したためとしている。その理由として、侍従・滋野井公寿と大夫・西四辻公業が姉小路暗殺に関与していたことを上げている。 滋野井は羽林家廷臣で天保14年(1843)、西四辻も羽林家廷臣の天保9年(1838)生まれで、2人とも即今破約攘夷派の若い廷臣である。広沢安任の「鞅掌録」(「日本史籍協会叢書 会津藩庁記録3」(東京大学出版会 1919年発行 1982年覆刻))にも以下のように、暗殺事件の前日すなわち5月19日夜に滋野井公寿と西四辻公業、そして西四辻の家臣の植田某が出奔したことが記されている。

朝廷ノ間且畏レ且疑ヒ議論湧クカ如シ 薩人ヲ疑フモ殊ニ甚タ多シ 又前夜ニ滋野井侍従西四辻大夫及ヒ其ノ臣植田某脱走シテ在ル所ヲ知ラス之ヲ疑フ者アリ 然共今日一人アリテ彼藩ナリト云ヘハ即チ疑ヒ 或ハ親藩ナリ或ハ麾下ノ士ナリ杯云フ時ニ将軍ノ還帰シ玉ヘル未タ決セス 堂上之ヲ留メラレシモ頓ニ曰ク将軍ノ還ス固ヨリ宣敷会津及其他モ亦帰スヘシト云フ説アリ

 会津の公用人であった広沢も現場に遺棄された刀や履物より薩摩藩の関与を先ずは疑っているが、上記のように滋野井、西四辻両卿の犯行の可能性をも視野に入れていたことが分かる。「東西紀聞」(「日本史籍協会叢書 東西紀聞 一」(東京大学出版会 1917年発行 1968年覆刻)の癸亥 東西紀聞四 六月十五日出京便にも下記のような記述を見ることができる。

姉小路殿殺害人相分右ハ藤堂和泉守家来斎田何某初三人之先晩被立退候滋野井殿四辻殿ニ被頼候而之由四辻殿御差図ニより前顯三人祇園新地於遊里薩藩之刀ハ摺替右方を以乱妨致右刀より露顯先日薩藩両人会津江被捕段々及拷問候へ共實正不存儀故且刀を被取替候而ハ薩国之掟切腹之筈仍心外之余り被捕中壹人切腹致し壹人ハ吟味中致病死候右滋四両卿ハ姉小路之従弟ニ御座候深キ遺恨有而之事ハ相見申候

 田中雄平は吟味中に切腹して果てたが、仁礼源之丞が病死した事実はない。このようなことからもこの件に関する東西紀聞の信憑性については大きな疑問が残る。また前半の祇園新地での出来事は、田中雄平の刀が摺り替えられたとする説を裏付けるように見える。ただし襲撃当夜に居合わせた家士・中条右京が、後日塩漬けされた田中雄平の首を見て襲撃犯の一人であったと証言している。佩刀摺り替え説すなわち田中雄平が暗殺に加わっていなかったとするストーリーの成立には困難がある。むしろ後半の滋野井及び西四辻の両卿が姉小路に対する遺恨を抱えていたという点は注目に値する。このことは事件の十分な動機となり得るからである。
 この時期、和宮降嫁を推進した中山忠能は議奏職からは外れていた。出仕を停止していたにも関わらず「中山忠能日記」(「日本史籍叢書 中山忠能日記4」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻)))の5月21日の条で以下のように犯人を推測している。

衆評関東言上一件ニ付奸吏之同徒所業欤ト云々 滋野井西四辻両息同志之徒有四五十人若其徒欤ト云々 或会津藩士欤 又先日下坂之節与力カ同心カ有失礼朝臣深咎自尽其族欤云々

 この記述が既に5月21日になされていたことは、「東西紀聞」の記事と比べても驚くべく早い。恐らく中山の周辺に集まった色々な話しをもとに行った推理であろう。このように両卿の出奔が比較的早い時点から世間に知れ渡っていたこと、さらにこの出奔が姉小路暗殺に関係していたのではないかとする憶測が広まっていたのであろう。

