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大徳寺 黄梅院



大徳寺 黄梅院 (だいとくじ おうばいいん) 2008年11月22日訪問

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大徳寺 黄梅院 庫裏前の庭

 東光寺の山門を出て、次の訪問地である大徳寺を目指す。天得院の角を西に曲がり、中門を潜り本町通に出る。本町通を北に進み、九条通の高架下にある伏水街道第二橋の親柱を見ながら歩くと、左手に京阪電鉄東福寺駅が現れる。電車はJR東海道本線の下を潜り、塩小路通の手前から地下に入っていく。鴨川の東岸川端通の下を北に進み、終着駅の出町柳駅で下車する。地上に出てタクシーに乗車し、賀茂川の西岸の出雲路を北上し北大路通を左折すると、およそ15分で大徳寺の東門に到着する。
 黄梅院は永禄5年(1562)織田信長が創建した黄梅庵が始まりとされている。信長は永禄2年(1559)までに尾張国の統一を果たし、同年2月には数百名の軍勢を率いて上洛、13代将軍足利義輝に謁見している。尾張国守護代の一家老に過ぎない織田家に生まれた信長が25歳で上洛を果たしたのは、単に尾張という地理的な優位性に拠っていただけではないことは十分に理解できる。その翌年の永禄3年(1559)には桶狭間の戦いで今川義元を討ち、徳川家康と清洲同盟を永禄5年(1562)に結ぶことで、美濃国の平定に取り掛かる準備ができた。そして永禄10年(1567)稲葉山城の戦に勝利し、斎藤龍興を伊勢へ追い出すことにより美濃一国を手に入れている。尾張と美濃を統治下に置いた永禄11年(1568)足利義昭を第15代将軍に就任させるために、二度目の上洛を行っている。この黄梅庵の創建は最初の上洛と二度目の間のことと考えられる。

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大徳寺 黄梅院 表門 一文字三星の毛利家の家紋が見える

 大徳寺第98世住持春林宗俶和尚を開祖として黄梅庵の創建を信長が行ったのは、天文20年(1551)頃に亡くなったとされている父・織田信秀の追善菩提のためとされている。拝観の栞には、永禄5年(1562)の信長にとって初めての上洛の際、お供の羽柴秀吉を京都所司代に任じ普請を命じたとしている。永禄11年(1568)の上洛時ならば、秀吉も京都で政務に就いていたかもしれないが、永禄5年(1562)時点で普請を秀吉に任せたとは考え難い。後で記述するように天正14年(1586)の本堂建立を秀吉が行ったことと混乱しているのかもしれない。
 なお黄梅庵の寺号は信秀の戒名、萬松寺桃巌道見からではなく、隋から唐時代の中国禅宗の五祖・弘忍大満禅師(602~ 675)ゆかりの中国破頭山東禅寺に由来するとされている。

 春林宗俶は文明19年(1487)丹後に生まれたとされている。大徳寺91世住持徹岫宗九の法を嗣ぎ、但州に円通寺を創建、泉州堺に禅通寺を再興している。後に後奈良天皇より仏通大心禅師を賜わる。永禄7年(1564)77歳で入滅。
 天正10年(1582)信長が本能寺で明智光秀に討たれると当地に密葬される。その後、信長の塔所としては寺領が小さいことから、天正11年(1583)秀吉は山内に総見院を建立し、信長の菩提所としている。

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大徳寺 黄梅院 表門内に建つ4本の石標

 その後、春林の法嗣で大徳寺112世住持玉仲宗琇が豊臣秀吉、小早川隆景らの帰依を受け、天正14年(1586)に本堂・唐門が秀吉により、そして天正17年(1589)毛利元就の三男小早川隆景の寄進により庫裏や表門などが整備されている。これらの堂宇の整備にともない、寺号は黄梅院に改められている。その後、黄梅院は毛利家の庇護の下にある。

 寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会では図会が無いものの、下記のように紹介している。

     「黄梅院〔霊山徳禅の西にあり、仏通大心禅師春林和尚塔所。天正十一年中納言従三位小早川左衛門ノ督隆景の造立、隆景は慶長二年六月十二日卒す、六十四歳。号二黄梅院殿泰雲紹閑一。隆景の子金吾秀秋、甥輝元相尋テ為二外護一〕」

     客殿中ノ間  七賢人   等顔筆
     礼ノ間    墨画芦鴟  同筆
     檀那ノ間   墨画西湖図 同筆

 ここでは織田信長による創建の話しは記されていない。

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大徳寺 黄梅院 本堂の玄関 唐門
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大徳寺 黄梅院 茶室群への入口 左に不動軒 正面に幻庵 そして左手に向春庵

 大徳寺の南門を入り、勅使門と三門金毛閣に至る参道の西側に黄梅院の表門はある。この表門は天正17年(1589)小早川隆景の寄進によるもので、平成17年(2005)に修理を終えている。境内は美しい苔に覆われ、その中を直線状に敷かれた延段が順路を示している。正面に大きな庫裏の妻面が見える。これも天正17年(1589)小早川隆景によって建立された板葺切妻造の建物で、日本で現存最古の禅宗寺院の庫裏とされている。確かに瓦葺の巨大な庫裏に比べると優美な印象を与える。表門の左手には益田玄播守建立の鐘楼がある。鐘は加藤清正が寄進したもので、朝鮮伝来とされている。
 表門の右手には4本の石標が建つ。表門側から、萬松院殿・織田信秀公霊所、洞春寺殿・毛利元就公家一門霊所、小早川隆景卿墓所、蒲生氏卿公墓地とある。既に来歴に触れたように織田信秀、毛利家そして小早川隆景の墓所を示す。利休七哲の一人であり陸奥黒川城主の蒲生氏郷は、文禄元年(1592)の文禄の役で肥前名護屋へ出陣している。陣中で体調を崩し、文禄4年(1595)2月伏見蒲生屋敷で死去している。享年40。遺体は領国の会津若松に帰らず、この黄梅院で葬られている。

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大徳寺 黄梅院 配置図 赤は拝観順路 青は南庭の塀の位置

 黄梅院の堂宇は、東側から表門、庫裏、本堂そして書院がほぼ一直線上に並んでいる。本堂は天正14年(1586)豊臣秀吉の寄進で建立された本瓦葺入母屋造の建物で、重要文化財に指定されている。また庫裏の南側には、本堂の玄関として設けられた唐門がある。これも秀吉による寄進で、本堂と共に重要文化財に指定されている。
 拝観順路は庫裏と唐門の前を通り過ぎ、塀に穿たれた門を潜る。ここより先は撮影禁止となっている。庫裏と本堂の南側には向春庵と呼ばれる規模の大きな茶室を始めとして、境内には幻庵、不動軒、東禅軒、碓房菴、一枝庵などの比較的新しい茶室群が点在している。これらは現代数奇屋を代表する山本隆章の仕事である。「数寄屋師の世界-日本建築の技と美・山本隆章棟梁の仕事-」(淡交社 2006年)には、山本隆章棟梁と小林太玄黄梅院住職との30年間にわたる建設の歴史が美しい写真と図面を交えて紹介されている。
 向春庵と路地を見ながら順路に従い進むと、拝観者用の玄関から建物へと入っていく。迷路のような回廊を進むと書院とその南庭の真中庭が現れる。拝観の栞にも配置図が掲載されていないのでGoogle Mapで順路を確認すると、庫裏の前を通り過ぎ、向春庵の南側を回りこんで、書院の南庭の西端を北に上がっていったことが分かる。

