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城南宮



城南宮(じょうなんぐう) 2008年05月18日訪問

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城南宮 本殿へ向かう鳥居

 西寺址から再び九条通に戻り、城南宮へと向かう。公共の交通機関を使うと時間も掛かり、便はあまり良くないので、やむなくタクシーを利用することとする。城南宮への道筋はお任せすると、新千本通を南に下り十条通に出る。ここから東に走り国道十条の交差点で京阪国道に入り、ここから真直ぐ南に進む。鴨川を越え、名神高速道路の京都南インターチェンジの高架を過ぎると城南宮に着く。タクシーを使えば九条から10分弱で到着できるので、竹田駅から徒歩で向かうよりも早い。

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城南宮 城南宮道の西側に建つ鳥居
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城南宮 城南宮道の中 本殿へ続く鳥居は左手

 国常立尊、八千歳神(大国主神)、息長帯日売命(神功皇后)を主祭神とし、他に天照皇大神、品陀別命、別雷神、大山咋神、天児屋根命、宇気毛智神を祀る。
城南宮の歴史は古く、真幡寸神社から始まる。
 日本書紀などの記述によれば、神功皇后(成務40年(170)~神功69年(269))は、夫の仲哀天皇の急死(200)後、海を渡り朝鮮半島への出兵を行っている。そして新羅、高句麗そして百済に朝貢の誓いを約した三韓征伐の説話が残されている。真幡寸神社は軍船に立てた御旗八千矛神の御霊を納められたことによる。この説話は藤森神社にも関係している。藤森神社は、神功皇后3年(203)三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に軍旗の中で一番大きい旗(纛旗 とうき)を立て、武具を塚に納め神祀を行ったことが発祥とされている。この藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であり、その地に稲荷神が祀られることになったため、藤森神社は現在の地に遷座している。その時、現在の藤森神社にあった真幡寸神社を鳥羽真幡木里(現在の伏見区竹田真幡木町 若宮八幡宮前)に遷座した。伏見稲荷大社は和銅4年(711)秦伊侶巨が勅命を受けて稲荷山の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる秦氏にゆかり深い神社である。藤森神社の創設は明らかではないが、真幡寸神社と同様に神功皇后の纛旗 を立て、武具を塚に納め神祀を行った神社とされている。そして真幡寸神社は秦氏の勢力圏にあり、氏神と考えられている。このように3つの神社は秦氏の強い影響下にあり、何らかの事情によりトコロ天方式で遷座がなされている。藤森神社は延暦13年(794)桓武天皇より弓兵政所の称が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われている。そして城南宮も国常立尊を合祀し、以来都の南方に鎮まり国を守護する城南明神と仰がれるようになる。御旗の日月星の御紋章が城南宮の三光の神紋の由来となっている。 真幡寸神社も弘仁7年(816)には官社に例している。真幡寸神社がいつ現在の城南宮の森へ移されたかは明らかでないが、平安末期院政時代に入り洛南一帯に離宮の造営や寺塔の建立が相次いだ時代と考えられている。この時代はこの鳥羽の地で院政が行われたため、あたかも都のごとく賑わい、秋の祭礼は行粧華麗に行われていた。

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城南宮 祈祷殿
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城南宮 拝殿

 熊野神社の項でも触れたように、この時代は上皇たちの熊野詣の時代でもある。寛治4年(1090)白河上皇の熊野行幸から熊野詣が活発化する。当時、天皇が都の外に出ることは難しくても、上皇法皇は比較的に自由に行動ができた。白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回と上皇の熊野御幸は、ほぼ年中行事と化していた。「蟻の熊野詣」とは言われても、全ての人が熊野詣を行えたわけではなかったので、都に熊野社が勧請されたのであろう。熊野神社は、後白河上皇が勧請した新熊野神社、熊野若王子神社と共に京都の熊野三山として朝野の崇敬を集めてきた。 この熊野詣の出立にあたり精進潔斎を重ね、道中の無事を祈りが行われた。特に白河上皇や鳥羽上皇は熊野詣の精進所として城南離宮をしばしば選び、ここに7日程籠って身を清め、道中の安全を祈願して、往復一月にも及ぶ信心の旅に出掛けたと言われている。また、方違えの宿所に城南離宮が選ばれる事も多く、城南宮の方角の災いを除く方除と旅行安全の信仰が起こる。
 白河上皇が造営した城南離宮で永長元年(1096)武者を集め、馬上から弓を射る芸を楽しんだ遊興を流鏑馬としたのが、文献に残る最古の記録とされている。そして承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇は流鏑馬揃えを口実に、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎を集め、北条義時追討の院宣を発する。これが承久の乱の上皇挙兵となる。しかし北条政子が頼朝以来の恩顧を訴え上皇側を討伐する声明を出し、義時を中心に御家人を結集させることに成功する。そして6月14日の宇治・瀬田での戦いで上皇軍が敗れ、後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流される。そして順徳上皇の第一皇子である仲恭天皇は即位後81日で廃され、わずか17歳で崩御している。この乱の後、権勢を極めた離宮の建築群も次第に衰退し、応仁の乱に至って完全に荒廃してしまう。しかし城南祭と方除け信仰は後世に承け継がれる。 文久元年(1861)皇女和宮関東下向の道中安泰祈祷が行われ、文久3年(1863)4月孝明天皇石清水行幸の途中に御休憩される。さらに慶応4年(1868)3月明治天皇大阪御親征行幸の際にも立ち寄られている。
天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には城南神社という名称で図会が残されている。

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城南宮 本殿側から眺めた境内

 城南宮は明治10年(1878)式内社・真幡寸神社に比定され、社名を真幡寸神社に改称する。しかし昭和40年(1965)に社号を城南宮に復し、真幡寸神社はその境内摂社として、境内に新たに社殿を設けて奉祀されることになった。
 城南宮の境内の構成は他の神社と少し異なっている。上記の拾遺都名所図会では東西に通る道に対して城南宮の本殿と八幡宮が並ぶ姿が見える。現在の城南宮は、東西に通る城南宮道が参道化しており、この道の南北に境内は広がっている。

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城南宮 参道を東側から眺める

「城南宮」 の地図





城南宮 のMarker List

No.名称緯度経度
 城南宮 34.951135.7465
01   真幡寸神社の跡 34.9555135.753
02  秋の山 34.9499135.7437
03  鳥羽殿址 34.9483135.7437
04   田中殿址 34.9539135.7497

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