文書と写真・地図による「記憶」の再現

鹿苑寺

臨済宗相国寺派 鹿苑寺(ろくおんじ) 2008/05/14訪問

画像
鹿苑寺 鏡湖池と舎利殿

 荷物は今夜泊まる旅館に送って頂く事として、女将のお見送りを受けて柊家を後にする。この日は北山の鹿苑寺を初めとして竜安寺、北野天満宮、仁和寺そして妙心寺を廻る予定を組んでいる。いずれも有名な場所であるため修学旅行客を避けることは出来ないと覚悟している。

画像
鹿苑寺 金閣寺道の入口
画像
鹿苑寺 参道
画像
鹿苑寺 新緑の参道

 9時30分に京都市役所前停留所から北大路バスターミナルを経由する京都市営バス205号に乗車する。金閣寺道は21番目の停留所となる。真直ぐ河原町通を北に進み、賀茂川を葵橋で渡る。下鴨本道を北に進み北大路通を左折して西進すると北大路バスターミナルを経由し、大徳寺の前を通り西大路通に出る。衣笠御所ノ内町で南に曲がると金閣寺道の停留所が現れる。ここで下車して、鞍馬口通を西に徒歩で進むあたりから観光客の多さが目立つ。

画像
鹿苑寺 総門
画像
鹿苑寺 鐘楼

 鹿苑寺は臨済宗相国寺派寺院で山号を北山(ほくざん)。平成6年(1994)に世界遺産に登録される。

 平安時代中期以降、北山の地には寺院が建立され、数多くの墓所が作られてきた。今も円融天皇の御陵をはじめ火葬所、陵墓、塚などが数多く残っている。またこの地は狩猟などにも使われてきた。その中で現在の鹿苑寺の寺域は神紙官伯家の所有する田畑であった。この敷地に着目した西園寺公経は、所領尾張国松枝庄との交換を行う。元仁元年(1224)公経は北山第という豪壮な山荘を建立する。もともと西園寺家は藤原氏北家の出であったが、余り注目されるような家柄ではなかった。それが公経の代に、一躍朝廷において中心的な人物となり、当時の摂関家の権勢を凌ぐほどになった。公経は藤原道長の栄華を象徴する法成寺を凌ぐ、西園寺・北山第の建立を考えていた。公経以降、西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていた。幕府滅亡直後に西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑をかけられ、処刑される。西園寺家の膨大な所領と資産は没収され、北山第も西園寺も次第に荒廃していった。

画像
鹿苑寺 鏡湖池と舎利殿
画像
鹿苑寺 鏡湖池と舎利殿

 この北山第を譲り受け北山殿を造営したのが室町幕府3代将軍足利義満であった。足利将軍室町第址の項で触れたように義満は永和4年(1378)に上京の北小路室町に新しい屋敷の造営に着手する。この屋敷は室町殿であり、足利幕府の時代を室町時代と呼ぶ元となった。応永元年(1394)義満は息子の足利義持に将軍職を譲り、応永4年(1397)河内国の領地と交換に西園寺家から北山第を譲り受け、舎利殿を中心とする山荘を造営し移り住んだ。将軍職は息子に譲るものの幕政の実権は掌握し、北山殿は義満の政務を執る場所として築かれた。特に対明貿易を始めた義満は、明の勅使を北山殿で迎えている。こうして得た中国のさまざまな文化は、北山文化の基盤となっていった。

画像
鹿苑寺 左は葦原島 中央の松の右に細川石 やや右に三尊石

 宮元健次氏の「[図説]日本庭園のみかた」には失われた北山殿の姿を感じさせる記述(P55~56)がある。西園寺の頃より南御所と北御所に分かれており、義満もこれに従って造営を行った。北御所は義満の住まいで、池に面して寝殿と側近たちの住居である東対屋などがあり、その池に舎利殿、すなわち金閣が建てられていた。南御所は義満夫人の日野康子のための住居だった。
 行幸にあわせて応永14年(1407)北御所の寝殿が新築された。天皇のための御殿は北野天満宮のような神社建築に用いられる八棟造で建てられたらしい。これは後に権現造に進化していく建築様式である。応永15年(1408)後小松天皇の行幸を仰いで、21日間に渡る盛大な宴が催された。そのわずか2ヵ月後、義満は51歳で死去する。

