文書と写真・地図による「記憶」の再現

朝彦親王墓 その3

朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その3 2008年12月22日訪問

画像
朝彦親王墓

 安政6年(1859)12月7日に、退隠 永蟄居が加えられた朝彦親王は、12月11日に青蓮院を出て相国寺の塔頭桂芳軒に移り、獅子王院宮と名を変えて謹慎する。安政の大獄の処刑は安政6年(1859)10月27日の吉田松陰を以って終わる。そして翌万延元年(1860)3月3日の桜田門外の変で、井伊直弼は水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士によって暗殺される。しかし朝彦親王の永蟄居が許されるのは、さらに先の文久2年(1862)4月30日まで待たねばならなかった。明らかに弾圧の首謀者がいなくなったにもかかわらず許されなかった2年間は、一乗院以上に失意の日々を送ったと思われる。そして赦免された翌日、相国寺桂芳軒を出て、再び青蓮院に戻る。親王が参内を果たしたのは6月6日のこととされている。
 文久2年12月9日には新設された国事御用掛に任命される。国事御用掛は、「言路洞開の聖旨を廷臣に宣布し、所見あるものは御用掛を経て上申せしめ、予て軽挙妄動を戒慎せしむ。」と、国事を議するために設けられた役職である。安政の大獄で処分された堂上の中で高齢の鷹司政通と慎の中で病死した三条実萬を除き、多くのものが復権している。そしてこの中には実萬の子の三条実美や姉小路公知、そして後に七卿落ちする三条西季知、東久世通禧などの反幕攘夷派も含まれている。

 文久3年(1863)1月28日に朝彦親王に還俗の内勅が下る。この還俗には、朝廷内に協力者を求めていた将軍後見職の徳川慶喜による働きかけがあったと考えられている。天皇と同じく親王の公武合体的な考え方は、長州や過激派公家に対抗する上で重要な役割を果たすと慶喜は期待した。2月17日に還俗し中川宮の名が与えられている。
 3月4日に上洛した将軍徳川家茂は、7日に参内、11日に攘夷祈願のために下鴨神社に参拝している。そして4月11日の石清水八幡宮参拝には病気を理由に回避したが、遂に5月10日を攘夷の期限と約束させられる。佐幕的な天皇であっても攘夷だけは譲らなかったため、幕府を追い込んでしまうこととなった。そして下関での米国商船への砲撃により、対外的にも幕府は窮地に陥ると同時に、内政的にも制御できないことが明らかになる。朝廷内でも三条実美らの過激派公家による天皇大和行幸が計画され、8月13日に詔が発せられた。
 幕府にとって絶体絶命の状況下で八月十八日の政変が発生する。薩摩藩士・高崎正風が会津藩士・秋月悌次郎を伴い、中川宮を訪れて計画を告げたとされている。この時期、朔平門外の変(猿ヶ辻の変 姉小路公知暗殺)の犯人と目され、乾御門警備の任から外された薩摩藩が会津藩と手を結んで、政局を打開したと見ることもできる。町田明広氏の「島津久光 幕末政治の焦点」(講談社選書メチエ 2009年刊)では、島津久光の幕末政治に果たした役割を再評価するとともに、八月十八日の政変の直前に高崎正風の行動を記している。とかく島津斉彬や西郷隆盛、大久保利通に目が移り気味な薩摩藩の中にあって、実質的な藩主として久光の功績が定まっていないことは明らかである。その上、明治維新以降は西郷や大久保と反目した頑迷な保守主義者という描かれ方が多い。先の著書は未読であるため、八月十八日の政変の裏面については、また改めて書くこととする。

