三栖閘門
三栖閘門(みすこうもん) 2008/05/10訪問
寺田屋を後にし、竹田街道を南下する。東浜南町を西に入り歩いていくと右手側にモリタ製作所のレンガ造りの建物が一瞬道筋からのぞく。そのまま進み濠川に出る。橋を渡り川沿いに南下し、京阪電鉄の橋梁をくぐると伏見みなと橋と対岸に広がる伏見港広場が見えてくる。巨大な京都外環状線の高架を越えると2本のタワーを持った赤い水門が現れる。これが三栖閘門である。
昔から淀川は氾濫を繰り返してきたが、本格的に治水工事に着手したのは豊臣秀吉が伏見城を築き、城下町を整備してからのことだった。現在の地図からは想像することが難しいが、伏見と宇治と淀を結ぶ地域に巨大な巨椋池が存在していた。この池には宇治川・桂川・木津川が流れ込んでいるため、大雨が降ると河川が増水し、池の周辺地域に洪水が発生していた。先ず宇治川の流れを巨椋池から分離し、伏見城下の南に導いた。そして大阪から伏見への物資の運搬を可能にする伏見港を造った。また木津川の流路を西へ移し、淀城の水害を防いだ。これら改修時に河岸堤防を造成し、堤防上を道路とした。現在これらの堤防を太閤堤と呼んでいる。淀川本川の左岸堤を今日のように連続堤(文禄堤)に変えたのも秀吉である。
先日、新聞に宇治市菟道(とどう)丸山の太閤堤で庭園跡が発見された(http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080821/acd0808212032006-n1.htm : リンク先が無くなりました )というニュースがあったが、まさにこの時代に行われた治水工事の一部分であった。しかしこれによって池を河川からある程度分離することはできたが、完全に水害を根絶できたわけではなかった。
江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子により、京都と伏見を結ぶ高瀬川が開削された。その後この運河は約300年間京都・伏見間の水運の根幹として使用されてきた。 現在は鴨川によって京都側と伏見側で分断されており、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川と新高瀬川とよぶ。分断されている地点は福稲で東福寺南門の鴨川縁にあたる。また新高瀬川は伏見区景勝町から宇治川の合流地点までの間をさす。この間は了以が開削した東高瀬川を昭和初期に付け替えを行った部分であり、真直ぐで太い流れとなっている。付け替えにより元々の東高瀬川はわずかに松本酒造のあたりで顔を出しているように忘れ去られてしまった。
大正7年(1918)に始まった淀川改修増補工事と大正11年(1922)から着手した観月橋から三栖の間の宇治川右岸の築堤工事により、伏見港と宇治川との船の通航ができなった。伏見そして京都にとって舟運は重要な輸送手段であったため、宇治川~濠川間を通航できるような手段が必要となった。昭和4年(1929)3月31日に工期3年を要して三栖閘門が完成した。閘門とは水位の異なる河川や運河の間で船を上下させるための装置であり、前後を水門によって仕切った閘室の水位を変えられるものである。
この完成により年間2万隻以上も三栖閘門を通航することが可能となったが、陸上輸送が発達するとともに通航数も減少を始め、昭和37年(1962)には淀川から舟運はなくなってしまった。また洪水を防ぐために行われた宇治川改修や昭和39年(1964)の天ヶ瀬ダムの完成により宇治川の水位が低下し、閘門は役割を果たす必要がなくなった。三栖閘門は完成から30余年でその使命を終えたこととなる。
現在三栖閘門は「地域の歴史文化の継承と淀川が誇る歴史遺産の保全をめざし」伏見港の歴史と閘門を紹介する資料館として公開されている。
また三栖閘門は近代化産業遺産群33の28番目「日本酒製造業の近代化を牽引した灘・伏見の醸造業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の中に「伏見の日本酒醸造関連遺産」の月桂冠大倉記念館他や松本酒造酒蔵、「伏見の淀川舟運関連遺産」として三十石船・十石舟とともに遺産例として取り上げられている。
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