智積院
真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん) その1 2008年05月16日訪問
並河靖之七宝記念館から、神宮道に出る。平安神宮の大鳥居に向かい進むと京都市営バス 京都会館美術館前停留所が現れる。ここから京都市営バス100号に乗り、東山七条に向かう。京都国立博物館の裏側で下車し、交差点を渡り智積院の総門の前に立つ。拝観者は総門の南側にある二本の柱に横木を渡した冠木門から入ることとなる。
智積院は真言宗智山派総本山智積院で、山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺という。真言宗智山派には有名な成田山新勝寺、金剛山金乗院平間寺(川崎大師)、高尾山薬王院など3つの大本山と高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊)と大須観音寶生院の2つの別格本山がある。
智積院の歴史には豊臣秀吉と徳川家康という2人の権力者の影響が色濃く現れている。
真言宗の宗祖・弘法大師空海が高野山で入定されたのは、承和2年(835)のことであった。それからおよそ250年後の平安時代後期となると、僧侶は喰うための手段と考える下僧と、権力争いのみに熱心な上僧が溢れ、真言宗は腐敗衰退していた。後に興教大師となる覚鑁(嘉保2年(1095)~康治2年(1144))は、13歳で仁和寺成就院へ入り、16歳で得度・出家。奈良東大寺等で学んだ後、20歳で高野山へ入る。真言宗の伝法を35歳の若さで灌頂するなど、弘法大師以来の才と称されていた。やがて覚鑁は、高野山金剛峯寺に大伝法院と密厳院を建立する。長承3年(1134)金剛峯寺座主に就任すると、かねてから念願であった真言宗の建て直しを図る。しかし高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになる。そして保延6年(1140)密厳院は反対派の僧達により急襲・破却され、覚鑁一門も金剛峯寺より追放されてしまうこととなった。
追放された覚鑁は、弟子一派と共に根来山に根来寺を建立し、真言宗の正しい有り方を説き独自の教義・新義真言宗を展開する。覚鑁は3年後の康治2年(1143)に49歳の若さで没するが、約1世紀後の正応元年(1288)大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来に移している。これにより根来山は、学問の面でも大いに栄え、室町時代末期の最盛時には、2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになったといわれている。智積院は、その数多く建てられた塔頭寺院の中の学頭寺院であった。
寺領72万石の宗教都市・根来は、根来衆とよばれる僧兵1万余を擁する一大軍事集団でもあった。種子島から伝来したばかりの火縄銃が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られる。近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに織田信長、豊臣秀吉に抵抗するが、天正13年(1585)秀吉の軍勢により大師堂、大塔など数棟を残して焼討ちされた。智積院の住職であった玄宥僧正は高野山に逃れ、その後も真言宗系の京都の高雄山神護寺や醍醐寺三宝院などを転々とした。
慶長5年(1600)再興の訴願を続けていた玄宥に、関が原の戦いで勝利した徳川家康から智積院再興の許可が出される。そして翌6年(1601)に京都東山の豊国神社境内の坊舎と土地を寄進され、智積院は再興される。さらに三代目住職日誉の時代、元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると、隣接する祥雲禅寺をも拝領し境内伽藍の拡充がなされる。
祥雲禅寺は秀吉と愛妾・淀殿の第一子・鶴松の菩提を弔うため妙心寺の高僧・南下玄興を開山として建立された寺院。鶴松の法名・祥雲院にちなんで名付けられたといわれている。
織田信長と豊臣秀吉の紀州攻めは、天正5年(1577年)の雑賀攻めに始まり、同13年(1585)まで続く。これは単なる近畿地方の一地域の領地を武力占領するだけではなく、寺社勢力や惣国一揆など天下人を頂点とする中央集権思想に対立する勢力及び思想の根絶を意味していた。そして天正13年(1585)秀吉の紀州攻めで、根来寺と粉河寺は炎上し、雑賀荘は秀吉軍によって占領される。高野山は降伏を受け入れ、存続は保証されるが完全な武装解除がなされる。そして根来衆の残存兵力が立て籠もる大田城を水攻めにし、同年4月24日に降伏させている。この紀伊平定後、秀吉は国中の百姓の刀狩を命じ、やがて太閤検地へとつながっていく。これによって寺社勢力と惣国一揆は消滅し、圧倒的な武家の軍事力による一元支配と中央集権管理の近世が始まる。
