文書と写真・地図による「記憶」の再現

大徳寺 高桐院



大徳寺 高桐院(こうとういん) 2008年05月19日訪問

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大徳寺高桐院 客殿南庭

 大仙院を出て、法堂から孤蓬庵をつなぐ東西道を西に進む。総見院の前を過ぎて、南に入ると右手に高桐院の入口が現れる。ここには表門はなく、築地塀がコ字状に囲み、訪問者を参道に導いている。
 戦国武将で熊本藩細川家初代となる細川忠興は、父細川藤孝の弟にあたる玉甫紹琮を開山として慶長7年(1602)高桐院を創建している。忠興の遺言により遺歯が高桐院に埋葬され、細川家の菩提寺となる。

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大徳寺高桐院 左奥に表門が見える

 細川忠興は永禄6年(1563年)第13代将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。永禄8年(1565)三好三人衆と松永久秀らの軍勢によって足利義輝が二条御所で討死すると、藤孝や明智光秀らは織田信長を頼り義輝の弟・足利義昭を最後の第15代将軍に擁立する。やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従し、忠興は信長の嫡男・信忠に仕える。天正5年(1577)15歳で紀州征伐に加わり初陣を飾り、天正7年(1579)信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子と結婚する。この玉子が有名な細川ガラシャである。
 天正10年(1582)岳父である明智光秀が本能寺の変を起こし、藤孝・忠興父子を味方に誘う。細川父子は、玉子を幽閉し誘いを拒否する。細川氏の協力を得られなかったことは、光秀の滅亡を決定的にしたともいわれている。この変の後、藤孝が隠居したため領国である丹後南半国を譲られて丹後宮津城主となる。

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大徳寺高桐院 参道の始まり

 天下統一を推し進める豊臣秀吉に従い、天正12年(1584)小牧・長久手の戦い、天正15年(1587)九州征伐、天正18年(1590)小田原征伐、文禄元年(1592)の文禄の役では九番隊に属して朝鮮半島に上陸している。慶長3年(1598)秀吉が死去すると、武断派大名の一人として石田三成と対立し、徳川家康と誼を通じる。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に加わったため、伏見屋敷で人質となっていた細川ガラシャを失う。戦後の慶長7年(1602)家康から豊前中津藩に加増移封され、豊前40万石の小倉藩に移り、小倉城を築城する。
 慶長19年(1614)からの大坂の陣では徳川方として参戦する。元和6年(1620)三男の細川忠利に家督を譲って隠居、その後に出家し、三斎宗立と号する。そして寛永9年(1632)忠利が肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に移封される。正保2年(1645)忠興は83歳で没している。

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大徳寺高桐院 参道 竹林も手前には石組みが見える
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大徳寺高桐院 参道 最も有名な構図

 足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と時の有力者に仕えることができたのも、忠興に優れた政治眼があったからだろう。忠興は父・藤孝と同じ教養人で、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。千利休に師事し、利休七哲の一人に数えられている。このように当代一流の文化人の一人として数多くの文化人や公卿たちとの交流が盛んだったことも当時の不安定な政局を生き抜くことの出来る情報を得ていたとも考えられる。

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大徳寺高桐院 参道
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大徳寺高桐院 参道

 玉甫紹琮は天文15年(1546)京都に生まれている。大徳寺117世古渓宗陳の法を嗣ぎ、天正14年(1586)130世住持となる。天正16年(1588)豊臣秀吉の命で総見院2世となり、慶長7年(1602)には高桐院を開く。慶長18年(1613)68歳で死去。俗姓は三淵。諡号は大悲広通禅師。別号に半泥子。

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大徳寺高桐院 客殿南庭
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大徳寺高桐院 欠燈籠の写し

 左側の築地塀の奥にある表門を潜るため左に折れるが、再び高桐院の参道は東から西へ続く。周囲の樹木が濃くなり、参道に落ちる陽が少なくなると共に、両脇の苔地の緑も濃くなる。高桐院の写真で必ず出てくる長い真直ぐに続く参道が目の前に現れる。参道の両側の竹の柵もこの自然の中のひとつとなっている。正面に見える薄暗い門に向かって拝観者は進む。現在この門から入ることが出来ないが、客殿の玄関ではないかと思われる。
 参道は再び右90度折れ、さらに北に進むと中門があり、その先に庫裏がある。

