六道の辻
六道の辻(ろくどうのつじ) 2008年05月16日訪問
八坂の塔を背にして八坂通を下って行く。この通りから塔を見上げる写真は午後でないと逆光になるため、今回は撮れていない。坂を下り切ると東大路通に出る。大通りを横断しさらに進むと右手に建仁寺、左手に六道珍皇寺の裏門が現れる。南に下り松原通に廻ると六道珍皇寺の山門と六道の辻と記された石碑が現れる。
阿弥陀ヶ峰山麓一帯はかつて鳥辺野と葬送の地であった。この鳥辺野の入口 へ続く道に面して建っていたことから六道寺とも呼ばれていた。阿弥陀ヶ峰は清水寺の本堂から子安塔を見たときその背後に拡がる美しい二等辺三角形をした峰であり、豊国廟から続く石段を登るとその頂上には巨大な五輪石塔が建てられている。ちなみに鳥辺野の範囲は古い時代ほど広かったようで、阿弥陀ケ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野にいたる丘陵地を指していたものが、現在では清水寺の南西から西大谷東方の山腹に墓地を呼ぶようになっている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会
北は清水坂、南は小松谷に限る、むかしより諸宗の墓所なり。
としていることから、南側は現在の豊国廟あたりまであったようだ。
現在の感覚では、このあたりまでを鳥辺野の入口とするには少し遠いようにも感じられる。このあたりは山門横に置かれた碑のように六道の辻と呼ばれていた。六道とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという6種類の世界のことで、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道に分類されている。六道の辻は、京の中心部を人間道の世界とするとそれ以外の世界との境界線として考えられていたのであろう。この六道珍皇寺の西にあり、同じ松原通に面する西福寺の角にも六道之辻という碑が建つ。フィールド・ミュージアム京都によると、一般的に六道の辻は六道へ通じる道の分かれる所の意で珍皇寺の門前のことを指すとし、さらに松原通の轆轤町と新シ町の間を南に至る道を含めた丁字路を六道の辻としている。
この西福寺の始まりは、この地に空海が辻堂を建て自作の地蔵尊を祀ったことから始まるとされている。この地蔵尊は六波羅地蔵と呼ばれ、嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(檀林皇后)が後に仁明天皇となる皇子正良親王の病気平癒を祈願している。以来、子育て地蔵としても信仰されている。
空海は大同元年(806)唐より帰国し、大同5年(810)の薬子の変の際には、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行っている。空海と嵯峨天皇、檀林皇后の結びつきはこのころか始まっていたのであろう。そして弘仁14年(823)嵯峨天皇は、父である桓武天皇が創設した東寺を空海に授けている。檀林皇后も嵯峨天皇同様に仏教への帰依が強く、西福寺に壇林皇后九相図絵を残している。皇后は、この世は無常であり、あらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという事を示し、人々の仏心を呼び起こすために、自分の死後に自らの死骸を埋葬することを禁じ、道ばたに放置させたと言われている。皇后の遺体は帷子辻に置かれ、遺体が朽ち果てる様を九つの絵で描かせている。このような絵は九相図と呼ばれ、小野小町などにも描かれているように、生前美人であった人が対象となる。檀林皇后も絶世の美貌を誇っていたと言われている。この壇林皇后九相図絵は六道十界図とともに六道参りの期間、一般にも公開されている。ちなみに空海、嵯峨天皇そして皇后のいとこにあたる橘逸勢が三筆と呼ばれている。
現在のように西福寺となったのは、かなり時代の下った江戸時代と考えられている。
都名所図会の珍皇寺の図会には、珍皇寺と六波羅蜜寺の間に西福寺の堂宇が描かれていることが確認できる。