 さらに「孝明天皇紀」の5月28日の条にも下記のようにある。

二十八日酉癸侍従藤原公寿滋野井・正五位下藤原公業西四辻犯制の行為あり因て外出を禁し尋て差扣を命す

 両卿は出奔の直前に学習院に建白書を提出している。この建白書は採用にならず、両卿及び西四辻の家来植田が激怒している。この不採用に姉小路が関与したために、暗殺を画策したという仮説が成り立つのかもしれない。ただし余りにも証拠が乏しく、現代の警察では逮捕に至らないだろう。
 この6月11日が薩摩藩の九門出入が許された日と一致する。町田氏は田中雄平が実行犯で、滋野井公寿と西四辻公業も犯行に加わったものの、それを実証する証拠が無かったため軽微な処罰に留まったと見ている。
 町田氏は田中雄平個人の意思の元に暗殺が実行されたもので、薩摩藩の関与はなかったとして禁が解かれたと考えている。恐らくその通りであったと思われる。田中は薩藩士ではあるが、上京後の活動は必ずしも薩摩藩と一体であったわけでなく、むしろ土佐藩の武市瑞山やその一派との親交が厚かったようだ。田中雄平の犯行を否定することは困難であったため、薩摩藩としては藩の方針に従った行動でなかったことを強く主張し、それにより赦されたと考えるほうが合理的である。そして共犯を6月16日に出奔した両卿の家臣2名と考えている。あくまでも両卿は実行に加わらなかったこと、そして確固たる証拠が見出だせなかったことにより、軽微な処罰で終わったと考えることは確かに可能である。

 姉小路が暗殺に至った事由は何であったのか?今まで滋野井、西四辻両卿が姉小路に対して遺恨を抱いていたことを書いてきたが、これが本当に暗殺の理由であったかである。恐らくそんな単純な怨恨説では収まりがつかないであろう。一般的には、4月23日に沿海警備巡見という名目で下坂した姉小路が25日に軍艦奉行並・勝安房守の訪問を受け、従士とともに幕府軍艦順動丸に乗船し神戸に向かったことが原因とされている。急進派の姉小路が幕府の勝の献策を受け入れ、摂津防備に関する三ヶ条が沙汰されている。長崎以外に新たな製鉄所を設け海軍を設置することは、即今破約攘夷派にとっては受け入れることのできない施策である。急進派は急進派は姉小路の行動を変節と捉え、急進派が崩壊する前に自らの手で排除したと考えられる。三条実美と並ぶ急進派のリーダーを暗殺するとともに、組織の求心力を増すように三条に対しても圧力を掛けたのであろう。これは田中雄平が書いたシナリオではなく、暗殺実行のための演者として、単に田中は雇われたと考えればいくつかの点で納得がいく。

 ところで最後に残った疑問について。薩摩藩は奉行所で自死した田中雄平を東福寺即宗院に葬っている。未見ではあるが現在でも同塔頭に田中の墓が残されている。薩摩藩が世間的には罪人同前となっている田中を即宗院に葬った真意について、町田氏は「島津久光=幕末政治の焦点」でも、先行する論文「幕末中央政局における朔平門外の変–その背景と影響について」でも触れていない。ここに薩摩藩にとって、明らかにされていない大きな問題点があるのではないだろうか?この前年の文久2年(1862)に発生した寺田屋事件で上意討ちされた有馬新七を始めとする九烈士の墓所は伏見の大黒寺であり、鎮撫士の内で唯一斬死した道島五郎兵衛は即宗院に祀られている。このように薩摩藩士の墓所には明確な格差が設けられている。田中雄平が襲撃犯であり、一時的とはいえ薩摩藩の京都での政治活動を停止させ藩を窮地に落とし込んだのであれば、即宗院に葬られたことに強い違和感が残る。

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京都御苑 猿ヶ辻

「京都御苑 猿ヶ辻 その4」 の地図





京都御苑 猿ヶ辻 その4 のMarker List

No.名称緯度経度
 京都御苑 猿ヶ辻 35.0272135.7636
  安政度 御所 35.0246135.7627
  寛政度 公家屋敷 35.0247135.7644
  寛政度 有栖川宮邸 35.0269135.7637
01  京都御所 宣秋門 35.0246135.761
02  京都御所 朔平門 35.0272135.7624
03   京都御苑 姉小路邸跡 35.0258135.7643
04  京都御苑 学習院跡 35.024135.7643
05   三条家邸宅 35.0245135.7661
06   寛政度有栖川宮邸 35.0268135.7637

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