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大覚寺 その2



真言宗大覚寺派大本山 嵯峨山 大覚寺(だいかくじ)その2 2008年12月21日訪問

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大覚寺 村雨の廊下と中庭

 大覚寺の広い境内には多くの堂宇が並び、諸堂の拝観に東側の大沢池の池畔の散策まで含めると2時間くらいは必要である。
 大覚寺の公式HPにある境内図を見ても、この寺院の伽藍配置が複雑であることが分かる。勅使門から北に向い、南庭、入母屋造、桟瓦葺の御影堂、八角堂の心経殿が一直線上に並ぶ。そして御影堂の手前、西に宸殿、東に本堂である五大堂を配する構成となっている。勅使門は幕末の嘉永年間(1848~54)に再建された四脚門、屋根は切妻造で正面と背面に唐破風を附けている。門全体は素木造であるが、唐破風の部分のみ漆を塗り鍍金の装飾を施している。

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大覚寺 南庭 石舞台と勅使門

 最後の大覚寺門跡となる44世慈性法親王は天保8年(1837)に門主となり、弘化3年(1846)東叡山輪王寺の門主として江戸に下っている。天台宗の輪王寺の門主を、真言宗の大覚寺から迎えることは異例のことであっただろう。慈性は大覚寺に必ず還るという言葉を残して、この勅使門から江戸へ旅立ったとされている。慈性が名残惜しそうに何度も振り返ったことから、おなごりの門と別名されている。
 文久2年(1862)慈性は天台座主となっている。そして慶応2年(1867)隠遁するため、輪王寺門跡を公現法親王に継いでいる。慈性はその翌年の慶応3年(1867)12月7日に上野で亡くなっている。王政復古の号令が成されたのが12月9日だから、その2日前にあたる。備後國分寺の公式HPに掲載されている大覚寺の研究二によれば、慈性の輪王寺門跡への就任は、カリスマ性のある慈性が倒幕の旗頭となることを怖れた幕府の策謀であったとしている。ペリーが浦賀に来航する嘉永6年(1853)より以前のことであるから、倒幕の旗頭というのには少し早すぎるであろう。この当時、幕府が崩壊すると言う発想が幕府の中枢にもなかったはずである。しかし後醍醐天皇の南朝の本拠地であった大覚寺の門跡で慈性が尊王の象徴となることは十分に考えられたであろう。いずれにしても10年間で大覚寺に戻る約束を得ていたにもかかわらず、隠居願いが聞き届けられたのは20年あまり後のことであった。そしてこの時期の慈性の死は暗殺に違いないとも噂された。 大覚寺は慈性を江戸に取られたため、明治6年(1873)まで無住の寺院となっていた。

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大覚寺 五大力堂から御影堂を眺める
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大覚寺 五大力堂から大沢池を眺める

 再び伽藍構成に話しを戻す。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会に残されてい伽藍の図会には、勅使門や御影堂の姿がない。先にも書いたように勅使門が嘉永年間に再建されたものとすると、慈性が江戸に発った時には現在の門はなかった。図会には御門と記されているが、破風を持った四脚門のようなものではなかったと思われる。むしろ現在の式台玄関に続く江戸初期に建てられた表門の方が立派に描かれている。現在は既に失われているが、江戸時代の末期までは一条通に面して総門があってことが確認されている。この総門が勅使門と同じような規模であったとされているので、あるいは慈性の何度も振り返った門は、総門だったのかもしれない。
 西から桧皮葺入母屋造の宸殿、中央に瓦葺入母屋造の御影堂、そして東に瓦葺入母屋造の五大堂が並ぶため、南庭は他の寺院になく広大である。御影堂の前方には舞台状の石舞台が築かれている。心経前殿である御影堂と心経殿は大正14年(1925)に建造されている。この建物は大正4年(1915)に行われた大正天皇即位式に饗宴殿として建てられたものである。二条城の項でも触れたように、現在の清流園の位置に大饗宴場が造営されたので、あるいはこの建物なのかもしれない。大正14年(1925)に御影堂と心経殿が整備されたのは、後宇多法皇600年(1324年没)、後亀山天皇500年(1424年没)の御遠忌を記念した事業である。御影堂の内陣正面は心経殿を拝するため開けてある。内陣左右に嵯峨天皇、弘法大師、後宇多法皇、恒寂入道親王など大覚寺の歴史に大きな役割を果たされた人々の尊像を安置してある。 心経殿は法隆寺の夢殿を模して鉄筋コンクリートで建立されている。正面昇り階段と段上まわりには卍崩しの組子を施した高欄が廻されている。内部造作材には、大正天皇即位式用二条離宮の第一車寄せの用材が用いられている。殿内には、嵯峨天皇をはじめ後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格天皇の勅封心経を奉安し、薬師如来立像が安置されている。内部は非公開、開扉は60年に一度とされている。建物は国の登録有形文化財に登録されている。
 後の時代に建てられた八角堂の多くは夢殿を模したと言われる。この建物は軒裏の垂木を省略したため、屋根が紙の様に薄くなっている。そして壁は校倉造風(鉄筋コンクリート造ならば湿度で収縮することもないので校倉造の用を成さない)に作られ、オリジナルのプロポーションより明らかに縦長となっている。飛鳥時代の簡素であり、重量感を感じさせる建築とは対極にある。如何にもこうにも法隆寺の夢殿には見えない。