 政変後の8月27日、親王は元服する。そして弾正台の長官である弾正尹に任じられ、朝彦の名を賜る。正確にはここからが朝彦親王であり、この時期尹宮とも俗称されている。その後に中川宮から賀陽宮に改称する。この年の10月末に祗園社、北野天満宮そして下立売御門に朝彦親王による皇位簒奪の企みを書いた問責書が貼られている。この中で「弾正尹、元来利欲に迷ひ、会津に与し奸邪を働而巳ならず、八幡に於て律僧忍海と申者を頼み、厚く贈物等致し、主上を呪詛し奉る」と石清水八幡宮での呪詛を挙げている。さらに「忍海、薩人に欺かれ、密事一々相語り、其上、証拠迄被取、其身は殺され」とかなり具体的な記述となっている。確かに忍海は実在の人物であり、殺害されている。菊池明氏の「幕末天誅斬奸録」(新人物往来社 2005年刊)にも文久3年(1863)9月25日に報恩寺僧侶・忍海が土佐の北添佶摩と能勢達太郎、因州の勝部静男によって殺害されたことが記されている。これは殺害の経緯が佶摩の9月27日の手紙によって残されているためである。菊池氏はこの殺害事件から先の問責書が掲げられるまでに1ヶ月の日が経っていることから具体的な証拠はなかったのではないかと推測している。
 いずれにしても朝彦親王は尊皇攘夷派の恨みも買っている上、そのような野望を持っているようにも見えたのであろう。また同様の噂はあったようだ。そのような疑義を感じさせるだけの権勢を、この時期の親王は得ていたことは間違いない。

 元治元年(1864)6月5日の池田屋事件では朝彦親王の暗殺も企てられ、その後の7月19日には禁門の変が起こる。第一次長州征討は三家老の切腹と三条実美ら五卿の他藩への移転によって終結するが、薩摩藩の政策は、幕府との宥和から長州藩との連携に重心を移し始めると、朝彦親王と薩摩藩との距離が広がっていく。また親王自身も一会桑政権への急接近していったことにより、薩摩藩自体が親王から離れていかざるをえなくなっていった。
 慶応2年(1866)に結ばれた薩長同盟により、第二次長州征討に対して薩摩藩は出兵を拒否する。6月7日の周防大島への砲撃で始まるが、大島・芸州・石州・小倉の四口ともに幕府軍は長州軍に圧倒される。7月20日、14代将軍 徳川家茂は大阪城で死去すると、もはや幕府に戦線を立て直す力は残っていなかった。徳川慶喜は大討込と称して、自ら出陣して巻き返すことを宣言するも、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止する。そして8月16日には、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の御沙汰書を発してもらう。長州征討を正当化してきた孝明天皇や朝彦親王にとって、この慶喜の戦意喪失は大打撃となった。8月30日に中御門経之、大原重徳を中心とした公家22名が朝廷に押しかける騒擾事件、延臣二十二卿列参事件が起こる。佐幕政策を推進してきた朝彦親王と関白二条斉敬を弾劾するものであった。しかし孝明天皇は22名に対して謹慎等の処分を下し、朝彦親王の国事御用掛辞退を認めなかった。岩倉具視の復権と共に、一会桑政権と歩調を合わせてきた朝倉親王の退潮は明らかなものになっていった。そして慶応2年(1866)12月5日の徳川慶喜の将軍宣下が行われ、12月25日に孝明天皇が崩御する。朝彦親王の後ろ盾はこれによって完全に失われる。そして慶応3年(1867)12月9日の王政復古を迎える。摂政、関白、征夷大将軍そして国事御用掛は廃止されたことにより、朝彦親王も免職する。