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大徳寺高桐院 客殿南庭
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大徳寺高桐院

 MuimiさんのHP 京都鴨川風光&京都寺社ガイド によると客殿は、明治から大正にかけて細川護立候の再建された建物ということから、それほど古いものではないようだ。これに対して客殿南庭は江戸時代初期の作庭とされている。庭は東から南にかけて塀で間仕切られている。塀際には竹が植えられ、その手前には自然石が積まれることで、庭の矩形性が保たれている。南庭は苔の平庭となっているが、その中に楓が10数本植えられ、中央に細川ガラシャの墓標の写しの灯籠が据えられている。人の手によって造形された庭ではなく、自然を切り開いて造り出した庭のようにも見える。それが拝観の栞にも書かれている「野趣に富んだ庭」となっているのだろう。先の参道の風景と共に秋の紅葉の時期には多くの観光客が訪れることも知られている。

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大徳寺高桐院

 客殿の北側、そして庫裏の西側には意北軒と呼ばれる書院がある。この建物は江戸時代初期に利休邸から移築されたものとされている。この書院には高桐院にある2つの茶室のひとつ二畳台目の茶室松向軒がある。松向軒は寛永5年(1628)細川忠興三斎が建立したものであるが、北野大茶会の際に建てた茶室を移築したとも言われている。名の由来は、北野大茶会の時に三斎が影向松の西に営んだ茶室であり、松声を聞き且つ趙州無舌の茶味を嗜むに因っている。また忠興の法名も松向寺殿三斎宗立である。茶室には珍しい黒壁が用いられ、幽玄さを感じさせる茶室から忠興の好みが見えてくる。
もう一つの茶室は、客殿の北西部にある8帖で裏千家13代円能斎好みの蓬莱である。

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大徳寺高桐院 書院南庭
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大徳寺高桐院 袈娑形の下り蹲踞
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大徳寺高桐院

 意北軒南庭であり茶室蓬莱の前庭には、有名な袈娑形の下り蹲踞がある。これは加藤清正が朝鮮王城羅生門の礎石を持ち帰り細川忠興に贈呈したもので熊本江戸間の参勤交代にも持ち歩かれたという。直径90センチメートル。地上に出ている高さは70センチメートル。周りの熊笹に調和しも美しい。

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大徳寺高桐院 細川家墓所
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大徳寺高桐院 細川忠興とガラシャ夫人の墓石
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大徳寺高桐院 欠燈籠の背部

 客殿の西には細川家の墓所と共に、忠興とガラシャ夫人の墓石の代わりに石燈籠が置かれている。この鎌倉時代の美しい石燈籠は、元は千利休の所蔵であった。秀吉からの要請を断るために、故意に裏面3分の1を欠き疵物としている。利休切腹の際に、忠興に遺贈されている。蕨手、灯口などが欠けているのは、忠興もまた石燈籠の完全性を嫌い、自らの手で行ったとされている。忠興は千利休と美意識を共有していただけではなく、同じことを行うことを繰り返すことで、偉大な美意識の継承者となろうとしたのだろうか?

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大徳寺高桐院 参道

「大徳寺 高桐院」 の地図


大きな地図



大徳寺 高桐院 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 大徳寺 高桐院 35.043 135.7432
01  大徳寺 勅使門 35.0424 135.7461
02  大徳寺 三門 35.0426 135.7461
03  大徳寺 仏殿 35.0431 135.7461
04  大徳寺 法堂 35.0435 135.746
05  大徳寺 本坊方丈 35.044 135.7464
06  大徳寺 龍源院 35.042 135.7461
07  大徳寺 興臨院 35.0424 135.7453
08  大徳寺 瑞峯院 35.0421 135.7453
09  大徳寺 大仙院 35.0445 135.7457

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