泉涌寺 即成院
泉涌寺 即成院(そくじょういん) 2008年12月22日訪問
禁裏御陵衛士墓所の右隣にある鳳凰を屋根に載せた塔頭・即成院の山門を潜り境内に入る。この塔頭が泉涌寺総門前に建立されたのは、明治35年(1902)と比較的新しい。しかしそこに至る即成院の歴史はかなり複雑なものとなっている。
即成院の公式HPでは、正暦3年(992)恵心僧都によって伏見に建立された光明院が始まりとされている。
恵心僧都は平安時代中期の天台宗の僧・源信である。天慶5年(942)大和国北葛城郡当麻に生まれる。7歳で父を失うが、信仰心の篤い母の影響により天暦4年(950)9歳で、比叡山中興の祖慈慧大師良源に入門する。5年後の天暦9年(955年)得度し、翌天暦10年(956)15歳で称讃浄土経を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれるまで立身出世する。しかし名声を捨てて、横川にある恵心院に隠棲し念仏三昧の求道の道を源信は選ぶ。若くして名利の道に歩み始めたのを諌めたのは母であり、源信はそれを受け入れたとされている。
永観2年(984)師の良源が病におかされたことを知り、これを機に往生要集の撰述に入る。良源は翌永観3年(985年)に示寂する。そして寛和元年(985)往生要集を脱稿する。
往生要集は多くの経典や論書から、極楽往生に関する文章を集めた仏教書で巻上・巻中・巻下の3巻からなる。一心に仏を想い念仏の行をあげる以外には、極楽往生する方法はないと説き、浄土教の基礎を創り上げた。往生要集で説かれた厭離穢土・欣求浄土の思想は、貴族から庶民までに普及し、やがて平安時代末期の末法思想にもつながっていく。
寛弘元年(1004)藤原道長が帰依し、権少僧都となるも、翌寛弘2年(1005)わずか1年で権少僧都の位を辞退するのも母の諫言を守り、あえて名誉を得なかった。そして寛仁元年(1017)76歳で示寂。臨終にあたって阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして合掌しながら入滅したといわれている。
即成院の歴史の上で次に現れるのは、関白藤原頼通の次男・橘俊綱である。父頼通は藤原道長の長男で藤原北家の嫡流である。そして永承7年(1052)道長が遺した宇治殿を平等院鳳凰堂に改修した人でもある。橘俊綱が頼通の次男として生まれたにもかかわらず、尾張守・丹波守・播磨守・讃岐守・近江守・但馬守と地方官を歴任し、位階は正四位上に留まったのは、母・祇子が俊綱を懐妊した後に俊遠の妻となったと考えられている。いずれにしても、俊綱は官人としてよりは、歌会を頻繁に開催するなど歌人として活躍することが多く、笙や琵琶など音楽にも優れていたと言われている。 また日本最古の庭園書である作庭記の著者の候補とされるように、造園に造詣が深かった。中御門右大臣藤原宗忠が書き記した日記・中右記には、俊綱自ら造園を行った伏見山荘は「風流勝他、水石幽奇也」と賞賛している。この山荘は延久年間(1069~1073)指月の丘に造られたと考えられている。この地は古くから月の名所とされ巨椋池と絶景の展望地であった。巨椋池が干拓によって失われ、河川の流路も変わってしまった現在、平安時代の地形を思い浮かべることは難しいが、おおよそ観月橋の北東に位置していたのではなかろうか?伏見九郷に残る即成院村とは現在のJR奈良線桃山駅南あたりの桃山泰長老を指したようだ。
久米村 鷹匠町 金札宮界隈
舟戸村 柿木浜町界隈
森村 桃陵町 豊後橋界隈
石井村 御香宮界隈
山村 伏見城 桃山東部 六地蔵南西部界隈
即成院村 桃山町泰長老界隈
法安寺村 大亀谷五郎太町界隈
北内村 深草大亀谷付近
北尾村 深草大亀谷敦賀町界隈
即成院の縁起によると、寛治元年(1087)俊綱は伏見山荘に阿弥陀堂を建立すると共に、光明院を持仏堂として移築している。そして別邸を寺院と改めてからは、伏見寺または即成就院と呼ばれるようになる。すなわち宇治川を挟んで向かい側に建つ父頼通の平等院に相呼応するように寺院を建立したとも考えられる。
また重要文化財に指定されている阿弥陀如来像及び二十五菩薩像は俊綱の没年である寛治8年(1094)頃の制作と推定されることから、この時期に建立された阿弥陀堂に祀られていたものだったのかもしれない。
即成就院は文禄3年(1594)豊臣秀吉の伏見築城のため、深草大亀谷に移転させられている。
豊臣秀吉の隠居屋敷造営を除くと、秀吉による指月山伏見城、木幡山伏見城の2回、関が原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いでの焼失後、家康による再建の計3回築城されている。(勿論、昭和39年(1964)開園の伏見桃山城キャッスルランドの模擬天守も除いている)即成院が移転させられた時期は文禄の指月山伏見城の築城に合致する。上記のように即成院村あたりに即成就院があったとすれば、伏見城の建設敷地内に入っていた可能性もある。この指月山伏見城は文禄3年(1594)中にほぼ完成していたようだが、慶長元年(1596)に発生した慶長伏見地震によって倒壊してしまう。
