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京都御苑 猿ヶ辻 その2



京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その2 2010年1月17日訪問

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京都御苑 猿ヶ辻

 京都御苑 猿ヶ辻に続き、文久3年(1863)5月20日にこの付近で起きた暗殺事件の顛末を見てゆく。
 姉小路公知襲撃の翌日の「中山忠能日記」(「日本史籍叢書 中山忠能日記4」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻)))には下記のように、九門警備が強化されたことが記されている。

清和門院 土州  堺町門  長州
蛤門   水戸  寺町門  肥後
乾門   薩州  下立売門 仙台
今出川門 備前  中立売門 因州
石薬師門 阿州
昨夜朔平門辺姉小路少将様へ刃傷之義有之不容易候間右九門口今晩ヨリ御固之義被仰付候間酉刻ヨリ潜り門共〆切候間通行節姓名行先相断可申事此段為御心得可申入旨ニ候御家来末々迄御示置可被成候此段可申入両役被申付候
     十一月(五月カ)廿一日       両伝奏雑掌

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京都御苑 乾門

 この守衛体制には会津藩が入っていない。5月14日に寺町門外で出火があり、それを受けて5月16日に両伝奏雑掌より九門外警固人数分配を含む口上覚が出されている。この5月21日の九門守衛は16日の配備に従っている。なお会津及び所司代は禁裏西門の担当となっている。そして27日に、再び両伝奏雑掌から下記の口上覚が出て、警備の更なる強化が図られたことが分かる。

口上覚
唐御門清所御門 准后御殿御門 右会津所司代
南門前 松平紀伊守  建春門前 上杉弾正大弼
猿ヶ辻辺 一柳兵部少輔 朔平門 奥平大膳大夫
右之通御固被仰出候ニ付各仮番所取建相詰可申候尤九口御門御固同様御通行之節下座御礼節不致候此段為御心得可申入両伝被申付候以上
     五月廿七日 両伝奏
                   雑掌

 ここに各藩の面目が立つような調整の痕跡が窺える。ただし上記の口上覚は、後で触れる会津藩による田中雄平捕縛の翌日のことである。議奏の野宮定功から中山忠能に送った答書には、「過日九門御警衛会津一手ニて可勤申出候へとも彼衆人疑念ヲ懐候会津之事故一ヶ所も会津へ不申付外藩計へ申付候」とある。急進派公卿襲撃事件だけに会津藩が先ず疑われることは当然のことである。会津は強く守衛を願い出たので蛤門を任せようとしたが、それでは不足なので唐御門もと、さらに申し出たため、上記のようなこととなったようだ。このあたりの経緯は会津側の「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))には余り触れていない。むしろ松平容保の建言により禁垣内に兵を置くことが許されたことを記している。

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京都御苑 中山邸跡

 事件の推移を克明に日記に残していた中山忠能は、この当時どのような立場にあったのだろうか?文久2年(1862)8月21日、忠能と正親町三条実愛は和宮降嫁に尽力した四奸二嬪に関与したことにより、引責辞職を申し出たが許されずに差控を命ぜられている。この差控は長く続かず、閏8月3日には解除されている。すると忠能は翌日に再び議奏を辞退したが、これも許されなかった。12月9日には議奏の忠能は、近衛関白、一条左大臣、二条右大臣そして青蓮院朝彦親王、さらに実愛、三条実朝とともに国事御用掛を兼帯している。
 翌文久3年(1863)正月22日、大阪で池内大学が暗殺され、その両耳が忠能と実愛の屋敷に投げ込まれ、三日以内に辞職・退隠しなければ大学と同じこととなると威嚇されている。両卿は直ちに退役を申し出て正月27日に許される。このようにして安政5年(1858)5月以来の議奏を忠能は解かれることとなる。2月13日には国事参政と国事寄人が置かれたことにより、国事御用掛の実権は激派堂上の参政・寄人に移って行った。つまり国事御用掛は有名無実となった訳である。この時、実愛の次男の正親町公董と忠能の七男の中山忠光そして公董の養父の正親町実徳が寄人となっている。そして2月14日には権大納言をも辞任している。
 文久3年(1863)3月19日、同志と事を挙げようとした中山忠光は屋敷を脱し、大阪を経て長州に入っている。このような状況にあったため、猿ヶ辻の変が起こる前の忠能は、病に託して出仕しないこともあった。所謂、尊攘派が台頭していた政治の舞台からは少し離れた位置に身を置いていた訳である。そのため、かなり客観的にこの事件を見つめていたとも思われる。
 なお「中山忠能日記」の5月21日の条には以下のように犯人を推定している部分が見られる。

衆評関東言上一件ニ付奸吏之同徒所業欤ト云々 滋野井西四辻両息同志之徒有四五十人若其徒欤ト云々 或会津藩士欤 又先日下坂之節与力カ同心カ有失礼朝臣深咎自尽其族欤云々