このようにして豊臣秀吉に根来寺を焼かれた智積院の玄宥は、秀吉の生前に智積院の再興は叶わなかったが、秀吉が没し関が原の戦いで西軍が敗れると、勝者である徳川家康から勝利祈願の褒美として智積院の再興の許しを得られた。そしてそれは秀吉の墓所でもある豊国神社の土地をも与えられた。さらに豊臣氏滅亡後には秀吉の長子の菩提寺まで拝領している。この下げ渡しは二条城で告げられたが、同席していた金地院崇伝が「誠に羨ましい」と言ったとの話も伝わっている。これは豊臣家の痕跡を象徴的に払拭するために、かつての受難者を復権という崇伝が用意したシナリオなのだろうか。
宮元健次氏は著書「京都名庭を歩く」(光文社新書 2004年)で秀吉神格化の阻止と徳川家康について論考している。
本願寺は元亀元年(1570)からの10年間、石山合戦という形で織田信長と交戦状態が続いたが、天正8年(1580)信長との間に講和が成立している。4月に顕如は石山本願寺を去り、紀伊鷺森に入っている。しかし信長を信用しない教如は、父である顕如に反し徹底抗戦を主張し、石山本願寺に籠城する。顕如は、教如を義絶する。
最終的には新門跡の教如も雑賀に退去し、この年の8月に石山は信長のものとなった。そして引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くした。
この後、天正10年(1582)本能寺で織田信長が討たれると、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案し、義絶は赦免され、顕如と共に住し寺務を幇助するようになる。さらに顕如は豊臣秀吉と和解し天正13年(1585)には摂津中島に転居して天満本願寺を建立する。さらに天正19年(1591)京都の七条堀川の地に寺地が与えられ、京都に本願寺教団を再興することとなったが、豊臣政権の強い影響下に置かれたともいえる。文禄元年(1592)顕如の示寂に伴い、教如は本願寺を継承する。その際、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置いたため教団内に対立が発生する。文禄2年(1593)秀吉は教如を大坂に呼び、10年後に弟の准如に本願寺法主を譲る旨の命が下される。教如はこの命に服しなかったため、秀吉は准如に本願寺第十二世法主を継承させ、教如を退隠させた。
これらの歴史を見る限り、本願寺と信長とは敵対関係にあったが、かつての領主権力を失ったものの秀吉との間には均衡が保たれていたと考えられる。天満本願寺には大阪城に近接する良い土地を与え、京都では顕如に自由に敷地を選ばせたことを元に、宮元氏は秀吉の本願寺に対する手厚い保護政策を指摘している。特に京都の場合は、ほとんどの寺院を強制的に寺町に移転させたのに対して本願寺だけ特別に扱ったようにも見える。
秀吉は阿弥陀ヶ峰の西方に本願寺を置き、その軸線上に鶴松の菩提を祀るための祥雲禅寺を配置した。そして慶長3年(1598)伏見城で亡くなると、遺言により阿弥陀ヶ峰中腹に埋葬される。現在の豊国廟の石段の始まる場所に約30万坪の広さの太閤坦を造成し、豊国廟と豊国社が造営された。そして翌慶長4年(1599)遷宮式が行われる。後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、毎年盛大な祭礼・豊国祭が取り行われている。
この阿弥陀ヶ峰の山麓には、秀吉にまつわる方光寺(文禄4年(1595))と大仏殿(慶長元年(1596))、祥雲禅寺(天正19年(1591))そして豊国廟と豊国社(慶長4年(1599))が、およそ七条通の南北に展開している。これらを宮元氏は、本願寺から伸びる東西軸線に意図的に配置したものであるとし、秀吉の魂は本願寺の阿弥陀如来像に導かれるように西方浄土に赴くが、東の阿弥陀ヶ峰で豊国大明神として再生するための装置と見ている。
一方、徳川家康は慶長5年(1600)玄宥に智積院再興の地として祥雲禅寺を与え、同6年には豊国神社境内の坊舎と土地を寄進している。さらに慶長7年(1602)本願寺と阿弥陀ヶ峰の軸線上の烏丸六条の四町四方の寺領を教如に寄進する。これは前々年の関が原の戦いの際、教如が諜報活動を行ったことに対してのものとも考えられている。教如はここに堂宇を建立し、東本願寺の十二代法主となる。
そして大阪夏の陣により豊臣家が滅亡すると、元和元年(1615)徹底的に豊国廟と豊国社を破壊している。これが上記の秀吉が作り上げた再生のための装置に対する家康の破壊工作であると宮元氏は指摘している。
この考え方はどうも前から多くの人が語っているようで、未確認ながら、「鬼がつくった国・日本」(1984年 光文社 小松和彦・内藤正敏)から「日光東照宮の謎」(1996年 講談社現代新書 高藤 晴俊)そして「日光東照宮 隠された真実」(2002年 祥伝社黄金文庫 宮元健次)という系譜があるらしい。このあたりはもう少し調べてみようと思う。
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