角屋
角屋(すみや) その1 2008年05月18日訪問
渉成園の西門を出て、間之道通を南に下り七条通へ出る。七条河原町通から市バスで島原へ向かう。角屋の2階部分は午前1回、午後2回特別公開される。そのため既に予約しておいた10時30分までに角屋に着かないとならないのだが、乗車するバスを誤ったようで思っていた方向とは違う方に進み始めた。そこで七条堀川で下車しタクシーに乗り換える。かなりバスが来るまで停留所で待ったことも含めて最初からタクシーに乗れば良かったと後悔する。 既に10時30分の回は巡回を始めていたようで、入館料の1000円と特別公開の800円を支払った上で、ロッカーに荷物を預け2階に上る。幸いまだ説明が始まったばかりだった。角屋は30年近く前の学生時代に一度訪れてことがあり、書院造や数奇屋建築の建築史的な講義を受けた中では異色な建物であったことは強く印象に残っている。数奇屋というものが洗練された美学によって発展してきたものだと信じていた頃なので、その奥深さや異形と悪趣味の狭間を見せつけられたような記憶が残っている。
角屋は島原花街の揚屋建築の遺構であり、昭和27年(1952)国の重要文化財の指定を受けている。
角屋の建築空間を理解するためには、既に失われてしまった島原の文化を学ぶことから始まる。これは見学中に何度も説明員から出た吉原などの遊郭との違いにある。私達の花街に抱くイメージは歌舞音曲や文芸を中心とした遊宴の場というよりは、吉原の花魁を筆頭とした娼妓による性産業が強い。これは、花街の体験のない人々が映画やテレビで映像化されたものを無意識に受け入れた結果とも言える。2003年にNHKが放映した「武蔵 MUSASHI」での吉野太夫の性的な表現が、角屋保存会にとって受け入れがたいものとなり、以後角屋でのNHKのロケを禁じているという説明が角屋の1階では行われている。このことはWikipediaの武蔵 MUSASHIでも取り上げられている。そのお陰で翌年の「新選組!」の芹沢鴨暗殺前の酒宴の場面を撮影できなかったとされている。
島原については改めて書き起こすとして、角屋の創設について話しを戻す。
天正17年(1589)豊臣秀吉によって柳馬場二条に柳町が開かれ、初代徳右衛門が角屋の営業を始める。慶長7年(1602)柳町は突然の移転を強いられ、角屋も六条三筋町へ移転させられる。更に寛永18年(1641)再度柳町は移転となり、角屋も二代目徳右衛門によって現在地の島原へ移される。この2度目の移転騒動が寛永14年(1637)に勃発した島原の乱のようだと言われ、この地の名称は島原と呼ばれるようになったが、正式には西新屋敷である。
延宝年間(1673~80)に北側への拡張が行われ、天明7年(1787)の南側への拡張により、ほぼ現在の規模になっている。明治5年(1872)まで営業した後、お茶屋に編入されている。大正15年(1925)大座敷松の間のみ火事により再建したため、昭和27年(1952)の重要文化財から外されている。そのためか昭和60年(1985)まで松の間は宴会に使用されていた。
これから先は撮影不可の上、手元に角屋の図面がないため内部を見学した記憶で書くこととなるが、現在の建物となるまでに、上記のように数度にわたる増築が行われているため非常に分り難いものとなっている。特に通りに面した表棟の構成はそれ程でもないとしても、表棟と中庭を挟んで建つ奥棟、1階と2階の関係は非常に複雑なものとなっている。表棟は間口31.5メートルに達する繊細な格子造のファサードを持ち、内部の濃厚な空間構成を感じさせないものとなっている。角の字の描かれた門灯の脇には入口が設けられている。表棟の2階には北から南に向けて緞子の間、翠簾口の間、翠簾の間そして扇の間が並ぶ。1階の入口、2階の扇の間から南側は上記のように天明7年(1787)に増築されている。それ以外の部分は寛永18年(1641)から天和元年(1681)に建てられている。Googleマップで屋根伏を見ると明らかに3つの部分が継ぎ足されていることが分かる。恐らく中央部分が最も古い寛永18年(1641)のものであろう。
