宇治上神社
宇治上神社(うじがみじんじゃ) 2008/05/11訪問
宇治神社の本堂に面し、左側に進むと石畳の道に出る。宇治川東岸から源氏物語ミュージアムに至る、さわらびの道である。
この道を北に進むと宇治神社の北西角に早蕨之古跡碑が現れる。宇治十帖の古跡を記念した石碑であるが、江戸から明治時代にかけて所在を転々としてきた。JR奈良線の元となる奈良鉄道の工事に伴い、現在の場所に移ったといわれている。
早蕨の巻の大半は八宮邸が舞台となっているが、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)が八宮のモデルではないかと思われている。莵道宮の跡とも考えられるこの地に置かれるのもふさわしいのかもしれない。この石碑は昭和63年(1988)に建てられている。
さらにさわらびの道を北に進むと宇治上神社の鳥居が現れる。鳥居の先には小さな石橋と神社門が見える。
宇治上神社の祭神は応神天皇、仁徳天皇、菟道稚郎子。
創建年代は不詳。
既に宇治神社で触れたとおり、もともと二社一体であった離宮社が明治16年(1883)に宇治神社と宇治上神社に分社されて、現在に至っている。
神社門をくぐると目の前に拝殿が迫ってくる。広角レンズがないと拝殿の全景が写真に納まらないほど引きが少ない。拝殿の前には2つの円錐状の砂の山 「盛砂」が配されている。
この拝殿は、年輪年代測定法により1215年、鎌倉期の建築とされている。桁行六間、梁行三間 単層切妻造の妻庇付 檜皮葺。平安時代の寝殿造りの様式を取り入れていることからか、宇治離宮の遺構とも伝えられている。現存する平安中世の拝殿の最も古い形を保っていることから国宝に指定されている。
歴史の教科書には寝殿造りの復元図等が掲載されているが、残された建物が一棟もない現在、当時の住宅建築を推測できる点でも重要な建物となっている。
特に拝殿の屋根の線は美しい。
神社門からあまり距離のない場所に建てられた拝殿は、本来ならば間口も広く窮屈な感じを与えるものだが、そのように感じさせない。これは屋根が低く抑えられ水平方向に伸びていくように見えるためである。
屋根の美しさが良く分かるのは拝殿の妻面を廻り、拝殿裏の本殿の基壇に登った時である。正面からは入母屋と思った屋根も少し高い位置から見ると、切妻屋根の妻面に庇を付け四隅を優美な曲線で繋いでいる(縋破風 すがるはふ)ことがよく分かる。切妻屋根の強い正面性を保ちながら、平面と妻面の一体化が図られていることは、拝殿正面から妻面を廻り、奥の本殿に進むという経路にも一致している。
また、妻面の庇の先端が平面より下がっていることから、入母屋を架けるより屋根の棟は低く抑えられていることも分かる。なかなかこのような角度から見ることができないが、宇治上神社が大吉山(仏徳山)の斜面に沿って、拝殿・本殿という順に配置されたことによっている。
本殿は一間社流造 檜皮葺の三社の内殿と桁行五間 梁行三間の流造・檜皮葺の覆屋による二重構造となっている。すなわち外部から見える本殿と思われた建築は、小さな内殿を風雨から守るために造られたものである。直線的な屋根形状の神明造(伊勢神宮)から発展した流造は、優美な曲線屋根が特徴的である。建築年代は年輪年式測定法で1060年と判定されている。そのため宇治上神社の本殿は日本最古の神社建築と見なされている。
覆屋の内部は見えなかったが、京都市文化財保護課のHPには内殿の様子が分かる写真が掲載されている。内殿は、右殿(向かって左側)に仁徳天皇、中殿に応神天皇、左殿に菟道稚郎子皇子をそれぞれ祀っている。 この三社は平面的な大きさと様式に異なる点が見られるようだ。左右両殿の構造に覆屋との共通点が見られるのに対して、中殿は小規模かつ構造も簡素であり独立した形式をとっている。中殿の祭神が父である応神天皇、左右にその皇子である大鷦鷯尊(仁徳天皇)と菟道稚郎子が祭られていることから、多少は異なった形式が採られていても不思議ではないだろう。ただしこの三殿とも柱高が一致していることから、予め覆屋を想定して建造されたとも考えられる。
妻面は三間であるが、棟は中央の柱の上になく、中央と奥の柱の間にある。本殿正面に立つと(実際には中心線上は立ち入ることができないようになっているが)強い正面性と共に、大きく迫り出してきた屋根は上昇感を醸し出している。緩やかな傾斜面に拝殿が建ち、本殿はさらに1メートル程度の基壇の上に建てられている。また背後は鬱蒼とした木々を蓄えた山が控えているため、この上昇感はさらに強められている。
しかし拝殿の前からは拝殿の屋根によって見切られ、本殿の存在は全く感じさせない。非常に上手な演出である。
この屋根形状の違いは、拝殿と本殿の役割を明確に表現しているが、屋根と壁は同じ素材を用いているため宇治上神社の境内は統一感が保たれている。
本殿の右脇には、鎌倉時代に建てられた春日社があり、藤原一族の守護神が祭られている。平等院鎮守社である離宮社の境内に一族益々の繁栄を願い、勧請したものであろう。平安時代様式の拝殿、本殿と比較すると、木割の太さなどから鎌倉風の力強さが無骨な感じに見えてしまう。
また拝殿の右脇には、宇治七名水の一つ 桐原水が湧き出ている。宇治茶が隆盛を極める様になると、「宇治七茗園」が作られた。「宇治七名水」もこれに合わせて定められたように言われているが、実際には明治以降の文献に多く見られることから、起源はそれほど古くないものかもしれない。残念ながら他の六名水がすべて失われた現在、桐原水は現存する唯一のものとなっている。godzillaさんのHPには宇治七名水と宇治十帖の古跡巡りが掲載されている。それによると宇治七名水とは下記の7つを指すようである。
高浄水 宇治若森
泉殿 ユニチカ宇治工場内
百月夜 宇治神社御旅所西側
桐原水 宇治上神社
公文水 橋姫神社前の道
法華水 平等院境内浄土院の北側
阿弥陀水 平等院南出口
宇治上神社は幅員の狭い早蕨の道の途中に位置しているため、大型の観光バスも入って来れない。朝早かったおかげで訪れる人も少なく、国宝の建物をゆっくりと鑑賞するのに十分な静けさが保たれていた。素晴らしい建築を見ることができた満足感とともに、このような地味な神社が世界遺産に登録されている事実を知り驚かされた。
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