 黄梅院は真中庭を含めて3つの庭園がある。
 書院南庭の直中庭は、利休の66歳の時の作庭とされていることから、天正16年(1588)頃の庭となる。天正10年(1582)山崎に待庵の造営を始め、天正13年(1585)禁裏御所において秀吉が正親町天皇に茶を献じ、利休も茶堂として仕えた時期と考えられる。本能寺の変で織田信長が亡くなり、秀吉に出仕した頃とも考えられる。この禁裏茶会により正親町天皇より利休居士号を賜っている。真中庭は秀吉の希望による軍旗にも使われた瓢箪の形をした池を中心とした池泉回遊式枯山水庭園で、大徳寺第2世徹翁和尚が比叡山より持ち帰ったという不動三尊石、加藤清正が朝鮮との文禄・慶長の役の際に持ち帰ったといわれている朝鮮灯籠などが据えられ、池には伏見城遺構という石橋も架けられている。

 本堂の南庭は破頭庭と呼ばれ、天正年間(1573~1593)に作庭されたものと考えられている。手前に白川砂、その奥は南庭約三分の一の面積に苔地を配し、白砂を海に苔地を陸に見立てている。方形の空間に白砂を敷き詰めただけの禅宗の南庭の古い様式を継承しながら、新たな表現を試みているように見える。
 本堂西端の檀那の間の正面には、観音菩薩、勢至菩薩を表したともいう大小二石、東端には沙羅双樹が植えられ、釈迦を表したとも言われている。破頭庭を構成する要素は、白砂と苔そして一木二石だけと簡素なものである。限りなく抽象化された空間の持つ清々しさをここに感じる。
 この庭を注意深く眺めていると、南庭を三方向囲む塀の内、南の部分は本堂と平行に作られていないことが分かる。先の向春庵が作られたときに塀を動かしたのかと考えてみたが、どうも違うようだ。鐘楼から唐門を結ぶ線が建物群と平行でないことから、最初から意図してこのような線を境内から破頭庭に導き込んでいたように思う。白砂は本堂と平行に敷き詰めることで、一定の奥行きを確保している。その上で塀を傾けることにより苔地の長さが本堂の東端よりも西端が長く見えるようにできる。構成要素の少ない簡潔な表現は、あまりにも単純な空間になってしまうが、このような何気ない操作を加えることで空間にリズムが生まれ、シンプルな中に奥の深さが加わる。
 また庭を囲む塀のデザインにも工夫を凝らしている。石積みの上に塀を築いたように見えるようにすることで、見るものは石積みの部分までが庭だと認識する。つまり白砂と苔を敷き詰めた庭の南と西を低い石垣によって区切られていると感じる。そして、その石垣の上に塀を載せることで建築的な要素を薄めることができている。例えば龍安寺の石庭における塀のように、空間を切り取るために圧倒的な存在感を持たすことをせずに、空間は軽やかに仕切っている。
 本堂の北側に作仏庭と呼ばれる枯山水式庭園がある。北東に組まれた滝口の立石を発した流れは、西と南へ下って行く。そして本堂と庫裏の間に作られた中庭に注ぎ込んだ流れに船に見立てた巨石が配され、やがて南の破頭庭の大海へと注ぎ込んでいる。

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大徳寺 黄梅院 庫裏前の庭のみ写真撮影が可能

「大徳寺 黄梅院」 の地図


大きな地図



大徳寺 黄梅院 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  大徳寺 黄梅院 庫裏 35.0417 135.7461
02   大徳寺 黄梅院 本堂 35.0417 135.7458
03  大徳寺 黄梅院 書院 35.0417 135.7456
04   大徳寺 黄梅院 向春庵 35.0414 135.7461
05   大徳寺 黄梅院 真中庭 35.0416 135.7456
06   大徳寺 黄梅院 破頭庭 35.0416 135.7458
07   大徳寺 黄梅院 作仏庭 35.0418 135.7458
08  大徳寺 養徳院 35.0414 135.7468
09  大徳寺 徳禅寺 35.0419 135.7467
10  大徳寺 龍源院 35.042 135.7461
11  大徳寺 瑞峯院 35.0421 135.7453

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