文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2009年 5月

平安神宮

 

平安神宮(へいあんじんぐう) 2008/05/12訪問 平安神宮 大極殿 手前に龍尾壇が見える  満願寺から冷泉通を西に歩き平安神宮の東南角に出る。文子天神の後ろにクレーンが見えているように、このあたりはマンションあるいは宿泊以外の目的のホテルが建ち並び、東山側の邸宅、別荘、企業・団体の保養所ということから変わりつつあるようだ。 旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。 平安神宮 応天門 平安神宮 応天門より見た大鳥居  京都にとって平安神宮は新しく造られた神社といっても良いだろう。平安神宮の公式HP(http://www.heianjingu.or.jp/01/0501.html : リンク先が無くなりました )では、創建の由緒を以下のように記している。「平安神宮は平安遷都1100年を… ►続きを読む

 

満願寺

 

日蓮宗 満願寺(まんがんじ) 2008/05/12訪問 満願寺 山門  白河院から1ブロック、北西100メートルの場所に満願寺がある。ここは観光寺ではなく、自由に境内に入れる。山門をくぐると正面に大きな本堂があり、その本堂の前左手に文子天神、右手に閼伽井がある。 山門を見れば分かるように満願寺の山号は示現山、日蓮宗に属する寺院である。 寺伝によると天慶3年(940)多治比文子が菅原道真の霊夢を感じ、北野朝日寺の僧最珍を開基に請じて西ノ京北町に堂宇を建立し、道真自作の天満自在天像を安置したことに始まる。 満願寺 文子天神  多治比文子は生年も没年も不詳の平安時代中期の女性である。童女とも巫女とも道真の乳母とも言われ、右京七条二坊十三町に住んでいたとされている。右京七条二坊十三町は現在の西大路七… ►続きを読む

 

白河院

 

白河院(しらかわいん) 2008/05/12訪問 白河院 庭園  洛翠を出て、白川通から二条通に入り、1ブロック西に進むとこけら葺屋根に瓦を載せた大門が現れる。ここが白河院の表門である。車止めがあるため、左側の建物に入り、庭園の拝観を申し出る。 白河院 大門  この藤原氏の氏長者である藤氏長者として良房の7代目にあたる藤原師実の時に、この別荘地は白河天皇に献上された。師実は藤原氏絶頂期である藤原道長の孫、平等院を建立した頼通の子にあたる。師実は養女の賢子を白河天皇に入内させ、敦文親王と善仁親王が産まれたことから後宮政策は成功を収めた。その後、善仁親王への皇位継承(堀川天皇)においても白河天皇と協調することで、従兄である藤原信長との摂関の地位をめぐる対立に勝利する。白河天皇も院政を開始した後も… ►続きを読む

 

洛翠

 

洛翠(らくすい) 2008/05/12訪問 洛翠 庭園  瓢亭より無鄰菴の長い塀伝いに歩き、再び仁王門通と白川通の交わる南禅寺前交差点に出る。そのまま白川通を200メートルくらい北上すると小さいながらも雅な印象をうける門が現れる。黒い門扉に金の菊紋の錺金具が施され、瓦葺の屋根はかなり棟を絞った形になっているため、実際よりもかなり小ぶりに見えるように作られている。駒札によりこれが洛翠の不明門であり、伏見城の遺構と伝えられていることが分かる。屋根の形状に少し硬さを感じるが、確かに桃山時代の華やかさが伝わる門である。もし伏見城の遺構ならば、1600年からの300年間の来歴が必要となるがそれは明記されていない。白川通沿いに設けられた門であるため離れて撮影できる状況ではなかった。洛翠の入口はさらに北に… ►続きを読む

 

瓢亭

 

瓢亭(ひょうてい) 2008/05/12訪問 瓢亭本館  無鄰菴と細い道を隔てて瓢亭が隣接する。 瓢亭の創業はおよそ400年前といわれているので江戸時代の初期となる。南禅寺の総門へ続く松林の参道に面する南禅寺総門外松林茶店、いわゆる腰掛茶屋としてのれんを掲げたのが始まりと伝えられている。 瓢亭本館  南禅寺 聴松院の項で記したように、花洛名所図会では湯豆腐の丹後屋とともに南禅寺総門外松林茶店として図会で紹介されている。建物の配置も現在に近い形で描かれているように見える。また図会には、丹後屋に続いて以下のように記されている。「瓢亭の煮抜玉子は近世の奇製なりとて、ここの酒客あまねくこれを食悦す。夫豆腐は夏の茄子、冬の大根にも勝りて、四時ともに風味を違へず。形方にして種なく福分を調へ、所謂精物の随… ►続きを読む