画像
鹿苑寺 舎利殿東面
画像
鹿苑寺 舎利殿東面

 義満の死後も応永16年(1409)には室町殿の小御所や対屋を北山殿に移すなど、まだ拡張が行われたが、応永26年(1419)に義満の夫人 日野康子が亡くなると義持による北山殿解体が行われる。北御所の寝殿は南禅院へ、公卿の間は建仁寺へ、懺法堂は平等院へ、そして舎利殿と結ばれていた天鏡閣は南禅寺に移築され、他の多くの堂宇は撤去された。
 応永27年(1420)4代将軍義持は義満の遺言に従い、夢窓国師を勧請し開祖として禅寺を開き、義満の法号である鹿苑院殿より鹿苑寺と名付けられた。この時残された堂宇は仏殿、舎利殿、護摩堂などであったと考えられている。

画像
鹿苑寺 舎利殿頂部
画像
鹿苑寺 舎利殿北面

 応仁の乱の戦火を受けて荒廃した鹿苑寺も、1480年代後半より次第に客殿、納所寮、方丈、会所なども建てられ、明応8年(1499)には小方丈が再建され、永正元年(1504)には庫裏の造営が行われた。江戸時代に入り、鳳林承章が鹿苑寺の住持になると寺の再興が本格化する。承章は、後に相国寺の第95世住持となるが、桂離宮を造った八条宮家や、修学院離宮を造った後水尾法皇が庭園の相談を持ちかけた人物でもある。金閣の修理や庭園の修復を行い、後水尾法皇の行幸を迎えている。夕佳亭はその際に金森宗和に造らせたものとも言われている。現在の鏡湖池の景色はこの時に造られたと考えられる。天明6年(1786)の再版された名所図会の金閣寺(既に足利義政の頃から金閣と呼ぶれていた)には現在とほぼ同じ姿が現れている。

画像
鹿苑寺 舎利殿舟屋 左に入亀 右に出亀
画像
鹿苑寺 舎利殿舟屋西の鏡湖池 中央に入亀

 舎利殿は、明治37年(1904)から39年(1906)にかけて解体修理が行われた。この時指導にあたったのが京都府技師 松室重光と武田吾一であった。昭和25年(1950)学僧の放火によって焼失するが、この明治の解体修理の時に行われた詳細な調査によって5年後の昭和30年(1955)に創建当初の姿に復元された。また現在の金閣の輝きは昭和62年(1987)に金箔が張り替えられたことによっている。

画像
鹿苑寺 鏡湖池 中央に入亀

 順路に沿って鹿苑寺を見ていく。鞍馬口通の突き当たりに、黒門があり、左には「鹿苑寺 通称 金閣寺」 右に 「拝観時間 午前9時より 午後5時まで」と記されている。この黒門より山茶花や楓などが両側に植えられた緑の参道が続く。この時期は新緑であったが秋には紅葉の美しい道となるだろう。5分も歩かないうちに総門に達する。すでに入園を待つ人が門の外まであふれている。拝観料を納め、総門を潜る。左に西園寺家由来の鎌倉期に作られたと伝わる鐘の鐘楼、右に明応・文亀年間(1492~1504)に建てられた庫裏を見ながら進むと、正面に唐門が現れる。ここは閉じられているので左側の門から入ると目の前に衣笠山を背にした鏡湖池と舎利殿が現れる。鏡湖池はその名のとおり、かつてこの池の周りに建てられていた北山殿の諸堂の姿を鏡のように写していた。

画像
鹿苑寺 金閣寺垣の石段 右に龍門滝

 鏡湖池の中央には葦原島が浮かぶ。葦原島は豊葦原瑞穂すなわち日本を表わしている。日明貿易を推し進めた義満が舎利殿から眺めた島が鏡湖池に浮かぶ葦原島であったということなのか?葦原島の舎利殿側、すなわち島の北側には剛健な石組みが施されている、中央に三尊石、そしてその東側には細川石が斜めに立ち、舟を漕ぐ船頭のように見える。細川石の他にも富士山の形をした畠山石、直立した赤松石など奇岩名石の多い庭であるが、これらの石は寄進した大名の名前が付けられている。畠山石も赤松石も鏡湖池に西岸から突き出した半島状の出島周辺に見られる。葦原島の手前には左に鶴島、右に亀島が浮かぶ。鶴島の左端には中国から運ばれたと言われる九山八海石も置かれている。
 また舎利殿の西側には入亀と出亀と呼ばれている。このように実に多くの名前が付けられた石や島からこの庭園が構成されている。中田さんのHPによると鏡湖池には10個の島があり、亀島が5島、鶴島が3島ある。他の2島は芦原島と淡路島であるとしている。こちらには撮影できなかったカットが多く掲載されているので是非ご参照ください。 西桂氏の「日本の庭園文化」(P79)によると昭和63年(1988)から行われた発掘調査により、舎利殿は地山を削りだした出島の上に建ち、鏡湖池は今より南側に拡がり、水面の高さは現在より30~40センチメートル浅い池であったとしている。最初に鏡湖池と舎利殿を眺めた場所は、もとは池の中であった。また水面が約30センチメートル低くなると、現在の見る島の姿は大きくなり、護岸の名石ももう少し下まで見えることとなる。おそらく異なった姿になるのであろう。

