大覚寺
真言宗大覚寺派大本山 嵯峨山 大覚寺(だいかくじ) 2008年12月21日訪問
化野念仏寺から愛宕街道を下り、嵯峨鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区の始まりの地点にある八体地蔵石仏が並ぶ三叉路まで戻る。渡月橋から着た道とは違う道を大覚寺に向って進む。
嵯峨野の町並みで触れたように、平安遷都を行った桓武天皇の第2皇子であった嵯峨天皇は、この嵯峨野の地に離宮を造営し居住している。都を京都に移した直後から、この地は風光明媚なことより天皇や大宮人たちの遊猟や行楽地となっていたのであろう。特に唐の文化に憧れていた嵯峨天皇は、入唐求法の僧侶の内でも空海と親交を深め、高野山開創の勅許とともに東寺の下賜を行っている。また当時流行していた飢饉に際して、天皇自ら般若心経を写経し、空海も離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったとされている。これが大覚寺の起源であり、嵯峨天皇が大覚寺の開基となっている。
嵯峨上皇崩御の後、皇女の正子内親王すなわち淳和天皇皇后が離宮を寺院に改めている。そして淳和天皇の皇子で承和の変で廃太子となった恒貞親王が開山となっている。
現在、承和の変は藤原北家による他氏排斥事件として捉えられている。藤原良房は妹の子である道康親王を皇太子に立てるとともに、大伴氏と橘氏などの名族に打撃を与えている。そして同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させることに成功し、藤原北家全盛時代に導いている。
またこの変は、嵯峨、淳和による兄弟王朝迭立の解消と嵯峨-仁明-文徳の直系王統の成立も果たしている。乱の後、廃太子となった恒貞親王の母である淳和天皇皇后は、実母であり嵯峨天皇の后であった壇林皇太后を酷く恨んだとされている。皇太后が仁明天皇の地位を安定させるために承和の変にも深く関わったと考えたからである。
承和の変の以前から、恒貞親王は権力闘争に巻き込まれることを恐れ、立太子辞退の申し入れを度々行ってきた。それにもかかわらず嵯峨上皇と仁明天皇によって慰留されてきた。そして承和9年(842)恒貞親王は事件とは無関係とされながらも責任を取る形で皇太子を廃せれている。24歳で出家して法号を恒寂と称し、真如法親王から灌頂を受けている。大覚寺に入ったのは貞観18年(876)のことであった。ちなみに元慶8年(884)陽成天皇の退位の後、恒寂法親王は即位を要請されたがこれを拒絶したと伝えられている。
鎌倉時代に入り承久の乱(承久3年(1221))の後、第88代後嵯峨天皇が第21世門跡になったのを始めとし、第90代亀山天皇、第91代後宇多天皇も続いて大覚寺門跡となり、院政を行った。そのため大覚寺は嵯峨御所とも呼ばれていた。特に後宇多法皇は伽藍整備に力を尽くし中興の祖と称されている。
後嵯峨天皇は、寛元4年(1246)わずか在位4年で、4歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始している。そして、正嘉2年(1258)後深草天皇の同母弟で10歳の恒仁親王(亀山天皇)を皇太子とし、翌正元元年(1259)後深草天皇から恒仁親王に譲位を促している。さらに文永5年(1268)には後深草天皇の第2皇子煕仁親王をさしおいて、亀山天皇の第2皇子世仁親王(後宇多天皇)を皇太子としている。この後嵯峨上皇の行為は、少しでも長く自らの院政を継続するためであったと考えられているが、両統迭立(持明院統と大覚寺統)を生み出したことは事実であった。後の後宇多天皇を皇太子にしたことからも、亀山天皇を自らの後継者としその子孫に皇統を伝える意図を持っていたことは推測できるものの、上皇はその意図を明確にせずに文永9年(1272)に崩御している。後継者を指名する文言は残されておらず、次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示されたことが、さらに問題を複雑化したのではないだろうか。
鎌倉幕府は両統迭立の定着を図るため、正安3年(1301)治天・天皇の交替を要求し、皇太子邦治親王(後二条天皇)が践祚している。後二条天皇は後宇多上皇の第1皇子であり、後宇多上皇による院政が開始することとなった。
大覚寺統の天皇は、亀山天皇(90代)を始め、後宇多天皇(91代)、後二条天皇(94代)、後醍醐天皇(96代、南朝初代)、後村上天皇(97代、南朝2代)、長慶天皇(98代、南朝3代)、後亀山天皇(99代、南朝4代)と南朝に連なっていく。これに対して持明院統には、後深草天皇(89代)から始まり、伏見天皇(92代)、後伏見天皇(93代)、花園天皇(95代)、光厳天皇(北朝1代)、光明天皇(北朝2代)、崇光天皇(北朝3代)、後光厳天皇(北朝4代)、後円融天皇(北朝5代)、そして後小松天皇(北朝6代・100代)と称光天皇(101代)と北朝を形成する。すなわち後嵯峨天皇の両統迭立は、寛元4年(1246)後嵯峨天皇の退位から、建武3年(1336)の足利尊氏による光明天皇の践祚までの混乱だけではなく、その後の後醍醐天皇の吉野転居による南北朝分裂から明徳3年(1392)の両王朝が合一までの150年間にわたる多くの事件のもととなっている。元中9年(1392)南北朝の媾和が大覚寺で行われ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り大覚寺に入寺し、応永31年(1424)大覚寺で崩御し、嵯峨小倉陵に祀られる。 明治44年(1911)南北朝正閏論を収拾するため、明治天皇の勅裁により南朝が正統とされ、北朝1代の光厳天皇から北朝5代後円融天皇の5代は、125代の歴代天皇に含まれないこととなった。しかし称号と祭祀はこれまで通りとされている。ただし後亀山天皇以降、南朝の血を引くものが天皇となっていないため、現在の天皇家は北朝の流れをくんでいるといってもよいだろう。
ちなみに大覚寺統は亀山・後宇多両法皇が大覚寺門跡となり院政を敷いていたことに拠っている。これに対し、持明院統は藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけたことから始まり、基頼の一家を持明院家と称したことに拠っている。基頼の孫、持明院基家の娘陳子は守貞親王の妃になり、承久の乱で三上皇が配流になったため、守貞親王の子である茂仁親王が即位し後堀河天皇となった。ここで初めて持明院統の天皇が生まれている。そして後堀河天皇は譲位後、持明院邸内を仙洞御所として居住している。その後、後嵯峨と後深草両上皇もこれに倣って持明院邸内に住んでいることから、後深草上皇からの系譜を持明院統と呼ぶこととなった。上京区新町通寺之内下る安楽小路町にある光照院の門前には、持明院仙洞御所跡の碑が建つ。このあたりが持明院統の拠点であった。
大覚寺は延元元年(1336)足利尊氏軍により焼失しているが、翌年には24世門跡・性円内親王により再建されている。しかし上記のような南北朝時代とその合一後も混乱は続き、南朝本拠の大覚寺は荒廃した。そして応仁の乱でも、攻め込んだ丹波勢により2度にわたり焼失している。また戦国時代に入っても、享禄元年(1528)波多野氏の流れをくむ柳本賢治により破却されている。その後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と寺領の寄進が続き、江戸時代初期には皇室による外護により再建が行われた。
また明治初期の廃仏毀釈と明治4年(1871)門跡号の差し止めなどにより寺は荒廃し、一時無住となったが、明治9年(1876)宮中の寄進により復興されている。そして明治18年(1885)旧門跡号の復称も許されている。
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