建勲神社
建勲神社(たけいさおじんじゃ) 2008年05月19日訪問
大徳寺の塔頭・高桐院を後にして船岡山を目指す。玉林院、龍光院、大光院の前を通り、北大路通に出る。北大路通を南側に渡り船岡東通を南に下る。住宅街の中を進むと右側から船岡北通、左から建勲通が合流する角に建勲神社の鳥居が建つ。
天下統一の大事業とともに朝儀復興を進めた織田信長の偉勲とを称え、明治2年(1869)明治天皇による健織田社の創建が決定する。翌明治3年(1870)織田信長の子孫で天童藩知事織田信敏の東京邸内と旧領地の山形県天童市に建勲社が造営されている。明治8年(1875年)別格官幣社に列格している。この船岡山の頂上東側に建勲神社の社殿が建立され、東京より遷座されたのは明治13年(1880)のことである。
建勲神社の主祭神は織田信長、明治14年(1881)に嫡男の信忠が合祀されている。豊国神社(豊臣秀吉)、梨木神社(三条実美)、阿部野神社(北畠親房、北畠顕家)、四条畷神社(楠木正行)、湊川神社(楠木正成)などが同じ別格官幣社となっている。これらは明治以降に行われた政治的再評価により、歴史上の人物たちが利用されていく過程が見えてくる。
織田信長は、天文3年(1534)尾張国古渡城主・織田信秀の嫡男として生まれている。天文20年(1551)急死した父の後を受けて家督を継ぐ。同母弟である織田信行(信勝)と家督争いに勝利、国内の敵対勢力を下すことで尾張国の統一を果たす。
永禄3年(1560)圧倒的な不利な状況にあった今川義元との桶狭間の戦いに勝利する。永禄10年(1567)美濃国の斎藤氏を滅ぼし、その翌年の永禄11年(1568)には足利義昭を奉じて上洛を果たしている。これは永禄2年(1559)13代将軍足利義輝に謁見に次ぐ2回目の上洛であった。ちなみにこの最初の上洛は桶狭間の戦いの前のことであり、既にこの時期から中央との関係を意識していたことが分かる。
この一地方の大名が、わずか35歳で中央に進出できた理由として、尾張という場所に生まれたことを挙げたのは司馬遼太郎だったように記憶する。軍事力や政治力だけが秀でていたら狩野となるならば、確かに武田信玄と上杉謙信、今川義元、あるいは毛利輝元や島津義久そして後年の伊達政宗はどうだろうか?彼らが天下の号令者になり得なかったには地理的な要因や時間的な要因が存在することは創造に難くない。それでも、同時代により優位な位置にいた三好衆や松永久秀、浅井長政そして足利幕府ではなく、織田信長が権力を掌握できたのは、やはり信長の資質に要因を求めない訳にはならない。
永禄12年(1569)信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書を発令し、これを義昭に認めさせている。この掟書はのちに7ヶ条が追加されている。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになり、義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺、石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて第一次信長包囲網を結成している。元亀元年(1570)の姉川の戦い、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いから武田信玄の死去、そして元亀4年(1573)二条城や槇島城に立て籠もった足利義昭を破り、京都から追放している。これが事実上の室町幕府の滅亡とさせている。このように信長は義昭が張り巡らせた第一次包囲網を崩壊させている。
天正4年(1576)毛利氏の庇護下の元、鞆に移った足利義昭は再び信長包囲網の構築を企図する。義昭は征夷大将軍として御内書を出し、本願寺、武田勝頼、毛利輝元そして上杉謙信らに集結を呼びかけている。信長は、まず天正3年(1575)長篠の戦いで武田勝頼を破り、天正5年(1577)紀州雑賀衆を討伐、信貴山城の戦いで松永久秀を討ち取っている。そして天正6年(1578)上杉謙信が死去すると、包囲網は次第に弱体化していく。
天正7年(1579)荒木村重や別所長治との戦いで優勢を占めるようになる。翌8年(1580)三木城の陥落、石山本願寺を明け渡しに続く本願寺法主顕如との講和にも合意する。これによって10年に及ぶ石山戦争が終結する。この石山本願寺の陥落を以って第二次信長包囲網もほぼ瓦解したといってよいだろう。そして天正10年(1582)いわゆる武田崩れで、武田勝頼は自害し、戦場に残ったのはわずかに上杉景勝、毛利輝元のみであった。