画像
鹿苑寺 金龍門滝 中央に斜めに立つ鯉魚石

 北山殿は、西園寺家の北山第に足利義満が手を加えて作り上げたものであることは既に触れたが、義満がこの庭を造るにあたって参考としたものは、夢窓国師が創り上げた西芳寺だったと言われている。特に西芳寺にあった二層の瑠璃殿にならい、義満は舎利殿を鹿苑寺に建てている。舎利殿は三層の楼閣建築であり、初層は法水院と名付けられた寝殿造の雰囲気を与える住居建築。二層は潮音閣で観音を安置する仏堂の構成。そして三層は究竟頂で阿弥陀三尊と二十五菩薩を祀る禅宗風の意匠。このように舎利殿は全ての層が異なった建築様式で組み立てられている。そして二層と三層には金箔が張られている。西側の舟屋を除くとほぼ左右対称な形態となっている。
 足利義持が北山殿を解体する際に失われたと思われる天鏡閣は舎利殿の後方に建ち、舎利殿の二層に渡り廊下 拱北廊でつながっていたと考えられている。今からは想像できない姿ではあるが、宇治の平等院鳳凰堂の翼廊をイメージすれば良いのかもしれない。

画像
鹿苑寺 龍門滝の上方
画像
鹿苑寺 安眠沢 中央に白蛇の塚
画像
鹿苑寺 安眠沢 白蛇の塚

 鏡湖池と舎利殿以外にも見るべき場所は多くある。
 方丈の北には京都三松の一つとされる陸舟の松がある。義満お手植えの松と伝えられている。舎利殿を過ぎると義満がお茶の水に使ったと伝える銀河泉、手を清めた巌下水がある。金閣寺垣を用いた石段を過ぎると、龍門滝がある。新緑の季節のため、石組みが分かりづらいが、滝の中央に鯉の形をした鯉魚石が置かれ、滝は鯉魚石に向かって注がれている。先の中田さんのHPでは、舎利殿は島の中に建てられ、この滝の水は鏡湖池に注いでいたと考えている。確かに舎利殿は拱北廊でつながれていたならば、島の上に舎利殿が建てられていても不思議ではない。

 さらに丘を登ると衣笠山を背景にした安眠沢と呼ばれる池となる。この池は鎌倉時代の作庭と見られているため、北山第の遺構の可能性が高い。安民沢は龍門滝の上方5メートルあまりの高さにある。明るく雅な印象の鏡湖池と対照的にうっそうとした樹木にとりかこまれた幽邃な雰囲気の中にある。池中に中島があり、白蛇の塚という石層塔が立っている。白蛇は古来西園寺家の鎮守とされていた。発掘調査によると平安期の景石や池の東北角付近に滝口が見られた。
 「京の魅力をゆく No7」の魅力66号小川通<15>(http://hata0913.hp.infoseek.co.jp/miryoku-5.htm : リンク先が無くなりました )では、藤原定家が「明月記」に書き残した西園寺家の北山第の45尺の滝について詳しく記しているので、是非そちらもご参照下さい。簡略にまとめると、西園寺公経は現在の不動堂のすぐ北側の山麓の断崖に高さ10メートルの滝を作った。そしてまだ西園寺家の北山第の頃に、不動山の山肌を穿って本尊を安置するための石室を構築し、石造の不動明王像や二童子像を安置した。石室前面には滝が設けられ不動明王と滝が一体化する演出がなされた。そして足利義満が北山殿を造営する以前に滝の水が涸れ、現在の不動堂の建物が建設されたと考えている。この滝から遣水のようにして西に流れ安民沢へつながる。そして安民沢の東北隅に残る滝口跡に高さは5メートル弱の滝が造られていた。この2つの滝を45尺(13.6メートル)の滝と称した。

画像
鹿苑寺 夕佳亭
画像
鹿苑寺 不動堂 滝は左が斜面にあったのか?

 上りの石段を登りきると茶室 夕佳亭の全貌が見える。この茶室は先に触れたように、鳳林承章が後水尾法皇の行幸を迎えるために、金森宗和に造らせたものとも言われている。小休止できる茶店の先に、弘法大師が造られた石不動明王が祀られている不動堂が現れる。ここが西園寺公経の滝の位置なのか?現在ここが鹿苑寺の出口となっている。

画像
鹿苑寺 総門の外に戻る石段

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2021年4月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