花洛名勝図会の珍皇寺の図会には、珍皇寺の境内とともに非常に賑わう松原通が描かれている。この西福寺や珍皇寺が並ぶ松原通は、現在の通りからは想像することが難しいが平安京の五条大路にあたる。豊臣秀吉が五条の橋を現在の地に架けたことから二筋南に五条通の名前が移ったのである。 西福寺の南に位置する六波羅蜜寺のあたりは、轆轤町(ろくろちょう)となっているが、江戸時代初期には髑髏町と呼ばれていたという話しもある。平安時代の頃は死体を鳥辺野まで運ぶのが面倒で、鴨川に投げ込むこともあったらしい。そのため髑髏がごろごろ転がっていたので、髑髏原と呼ばれていたとされている。
現在では京焼あるいは清水焼の生産地となっているので轆轤町の名前はこの地に馴染んでいるが、京焼の歴史はそれ程古くはない。慶長年間(1596~1615)初頭には京焼の生産が始まっていたとされているが、製造が拡大するのは17世紀に入り茶道の興隆が始まる時期だと考えられている。そのため江戸時代初期には、まだ陶器造りで轆轤町と名づけるには町並みが至っていなかったのではないだろうか。
西福寺の斜め前には、幽霊子育飴を販売する「みなとや」がある。もとは六道珍皇寺の前に店があったようだが、現在ではこの地に店を開いている。子育て幽霊は比較的世に知られた昔話しのひとつである。多少異なる伝承もあるが大まかな筋は下記のようなものである。
ある夜、飴屋の戸を叩く音がするので主人が出てみると、青白い顔をして若い女が「飴を下さい」と一文銭を差し出していた。女が悲しげな声で頼むので飴を売ると、翌晩から5日間、女は同じように一文銭を持って飴を買いに来た。そして7日目の晩に「もうお金がないので、これで飴を売ってもらえませんか」と女物の羽織を差し出したので、羽織と引き換えに飴を渡した。
その翌日、羽織を店先に干しておくと、通りがかりのお大尽が店に入ってきて「この羽織は、先日亡くなった娘の棺桶に入れたものだ。これをどこで手に入れたのか」と聞くので、驚いた飴屋の主人は、女が飴を買いにきたいきさつを話した。
お大尽も大いに驚き主人ともども娘を葬った墓地へ行くと、土饅頭の中から赤ん坊の泣き声が聞こえる。掘り起こしてみると、娘の亡骸は生まれたばかりの男の赤ん坊を抱き、手にはしっかりと飴が握られていた。 お大尽は赤ん坊を墓穴から救い出し子供は必ず立派に育てると娘に告げると、それまで天を仰いでいた亡骸は頷くように頭を落とした。この子供は後に菩提寺に引き取られて高徳の名僧になったという。
この話しは、南宋の洪邁が編纂した志怪小説集・夷堅志の中にある「餅を買う女」と内容が類似している。そのため中国の怪談の翻案であったとも考えられる。
日本では親の恩を説くものとして多くの僧侶が説教の題材として用いたことで全国的に広がったのであろう。江戸時代初期の肥後国の僧侶月感が記した「分略四恩論」にもこの話しが取り上げられている。
明治から昭和にかけて活躍した小説家であり劇作家の岡本綺堂もこの夷堅志の中から餅を買う女を取り上げている。また二代目桂文之助はこの話しを落語に取り入れている。下げに子供が救い出された寺を「子を大事」から高台寺としている。落語界から引退した文之助は高台寺の境内に茶屋を開いている。八坂の塔の東にある文の助茶屋は平成11年にこの地に移転してきたものである。
松原通に面して西福寺の少し西に愛宕念仏寺元地の碑がある。この碑は平安建都1200年記念として平成6年(1994)に、愛宕念仏寺の住職が建立したものである。愛宕念仏寺は嵯峨野鳥居本の先にあり、千二百羅漢像で有名であるが、元は東山のこの地にあった愛宕寺がもととなっている。8世紀の中頃、称徳天皇により京都・東山に等覚山愛宕寺が創建される。平安時代初め頃には真言宗東寺派の末寺となっていたが、鴨川の洪水で堂宇を流失し荒れ寺となっていた。醍醐天皇の命により天台宗の伝燈大法師が復興した。伝燈大法師は念仏を唱えていたところから念仏上人とも呼ばれていた。そのため寺名も愛宕念仏寺と改められ、天台宗に属することとなる。この時期に七堂伽藍を備えた勅願寺として復興されるが、再び寺運は衰退していく。 大正11年(1922)に、東山に残された愛宕念仏寺の本堂、地蔵堂、仁王門を嵯峨野の地に移築し、昭和30年(1955)仏師で僧侶の西村公朝が天台宗本山から住職の要請を受けてから、現在の愛宕念仏寺の姿となった。
都名所図会には嵯峨野に移転する前の愛宕念仏寺の姿が残されているとともに、この地が昔から愛宕里と言われていた、当時から火伏地蔵があったことが記されている。
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