 

無鄰菴

 

無鄰菴(むりんあん) 2008/05/12訪問 無鄰菴 庭園  金地院より再び南禅寺の境内に戻り西に進むと、白川通と仁王門通が交わる南禅寺前交差点に出る。無鄰菴はこの交差点を渡った先にある。入口は仁王門通には面せず、瓢亭との間の細い道の先にある。 無鄰菴 長く続く塀より庭の奥行きの深さが分かる 無鄰菴 入口 あいにく屋根の工事中  無鄰菴は、明治の元老 山縣有朋が造営した別荘である。  山縣有朋は天保9年(1838)萩城下近郊の阿武郡川島村の長州藩の中間の長男として生まれる。よく山縣を揶揄して足軽出身といわれているが、実際には足軽以下の中間の出身である。しかし将来、槍術で身を立てようと考え、少年時代から槍の稽古に励んでいた。安政5年(1858年)京都での諜報活動を終え帰藩の後、松下村塾に入塾し… ►続きを読む

 

南禅寺 塔頭

 

南禅寺 塔頭(なんぜんじ たっちゅう) 2008/05/12訪問 南禅寺 高徳庵への参道  南禅寺で頂いた拝観のしおりによると塔頭は現在12寺とのこと。ただし、これには南禅院が含まれていない。しおりでは南禅寺の歴史と伽藍、本坊の説明についで、南禅院が取り上げられている。また南禅寺の公式HPでは、「塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため、別格に扱われています。」というような表現となっているので、塔頭であることは間違いないようだ。ということで実質的には13塔頭ということになる。■01 金地院 金地院は応永年間(1394~1427)に室町幕府4代将軍足利義持が南禅寺第68代住持 大業徳基禅師を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したのが始まりである。慶長10年(1605)南禅寺第270代… ►続きを読む

 

南禅寺 金地院

 

南禅寺 金地院(なんぜんじ こんちいん) 2008/05/12訪問 南禅寺 金地院 方丈庭園  南禅寺 天授庵から山門の前を通り、勅使門と並んで建てられている表門の外に出たところに左に曲がる道がある。この道に入ると金地院という表札が架けられた門があり、それを越えた先の右手に南禅寺 金地院がある。 南禅寺 金地院への門 南禅寺 金地院は右側 南禅寺 金地院 庫裏につながる2つ目の門  応永年間(1394~1427)に室町幕府4代将軍足利義持が南禅寺第68代住持 大業徳基禅師を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したのが金地院の始まりである。慶長10年(1605)南禅寺第270代住持となった以心崇伝禅師により、三門の南西に位置する現在の地に移築された。  以心崇伝は永禄12年(1569)室町幕府に仕える一色… ►続きを読む

 

南禅寺 天授庵

 

南禅寺 天授庵(なんぜんじ てんじゅあん) 2008/05/12訪問 南禅寺 天授庵 本堂前庭園  南禅寺 南禅院より再び石段を下り水路閣をくぐると法堂の前に出る。正因庵の前を過ぎ、三門の南側に南禅寺 天授庵がある。 亀山上皇は父である後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿を正応4年(1291)に禅寺に改めた。この時、開山に迎えたのは東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)である。 無関普門禅師は建暦2年(1212)に信濃国に生まれ、13歳で越後国正円寺において出家する。19歳の時に上野国長楽寺で栄朝禅師から菩薩戒を受け、栄西禅師から受け継がれた禅を学ぶ。関東や北越の講席を遊歴した後、東福寺の円爾禅師に参禅する。その後、建長3年(1251)宋に渡り、弘長元年(1261)の帰国ま… ►続きを読む

 

南禅寺 南禅院

 

南禅寺 南禅院(なんぜんじ なんぜんいん) 2008/05/12訪問 南禅寺 南禅院 庭園  琵琶湖疏水の水路閣をくぐると石段があり、その上に南禅寺 南禅院がある。 既に南禅寺の項で書いたように、後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿が現在の南禅院の地である。離宮には上下2つの御所があり、上の御所に建設された持仏堂を南禅院と称していた。 正応2年(1289)後嵯峨上皇の子 亀山上皇は禅林寺殿で落飾され法皇となり、正応4年(1291)に東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)を開山に迎え、離宮を禅寺に改めた。南禅寺の伽藍は翌5年に上皇によって選任された第二世規庵祖圓禅師(南院国師)によって造営されることから、当初は禅林寺殿の殿舎が中心であったと考えられる。 南禅寺 南禅院 南禅寺 南… ►続きを読む

 

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