八坂の塔
八坂の塔(やさかのとう) 2008年05月16日訪問
清水寺の参道である松原通から、七味家総本店の脇の石段に入ると産寧坂となる。この坂は最初、北に向かって下って行くが奥丹のあたりで西側に曲がり始める。再び北に向かうニ寧坂に入らずこの道沿いに進むと右手に八坂の塔が現れる。この奥丹から下りながら塔に近づいてく道は、周りの町並みとともに最も塔が美しく見えるアプローチにもかかわらず、電柱と電線が景観を完全に破壊している。日本の都市景観の貧困さを象徴する光景となっている。
かつての翠紅館現在の京大和の中庭からの眺望はすばらしいものだと思われるが、なかなか庶民には訪問の機会がない。それでも東山を散策すると八坂の塔は、町並みの切れ間や町家の屋根の上に姿を現す。
一般に八坂の塔と言われているは法観寺の五重塔である。法観寺は臨済宗建仁寺派の寺院で山号は霊応山と称する。境内もそれほど広くなく塔以外に目立った建築物もないため、寺名より八坂の塔の方が有名になってしまった。
寺に残る伝承によると、崇峻天皇5年(592)聖徳太子が如意輪観音の夢告により建立されたとされている。その際、仏舎利三粒を収めて法観寺と号したと言われている。聖徳太子創建の伝承には確証がないが、延暦13年(794)の平安京遷都以前から存在した古い寺院であると見られている。朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力となっている。
法観寺は平安時代末期、治承3年(1179)に火災で焼失するが、源頼朝によって再建される。その後も幾度か焼失したがその都度再建されている。仁治元年(1240)に臨済宗建仁寺派に属する禅寺となる。足利尊氏は夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため、貞和元年(1345)北朝光厳院の院旨を得、暦応元年(1338)和泉の久米田寺より全国に安国寺と利生塔の建立を行っている。これは聖武天皇が国毎に国分寺を建立したのと同じように、1寺1塔を建てる計画であった。そして都の利生塔としてはこの塔を充て仏舎利を奉納した。現在の塔は4代将軍・足利義教によって永亨12年(1440)に再建されたものである。
五重塔は高さ49メートルと東寺や興福寺の五重塔に次ぐ高さをもつ純和様、本瓦葺の建築で、重要文化財に指定されている。中心の礎石は創建当初のものが残り、そのまま使われている。
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