 5月23日、広島藩の浅野茂勲、米沢藩主・上杉斎憲、岩国領主・吉川経幹に姉小路襲撃犯の捜査が仰せ付けられたが、25日の夜になって事態は進展する。「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))によると、25日夜深更になって伝奏・坊城俊政が会津藩公用人・外島機兵衛を召して、姉小路少将を殺害したのは田中雄平とその同宿の2名であると伝えている。その証拠として、現場に残された犯人の刀を長州・土州の士が見知っていたことを挙げている。また三条実美からも同じ内容の情報が入っている。外島は黒谷に戻り、松平肥後守に報告したところ召捕れとなり、翌26日に物頭安藤九左衛門にその配下を率い、公用局員の外島機兵衛、松坂三内、廣澤富次郎等を伴い東洞院蛸薬師の田中等の旅宿へ向かい出動した。番頭井深茂右衛門が半隊を不時のための控えとなっていた。旅宿に至り朝旨を伝え、田中雄平と仁礼源之丞に坊城邸への同道を求めた。旅宿の屋外で守っていた兵は、外島や田中等の後ろに従って移動していった。伝奏は田中及び仁礼を会津藩に預けようとしたが、外島は守護職の任にあらずと拒絶している。結局、町奉行所で監護することとなった。しかし与力同心が畏怖したため、会津藩兵が奉行所まで警護することとなった。この夜、奉行所内で田中雄平は自殺している。
 続日本史籍協会叢書に所収されている「官武通紀」(「続日本史籍叢書 官武通紀」(東京大学出版会 1913年発行 1976年覆刻))に以下のような記事が掲載されている。

五月廿六日於朔平門辺及狼藉候者共、同月廿六日会津家に而召捕候名前調写
京都東洞院蛸薬師町下ル町元小森典薬頭持家当時松平修理大夫殿買屋敷内ニ罷在候
揚屋入      右修理大夫殿家来新兵衛事
          仁礼源之丞
入牢       同人家来
          藤田太郎
吟味詰所に而屠服 島津内蔵家来
          田中雄平
外に右家来最初より行衛不相知由

 「官武通紀」では仁礼源之丞のことを「新兵衛事」としているのは、田中雄平が新兵衛であることの誤りであろう。また藤田太郎を仁礼源之丞の家来としているが、上杉弾正大弼が捕縛後の7月5日に伝奏飛鳥井雅典に送った書面には、「囚人薩州藩仁礼源之丞召仕太郎」としているので、下僕と考えたほうがよいのだろう。この下僕を含めた三人が襲撃犯とするのには少し無理があったようだ。実際、田中と仁礼以外にも藩士・税所容八が同宿していたが、会津藩が捕縛に向った際に宿にいなかったため逮捕を免れている。薩摩藩も衆人環視のもと、すぐには税所の逃亡を幇助する事はできなかったようだ。
 何れにしても収監された夕には、遺棄された刀の所有者と目されていた田中雄平が自刃してしまったので吟味の途は閉ざされてしまう。幕府は町奉行所の不注意を責罰して、町奉行・永井主水正以下、本事件した関係役人に閉門謹慎等を命じている。当時巷では、田中が祇園新地で遊興中に刀を盗まれ、その刀を用いて姉小路暗殺が行われ、現場に遺棄していったとか、田中は刀を盗まれたことを愧じて自裁したとも言われている。

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京都御苑 猿ヶ辻の駒札

 上記のようにして会津藩の捜査によって逮捕に至ったのではなく伝奏と三条卿からの催告によって逮捕が実施されている。小河一敏の「王政復古義挙録 巻之二」(「幕末維新史料叢書5 王政復古義挙録 懐旧記事」(新人物往来社 1969年刊))には下記のような記述が見られる。

偖姉小路卿暗殺の一件を聞くに其場に落ち居たる刀を薩藩田中雄平其月の六日に帯び居たる刀なりと云ひ出たるは、戌の春土州にて吉田元吉を斃して立出て其後より薩邸に潜み居たる士三人あり此人々の云ひ出たる事なれば浮妄の説には非ずと人々思ひ合ひけるも理なり、然れども其実は猶知べからず。

 「三人」とは文久2年(1862)4月8日に吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助のことであろう。このような情報を元に長州と土佐の志士及び劇派公卿は襲撃犯を田中雄平等と特定している。関博直の「姉小路公知伝」(博文館 1905年刊)では、姉小路家家臣・跡見重威と中条右京が町奉行所に出向き鹽付にされた田中雄平の検視を行ったとしている。右京は「正しく是れ主公を害せる賊なり、萬疑ふ所なし」と断乎とした証言したとしている。
 なお「姉小路公知伝」によると、襲撃の当夜に奮戦した中条右京は、但馬出石藩の卒族で文久年間に藩を脱して京に上り姉小路家に仕えたとしている。後に同家を辞し澤宣嘉に従い生野銀山で挙兵する。しかし事敗れ播州に逃れたが、この地の村民より銃傷を受けたため自刃している。文久3年(1863)10月14日のことであった。享年21。明治36年(1903)11月に従五位を贈られる。

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京都御苑 猿ヶ辻の駒札

「京都御苑 猿ヶ辻 その2」 の地図


大きな地図



京都御苑 猿ヶ辻 その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 京都御苑 猿ヶ辻 35.0272 135.7636
  安政度 御所 35.0246 135.7627
  寛政度 公家屋敷 35.0247 135.7644
  寛政度 有栖川宮邸 35.0269 135.7637
01  京都御所 宣秋門 35.0246 135.761
02  京都御所 朔平門 35.0272 135.7624
03   京都御苑 姉小路邸跡 35.0258 135.7643
04  京都御苑 学習院跡 35.024 135.7643
05   三条家邸宅 35.0245 135.7661
06   寛政度有栖川宮邸 35.0268 135.7637

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