 慶応4年(1868)8月16日、徳大寺実則、大原重徳、坊城俊政、大木喬仁、田中不二麿、中島錫胤、土肥実匡の7名が徳川慶喜との謀議を糺すため朝彦親王を訪ねる。謀議とは幕府再興の企てであり、朝廷への謀反である。元高家の前田播磨と称する中野光太郎が、親王の家臣 浦野兵庫を介して親王に近づき、親王より幕府再興への協力を仄めかす文書を得たという嫌疑であった。
 大平和典氏による「朝彦親王の広島謫遷に関する新史料とその考察」(史料 皇學館大学史料編纂所報 第203号 平成18年6月10日)の中で、その場に立ち会った中島錫胤の談話が史談会速記録として示されている。これによると、親王は全く知らぬことであり、文書に残された手形も一致しなかったため、贋物であったことは明らかであった。そしてこの嫌疑をかけた主が岩倉具視であったことが分かる。たとえ冤罪であっても勅命であれば仕方なしと、朝彦親王は広島へと下向して行った。さらに、仁孝天皇の養子であること、親王の号そして二品弾正尹を止められている。
 朝彦親王が広島流謫となった時期、既に徳川慶喜は上野寛永寺での謹慎から、4月15日に水戸弘道館、そして7月23日は駿府宝台院に入っている。戊辰戦争の戦線も、8月16日には長岡藩家老 河井継之助が亡くなり、北越戦争から会津戦争、そして函館戦争へと最終局面に向かっていく。政情の安定は未だ無いものの、徳川幕府の再興など考えられない状況であった。岩倉具視は戦後政権の形成にとって朝彦親王が京にいることが望ましくないと考え排除したのだろう。函館戦争終結から4ヶ月経った明治2年(1869)9月28日に徳川慶喜や松平容保の罪を赦す詔が下される。朝彦親王に対しても3月6日に天皇の特旨を以って罪一等を減じられている。そして朝彦親王が京に戻ることが許されるのは明治3年(1870)閏10月20日であった。同年12月5日に父の伏見宮邦家親王家に入る。京には戻れたが、謹慎は解かれること無く、政府は親王が面会すること禁じていた。
 親王の謹慎が解かれたのは明治5年(1872)1月6日であった。徳川慶喜が従四位に叙せられ、元京都守護職 松平容保、同じく京都所司代 松平定敬も同日に赦免されている。かつての一会桑に対する戦後処理が終わった日でもある。親王も宮の称号を許され、三品に叙せられた。赦免の礼を申し上げるため、朝彦親王は同年2月29日に参内し、天皇に拝謁している。この年の7月には東京に住むようにとの内命がある。既に多くの華族や皇族が京を出て東京に移り住んでいる。親王は50日間の猶予を願い出て京に戻るが、期限が過ぎると延長し、さらには病を理由に京に残ることを許される。そして新政府の方針に逆らっても京都居住を続けた。心情的にもかつて自分を追い遣った人々がいる東京で暮らしたくなかったこともあるが、再び政治的陰謀に巻き込まれることを恐れた判断であったのかもしれない。また新政府にとっても親王を政府の要職に就けることをせずに済んだことに安堵していたのだろう。一応両者の利害が一致したことで、親王の京都居住が続く。明治8年(1875)4月14日、伏見宮家を出て新たな宮家創設が許される。そして5月8日に仁孝天皇養子に復し、親王宣下があり、久邇宮の称号を賜る。さらに同年7月12日に神宮祭主に任命される。

 先の京都居住のように、朝彦親王は度々、新政府あるいは天皇の命に従うような素振りを見せながら、自分の意思を主張している。これが反抗というように見られたのかもしれない。明治21年(1888)親王の子供達を東京で学ばせるために上京を促す命が下る。ここでも期限延長を申し出た上、病を理由に2人の皇女の上京の猶予を願い出ている。さらに跡取りの邦彦王が病気になると、自ら熱海まで迎えに行き、京に連れ戻している。病が回復したにも関わらず、東京に戻らない邦彦王に対して再三の上京命令が出される。そして4ヵ月後に東京に戻った邦彦王は、「風儀の悪い」学習院から成城学校に転校してしまう。ここでも親王は信念を押し通してしまう。
 明治24年(1891)10月25日、神宮祭主として神嘗祭に奉仕するため伊勢に滞在中に大動脈瘤破裂で急逝する。

画像
朝彦親王墓

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2021年4月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