そして天正10年(1582)5月29日、中国遠征のために上洛、京の本能寺に逗留している。ここに秀吉への援軍を命じられた明智軍が、京都に進軍し6月2日に本能寺を襲撃する。圧倒的多数の明智軍を前には敵わず、自ら火を放ち燃え盛る炎の中で自害したと伝えられている。享年49歳。
永禄11年(1568)の2度目の上洛から、天正10年(1582)の本能寺の変までの14年間に亘る天下統一の戦いは、既成勢力の包囲網を打ち破る戦いでもあった。新たな政権を樹立することは、上洛して将軍家を打倒することでは終了しない。既に権力を失っていた室町幕府と置き換わっても、新たな権力者に成りえないからだ。信長にとって必要なことは、新たな統治するためのシステムを構築し、全ての者をそれに従わせることであった。それは毛利や島津という戦国大名だけではなく、石山本願寺や比叡山のような宗教団体、そして堺に代表される商人達から農民層まで及ぶ。朝廷もまたその対象外という訳ではない。武田信玄も上杉謙信も、そのような時間が残されていなかったからこそ、信長に代わりえるものでなく、戦国大名の位置に留まった。
このようなシステムの構築に信長は14年間という長い時間を要したが、その後継者達はこの基礎を壊すことなく受け継いでいったからこそ、この事業は成功したとも言える。
白木で造られた鳥居を潜ると、末社の義照稲荷社の石段と赤い鳥居が見える。義照稲荷社は宇迦御霊大神、国床立大神、猿田彦大神の三柱を祀り、古くより秦氏の守護神として今日の西陣織の祖神となっている。建勲神社の本社へは、左に折れて大平和敬神の石碑の脇から石段を登る。この石碑は旧社殿跡を示すものとなっている。登り始めて程なくすると、開けた場所に出る。ここの社務所と拝殿、そして本殿が東西軸上に配置されている。社殿は、先に通り過ぎた旧社殿地から明治43年(1910)にこの地に移されている。
もともと船岡山は平安京の造都に際して、北の基点となったとされている。平安京の中央を南北に貫いていた朱雀大路は千本通として現在の京にも残っている。北に向かって進む千本通は、船岡山を避けるように今出川通から西北に折れていく。この今出川通より少し南を一条通が平安京の一条大通であるから、朱雀大路を北に向かって進むことは、船岡山の背景とした大内裏の建物群を目指したのであろう。
清少納言の「枕草子」231段にも「岡は船岡」とあるように、古来より景勝の地であった。しかし一方では、都を代表する葬送地でもあった。吉田兼好の「徒然草」137段では「鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と記されている。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変を知った豊臣秀吉は、高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、中国大返しと呼ばれるように京都に軍を返している。そして同月13日には山崎の戦いで明智光秀を討っている。そして27日に清洲城で行われた清洲会議において、池田恒興や丹羽長秀らの支持を受け、織田信忠の長男である三法師(のちの織田秀信)を信長の後継者としている。そして秀吉は、阿弥陀寺の清玉上人による法要とは別に、10月17日に大徳寺で信長の葬儀を盛大に行っている。勿論柴田勝家などの反秀吉派は参列していない。そして一周忌の法要にあわせて大徳寺107世の古渓宗陳を開祖として総見院を建立している。この後も秀吉は更に信長廟の建設を計画する。天正12年(1584)正親町天皇から天正寺という寺号の許可を得て、やはり古渓宗陳を開祖として船岡山の東麓に創建を進めた。しかし石田三成が秀吉に讒訴したことから、古渓宗陳は天正16年(1588)九州博多に配流になり、この計画は頓挫する。そして約300年後の明治13年(1880)に同じ船岡山の東麓に建勲神社が創建される。正に平安京の真北に位置する船岡山は、四神相応において玄武と見なされ、その守りとして信長に任せたという見方もできるだろう。現在も船岡山には玄武大神を祀る船岡妙見社が残されている。
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