移転した即成就院は、JR奈良線藤森駅の東側、天理教山国大教会の場所にあったとされている。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にも即成就院として下記のように掲載されている
藤森の東を北に至る三町許にあり、大亀谷北寺町といふ。律宗にして泉涌寺の内法安寺の兼帯所なり。いにしへは伏見寺と号して、今の江戸町の旧名即成院村にあり。寛治年中正四位修理大夫俊綱の建立なり、則俊綱朝臣の石塔あり。白川院の皇女宜陽門院先帝の御菩提のため、下野国那須庄を当寺に寄付し給ふ、文録二年伏見城を築給ふ時此地にうつす。
この説明には俊綱による建立と俊綱の石塔が存在すること、そして伏見城築城のため文禄2年(1593)即成院村から大亀谷北寺町に移転してきたことが記されている。しかし恵心僧都による創建や那須与一の逸話が抜けている。
これに対して安永9年(1780)に刊行された都名所図会ではもう少し詳しく記述している。 比叡山で説法していた恵心僧都は、一人の老翁に極楽往生の経を頼まれる。老翁が住む南伏見の里の仏間で経をあげる。奇異に感じた僧都は老翁の正体を問うと、維摩居士の化身であり、僧都の法徳を感じて現れたと明かす。
僧都は座を下りて、老翁に本当の如来を拝したいと望む。老翁が西の空に紫雲を棚引かせ、音楽と共に阿弥陀如来と二十五菩薩呼び出す。そして自らも阿弥陀如来と共に西の天に去っていく。これに感動した僧都は来迎の姿を残すため、自らの手で仏像を建立し本尊とした。これが即成院に遺る阿弥陀如来二十五菩薩の謂れとされている。
また平家追捕の際、那須与一が立ち寄り、この度の戦いで誉れを得たならば、寄進を行うことを誓い、仏前の幡を笠印とし西国に出陣していった。屋島の戦いで扇の的を射抜き弓の名手として名誉を得た与一は、堂宇を修造し願望成就を世に知らしめるため即成就院と名付けたとしている。そして那須与一の石塔が残されている。
この2つの図会に記された逸話が、ほぼ現在の即成院の公式HPに書かれている全てである。
明治初年の廃仏毀釈の影響により、即成就院は明治5年(1872)に廃寺となり、阿弥陀如来二十五菩薩は泉涌寺に引き取られる。明治20年(1887)泉涌寺大門付近に仏像を祀るため仮堂が建設さる。
そして明治32年(1899)に泉涌寺の塔頭である法安寺と合併する。少し調べてみたが法安寺の存在はよく分からない。元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会の泉涌寺の図会の7枚目に、以下のように記されている。
保安寺 悲田院の南寿命院に隣る 古へは伏見にあり保安寺村といふ
この保安寺村が法安寺村であり大亀谷五郎太町あたりならば、即成就院に近接していたこととなる。あるいは南北朝時代の北朝の光明上皇に関連しているかもしれないが、これ以上は探せませんでした。
明治35年(1902)大門前から前述のような総門脇の現在地に移される。明治44年(1911)には阿弥陀如来及び二十五菩薩像が法安寺の所有として重要文化財に指定された。そして即成院の寺号が復活するのは昭和16年(1941)のことである。
山門を潜り境内に入ると正面に地蔵堂、その右隣に庫裏、そして右手に阿弥陀如来二十五菩薩を安置する本堂がある。那須与一あるいは橘俊綱の墓といわれている巨大な石塔は本堂の南東奥の小さな堂宇内にあり、本堂との間を渡り廊下でつないでいるようだ。
本堂内陣の中央には阿弥陀如来が安置され、その左右には亡者を乗せるための蓮台を捧げ持つ観音菩薩像と合掌する勢至菩薩像が配置されている。その他の23体の菩薩像の多くは楽器を演奏する姿で表現されている。阿弥陀如来と25体の菩薩は、亡者を西方極楽浄土へ導くさまを表現したものである。絵画作品としては多数造られているが、等身大の立体像で表現したものは珍しい。26体の仏像のうち、阿弥陀如来像を含む11体が平安時代の作。残りの15体は江戸時代の補作であるが、平安彫刻の様式を忠実に模して造られている。
また毎年10月3日第3日曜日には二十五菩薩お練供養が御詠歌講の来迎和讃にあわせて行なわれる。境内に特設された橋の上を菩薩の面に金襴の菩薩の装束を着けた25人の信徒が練り歩く姿は、極楽浄土から現世に来て、衆生を極楽浄土の天空へ導く菩薩達の姿を再現している。
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