佳水園 その3
ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問
ウェスティン都ホテル京都は、平成14年(2002)に、スターウッド・ホテル&リゾートと提携し、ウェスティンブランドに入ったが、現在もホテル名称に残っているように都ホテルズ&リゾーツの旗館であった。ちなみに村野の初期の名作 志摩観光ホテルも系列ホテルの1つである。
三条古川町の油商 西村仁兵衛が、明治23年(1890)に華頂山の中腹の7万坪近い敷地に「吉水園」という貸し席を開いたのが都ホテルの始まりである。本館は八景閣と呼ばれ、100坪ほどの建物で、大小の部屋にわかれ、眺望の良さを売りに各種の会合が行われていた。付属施設とした大浴場、大広間などの別棟があったようだ。
当時京都には、明治14年(1881)開業の也阿弥と明治21年(1888)開業の常盤ホテルが存在していた。也阿弥は円山公園の項で少し触れたように、安養寺の六阿弥と言われた塔頭 也阿弥を長崎で外国人のガイドをしていた井上万吉が買い取り、ホテルを兼ねた西洋料理の店を開いた。西洋式のホテルといっても元は安養寺の塔頭なので、和風建築の2階建てで、屋根にはHOTELと書かれた看板があったらしい。明治19年(1986)時点で也阿弥の年間外国人宿泊客数が765人ということで、ホテル業だけでは採算が合わなかったと思われる。そのため多くの日本人にも利用できるレストランと宴会場で経営が成り立っていたのであろう。
一方常盤ホテルの方は、神戸の諏訪山で常盤花壇という料亭を経営していた前田又吉が、明治21年(1888)二条橋西詰め上ルに旅館 京都常盤を開いたことに始まる。現在ではホテルフジタ京都のある場所となる。この時期、河原町二条下ルの勧業場の土地の払い下げが検討されていた。勧業場は一之船入町にあった旧長州藩邸の跡に、第2代知事槇村正直の勧業施策の一環として明治4年(1871)に建設された。洋館二階建ての本館を中心に、舎密局・製糸場・織殿・染殿・集産場・欧学舎・製靴場・栽培試験場などが建てられ、産業振興の見本市のような役割を果たしていた。一応の成果をあげたことと知事が北垣国道に代わったことにより、勧業場は取り壊され跡地が払い下げられることとなったようだ。その際、下記のような条件が付けられていた。
必ずホテルを建設する
ホテルの建築は木造及煉瓦造にして費用5万円以上とする
土地入手後、2年以内に着工する
着工後、2年以内に竣工する
他の在京の有力者を出し抜き、前田がこの地を手に入れることになるが、その裏には長州閥、特に伊藤博文の影響があったと考えられている。
ともかくも前田は、この地に常盤ホテルを建設した。明治23年(1890)4月に開業し、翌24年5月にはニコライ皇太子を迎えることができた。この滞在中に大津事件が発生する。皇太子への見舞いが常盤ホテルに押しかけることとなり、常盤ホテルの名は世に知られるようになった。しかしこの時期に外国客を対象とした宿泊業は難しく、経営状態は改善されなかった。そして、開業3年後の明治26年(1893)前田又吉が64歳で亡くなると、経営権は也阿弥の井上万吉の手に渡り、京都ホテルとして明治28年(1895)3月から営業が再開された。今も同じ地で経営している京都ホテルオークラの始まりである。
このようにして明治30年頃には、外国人客の大部分が井上の経営する2つのホテルで宿泊することとなる。しかし明治32年(1899)3月に也阿弥ホテルから火がでて、2階建て客室棟を除き焼失してしまう。八坂神社の高台にあり水の便も良くなく消火に手間取ったのであろう。大きな被害は出なかったが吉水園もこの時、貰い火をしている。
焼失した也阿弥ホテルの再建は、なかなか許可が下りない中、吉水園は全館を洋式に改築し、明治33年(1900)8月に都ホテルとして開業した。焼け残った建物で経営を再開した八坂の也阿弥ホテル、河原町二条の京都ホテルそして蹴上に新設された都ホテルの3つのホテルが競い合った期間は、わずか5年で終わる。再び明治39年(1906)4月に也阿弥ホテルは出火し、明治41年(1908)京都市からホテル用地の返還が命じられた。
これにより京都のホテル界は、京都ホテルと都ホテルの歴史、格式そして規模の上でも2強時代が長く続くこととなる。
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