一乗寺下り松
一乗寺下り松 (いちじょうじさがりまつ) 2008年05月20日訪問
八大神社の二の鳥居を潜り、詩仙堂を左手に見ながら坂を下っていくと、正面に大樹と共に八大神社の一の鳥居が見える。その横を過ぎると左手に松の木が植えられた石段が現れる。これが宮本武蔵と吉岡一門の決闘で有名な一乗寺下り松である。
今日、我々が知る宮本武蔵像は吉川英治によるところが大きい。その元となったのが、承応3年(1654)宮本武蔵の養子・宮本伊織が父武蔵の菩提を弔うために、豊前国小倉藩手向山山頂に建立した自然石に刻まれた顕彰碑文・小倉碑文である。高さ4.5メートルの石碑の頂部には、武蔵の遺言として「天仰實相圓満兵法逝去不絶」十二文字の大文字、その下に、漢文で千百余文字の顕彰文が刻まれている。この碑文の重要な点は、武蔵による「五輪書」「兵法三十五箇条」「独行道」などに記述されていない吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘に触れているからである。さらに、この碑文が武蔵の伝記「武州傳来記」(享保12年(1727))、「武公傳」(宝暦5年(1755))「二天記」(安永5年(1776))そして「兵法先師伝記」(天明2年(1782))などに大きな影響を与えていると思われる。
この小倉碑文については、播磨武蔵研究会の公式HPに詳細な分析が掲載されている。この碑文には武蔵と吉岡一門の戦いを以下のように記(読み下し文)している。
「後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り、雌雄を決せんと請ふ。彼家の嗣清十郎、洛外蓮臺野に於て龍虎の威を争ふ。勝敗を決すと雖も、木刄の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。豫め一撃の諾有るに依りて、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乘せて去り、薬治温湯、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ。
而後、吉岡傳七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。傳七、五尺餘の木刄を袖して來たる。武藏、其の機に臨んで彼の木刄を奪ひ、之を撃つ。地に伏して立所に死す。
吉岡が門生、寃を含み密語して云く、兵術の妙を以ては、敵對すべき所に非ず、籌を帷幄に運らさんと。而して、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外、下松邊りに彼の門生数百人を會し、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武藏、平日、先を知るの歳有り、非義の働きを察し、竊かに吾が門生に謂ひて云く、汝等、傍人爲り、速やかに退け。縦ひ怨敵群を成し隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐か之有らん、と。衆敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて洛陽に帰る。人皆之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人に敵する者、實に兵家の妙法なり。」
吉岡は扶桑第一の剣術家であり、その嗣子清十郎と武蔵は洛外の蓮台野で雌雄を決している。武蔵は木刀の一撃で清十郎を失神させている。その後、清十郎は蘇生したが剣を捨て出家している。蓮台野とは船岡山から紙屋川に至る一帯で、洛北七野の一つとされている。すなわち東の鳥辺野、西の化野とともに葬地とされている。洛中での決闘を避けて洛外で行われている。
その後、吉岡伝七郎とも洛外で戦う。武蔵は伝七郎の持参した5尺の木刀を奪い、これで伝七郎を撃破している。ここでは伝七郎を清十郎の弟とも、三十三間堂で戦ったともしてない。
この二度にわたる敗北により、吉岡一門は吉岡亦七郎を立て、一乗寺下り松あたりに門弟数百人集め、弓矢を以って殺害しようとした。武蔵は自らの門弟に加勢をさせず、「群を成し隊を成したと言えども、浮雲の如し。何の恐れをなすものでもない」と言い切り、一人で決闘の地に赴いた。猟犬が猛獣を追い立てるが如く、切り抜けている。ここでも亦七郎と清十郎の関係には触れず、最初に亦七郎を殺害し、混乱を起こしたとも書いていない。ただ多勢の吉岡一門に対して敗れることなく帰還したとしている。
このように“吉川武蔵”の基本となる部分はこの碑文に既に記されている反面、書き足されていることも多くあることが分かる。
宮本武蔵、新免武蔵守 藤原玄信は江戸時代初期の剣豪として存在したことは間違いない事実である。しかし歴史上の武蔵と“吉川武蔵”は別なものとして見なければならない。例えば、吉岡清十郎と伝七郎が誰であったかということも明らかではない。吉岡家は吉岡直元を祖とする足利将軍家の剣術師範を務める剣術流派である吉岡流の宗家であり、代々の当主は憲法あるいは拳法、憲房を名のるのを慣わしとしている。そして吉岡家の四代目当主・吉岡直綱が清十郎と目されている。貞永元年(1684)伝記作家・福住道祐が著した「吉岡伝」には、京都所司代の屋敷で宮本武蔵との試合が行われたことが記されている。この勝負では武蔵が大出血したことから吉岡の勝利、あるいは両者引き分けの両判定があったとしている。慶長19年(1614)大坂の陣では豊臣方について籠城したとされている。落城後は家伝の一つである染物業に専念している。黒褐色の染物を憲法染と呼ぶのは、吉岡憲法が発明したからとされている。
やはり吉岡流三代目吉岡直賢の次男として生まれた吉岡直重が清十郎の弟・伝七郎とされている。先の「吉岡伝」あるいは「吉岡家伝」によると、吉岡直綱との試合後、武蔵が直賢との試合を望んだが、武蔵が当日の試合の場所に来なかったため不成立としている。
宮本伊織の記した小倉碑文と福住道祐の吉岡伝との相違点の大きさに驚くばかりである。それと同時に我々が歴史の一部分と理解しているものもフィクションである可能性を秘めていることの恐ろしさを感じる。例えば巌流島で決闘した佐々木小次郎についても、あまりにも不明なことが多い。
一乗寺下り松には宮本・吉岡決闘地の碑が残されている。大正10年(1921 )に堀翁女によって建立された石碑は、昭和10年(1935)から朝日新聞に4年間に渡って連載された「宮本武蔵」以前のものである。碑文も蓮台野で吉岡清十郎に勝ち、洛外で伝七郎を一撃で打ち倒す。そして一乗寺下り松で清十郎の子・又七郎を追い退け洛陽に帰るという点で小倉碑文にほぼ沿った記述となっている。これが当時の認識と考えてよいのだろう。
この宮本・吉岡決闘地の碑の横には、大楠公戦陣蹟の碑が大楠公下松戦蹟顕揚会によって昭和20年(1945)5月25日に戦意高揚として建てられたのであろう。 建武3年(1336)正月、足利尊氏は80万の大軍を率いて京都に進攻し都を制圧する。これに対し近江坂本に逃れた後醍醐天皇軍は、1月27日の早朝から京都奪回の総攻撃を仕掛け、楠正成の3000余兵は、比叡山山麓の坂本を経由してこの一乗寺下り松に陣を張る。ここでも太平記を元にして碑に記されている。
なお面白いことに副碑が同年11月に追加されている。この碑文の終盤には
「楠公精神こそ以て新に樹立すへき産業日本の指針たるへく」
と記している。
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