宇治神社
宇治神社(うじじんじゃ) 2008/05/11訪問
興聖寺を出て、再び観流橋を渡り朝霧橋のたもとまで戻ると右手に宇治神社の鳥居が現れる。この鳥居をくぐり、短い参道の先の石段を登ると桐原殿の額のかかる小さな拝殿が現れる。拝殿の裏側に廻ると小さな鳥居があり、10段程度の石段の先に宇治神社の本殿がある。
宇治神社の祭神は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)。
応神天皇の末の皇子・菟道稚郎子は寵愛され、応神天皇40年(309)に皇太子となる。翌年に天皇が崩じたが即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。異母兄の大山守皇子の挙兵の知らせを大鷦鷯尊から聞いた太子は渡し守に扮し、宇治川を渡る大山守皇子を溺死させた。この後3年、大鷦鷯尊と皇位を譲り合い、天皇の空位が続いた。天下の煩いになると思い悩んだ太子は自害することで決着を計り、大鷦鷯尊は仁徳天皇元年(313)に即位し、第16代仁徳天皇となった。このような噺が日本書紀に記されている。
「山城国風土記」逸文によると太子は菟道宮(桐原日桁宮)を造営している。それが現在の宇治神社の地であると伝承され、太子の霊を祭ったのが宇治神社と宇治上神社の起こりとも言われている。太子の離宮(菟道宮)とも関わりがあったと思われ、離宮社、離宮八幡などと呼ばれてきた。ちなみに菟道稚郎子は、宇治市莵道丸山の丸山古墳に埋葬されたと推定されている。
延喜式神名帳には「山城国宇治郡 宇治神社二座」とあるように、宇治上神社と二社一体であった。宇治上神社を本宮または離宮上社に対して、宇治神社を若宮または離宮下社と呼んでいた。
対岸に平等院が建立されると、宇治の産土神であった離宮社は平等院の鎮守社としての地位も与えられる。平安時代から鎌倉時代にかけては藤原氏の援助もあり、「離宮祭」とよばれる祭礼時には神馬が奉納され、競馬、田楽などが華々しく行われ、宇治川は舟で溢れかえったと伝えられている
明治16年(1883)に宇治神社と宇治上神社に分社され現在のかたちとなった。
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