2階の主座敷である緞子の間は、建具に緞子が張ってあることから名付けられている。緞子は繻子の絹織物で地が厚く光沢もあり豪華さを演出している。また扇の間は天井に58枚の扇面を貼り交ぜている。格天井に1枚づつ整然と貼り込むのではなく、扇はいろいろな方向を向いている。またこの部屋の欄間も扇形に統一されているため、扇の群舞を鑑賞している気持ちにさせる。表棟のファサードと同じように非常に現代的なグラフィカルな表現に仕上がっている。このあたりの意匠の統一感と現代的な抽象化により、ぎりぎりのところで悪趣味にならないで留まっているように感じさせる。いずれにしてもこの空間は広いにもかかわらず明るくないため、光を少しでも反射する素材が最初に目に入ってくる。目が慣れてくるにつれて細部が見えてくるため、一度に多くの情報が入ってくることがない。それによってこの部屋の意匠の奥の深さを感じさせることにつながっているのであろう。
草花の間は1階から続く階段の脇にあり、廊下や控えの間として使われたとされている小さな部屋。襖絵は宗達風に彩色された四季の草花図を山田峨山が描いている。馬の間の天井は一度目の移転先の六条三筋町に用いられたものを移したと言われている。この座敷には円山応挙による少年行の図の襖絵があるが、どうも位置関係を含めて記憶が定かではない。
さらに奥棟の2階には檜垣の間と青貝の間がある。
西和夫氏の「京都で建築に出会う」(彰国社 2005年)では、天明4年(1784)に刊行された「一目千軒」に、檜垣の間は既に描かれていることからこれ以前に造られたものと推定している。また青貝の間は、延宝年間(1673~1680)頃の「角屋古板絵図」に描かれず、「一目千軒」に描かれていることから、この2つの間に造営されたとしている。
檜垣の間は天井や建具の意匠を薄い檜の板を網代のように編んで作った垣根で纏めている。この部屋で特筆すべきは障子の組子である。縦の組子が波打つように、一本の木を削り出して作られている。これによって横の水平の桟も波打つような錯覚が生じている。残念ながら障子の開け閉めをしてくれなかったが、かなり強烈な視覚効果があるだろう。何故、酔客をもてなす場にこのようなデザインを用いるのかとも思ったが、そのような場だからこそ実現可能なデザインだったかもしれない。書院のような日常の空間に用いると精神的に不安感を抱かせる意匠となるかもしれない。また、この部屋の襖絵は与謝蕪村の筆による夕立山水図であり、額は池大雅による。国宝・十便十宜の組み合わせである。
青貝の間は今まで見てきた部屋とはかなり印象が異なる。九条土の壁に青貝を入れた青貝壁で仕上げられている。「京都で建築に出会う」によると、当初は大阪壁であったものを安永年間(1772~1780)以後に青貝壁に変更したようだ。黒に近い暗褐色をした九条土の中に埋め込まれた青貝は黒漆に施された螺鈿細工のように見え、独特な空間を作り出している。確かに長い年月の間に蝋燭の煤によってこのような状態となってしまったことは理解できるし、青貝を埋め込んでいるため簡単に洗うことも難しいことも想像できる。それでもこのまま使い続けたのは、この姿が美しく、他では再現できない奇異なものであると思っていたからであろう。さらに北西隅に地袋付きの床と神璽棚、北寄りの外部には露台を設けていることもこの部屋が醸し出す異国趣味を増強させている。
このような角屋の建造物及びその環境、そして角屋中川家伝来の美術品・古文書類の保存・活用を図るとともに、角屋関連諸行事と時代風俗を保存継承し、これらを公開することを目的に、平成元年(1989)に財団法人 角屋保存会が創設される。角屋の公式HPでは主な事業としては下記のものをあげている。
角屋の重要文化財建造物及びその環境の保存及び活用
角屋中川家伝来の美術工芸品の保存・活用及び調査研究、並びに研究成果の刊行
角屋の関連諸行事と時代風俗の保存継承及び活用
その他目的を達成するために必要な事業
現在の財団の理事長は、中川家15世・中川清生氏が務めておられる。
財団創設時は1日30人限定で内部を公開していたが、平成10年(1998)角屋もてなしの文化美術館として開館するようになった。この2回の公開も予約制ではあるものの1回20名定員で1日4回実施されているので、確かに高価な入場料ではあるものの以前より一般の人への公開は広まっている。
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