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大覚寺 御影堂から心経殿を眺める 左奥に朱塗りの霊明殿が見える
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大覚寺

 重要文化財に指定されている宸殿は江戸時代初期に後水尾天皇より下賜された寝殿造の建物である。徳川幕府第2代将軍秀忠の娘である東福門院和子が、女御御所の宸殿として使用していたものとされている。屋根は檜皮葺きの入母屋造、蔀戸を用いた寝殿造風の建物で、周囲に広縁を廻らしている。妻飾り、破風板や天井などに装飾がこらされている。廊下と広縁はすべて鶯張りとなっている 。宸殿前には右近の橘と左近の梅が桜の代わりに植えられている。
 五大堂は江戸時代中期の天明年間(1781~88)の創建。現在は大覚寺の本堂として使用されている。正面5間、側面5間で正面には広縁がある。中央は双折桟唐戸、両脇各2間は蔀戸となっているのは珍しい。大沢池に面する東面には、池に張り出す広い濡縁があり、眺望が良い。先の拾遺都名所図会では宸殿と五大堂の間に御影堂を移設する余地が無い様に見えたが、この五大堂は当初、御影堂の前の石舞台に建てられていた。すなわち御影堂を移築した際に、五大堂も大沢池側に動かしている。そのため大沢池の眺望が良くなっている。本尊の鎌倉時代作の五大明王像は収蔵庫に移され、昭和50年(1975)に松久朋琳・松久宗琳が完成した五大明王像を安置している。現在、この本堂は写経道場としても用いられている。

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大覚寺 村雨の廊下 左手は霊明殿
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大覚寺 霊明殿より正寝殿を眺める

 拝観者は、かつて一条通に面していた総門跡から入り、400メートル近い直線の参道を北に進むこととなる。今回は嵯峨鳥居本から歩いて来たため、この部分は通ることがなかった。美しい松の間を抜け、石橋を渡ると明智門と表門が並ぶ。明智門の先には明智陣屋と呼ばれる建物があり、どちらも明智光秀の所領・丹波亀山城の一部として伝わる江戸時代の建築である。妻入の建物に瓦葺唐破風造りの差掛屋根を設けて玄関としているのは、禅宗の庫裏と少し異なる。内部は天井を張らず、大寸の丸太で梁組され、西屋根に煙出しが設けられている。
 表門は切妻造本瓦葺、江戸時代初期の四脚門である。表門を潜ると正面に、銅板葺きの唐破風を備える式台玄関が現れる。江戸時代の入母屋造瓦葺で、妻飾りは木連格子懸魚附き。宸殿と同じく東福門院の女御御所、長局の一部と推定されている。ここから建物内に入り、宸殿、御影堂、そして五大力堂へと南庭を眺めながら廻る。
 御影堂から五大堂へ渡る途中に、安井堂とも呼ばれる御霊殿がある。この建物は江戸時代中期の安井門跡蓮華光院御影堂を明治4年(1871)に東山の地より移築したものである。格天井の鏡板には密教法具の外、牡丹・杜若等の草花が、折上部には雲龍が描かれている。

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大覚寺
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大覚寺 正寝殿の庭

 大沢池の畔に建つ五大堂を拝観した後、再び御影堂に戻り境内北側を拝観する。御影堂の北には心経殿が建つ。さらに渡り廊下伝いに奥に入っていくと朱塗りが美しい霊明殿が現れる。この建物は、第30代内閣総理大臣の斎藤実が昭和3年(1928)沼袋に建てた日仏寺の本堂で、大覚寺第52世草繫全宜門跡が、昭和33年(1958)に当地に移築したものであるとわれている。Wikipediaの大覚寺にも同様の記述が見られるが、現在沼袋に日仏寺を見つけることができない上、大覚寺の公式HP上でも霊明殿の記述を見かけない。それほど古い時代のことではないので正しい情報だとは思われるが、確認する方法がないのが実情である。斎藤実は昭和11年(1936)に起きた二二六事件で、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監とともに青年将校に殺害されている。霊明殿には本尊の阿弥陀如来とともに草繫門跡がお祀りされている。

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大覚寺
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大覚寺

 このあたりの渡り廊下は村雨の廊下とよばれ、多くの時代劇のロケが行われている。柱が林立する様を雨に、雁行する廊下を稲妻に見た立てて名づけられている。禅宗寺院のように軸線上に配置された堂宇をつなぐ廊下ではなく、移築が繰り返された大覚寺ならではの光景ともいえる。特に緑濃い霊明殿の周辺は美しい。最後に正寝殿を訪れる。重要文化財に指定されている正寝殿は客殿として使われている。桃山時代建立の書院造建築で、内部は大小12の部屋に分かれる。御冠の間とされている上段の間には玉座があり、後宇多院が院政を行った部屋を再現したものである。障壁画は狩野山楽および渡辺始興の筆とされている。

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大覚寺

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