仲恭天皇 九條陵 その2
仲恭天皇 九條陵(ちゅうきょうてんのう くじょうのみささぎ)その2 2008/12/22訪問
九條陵へ続く参道は、崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵の前を過ぎてさらに東に緩やかに上っていく。鳥羽伏見戦防長殉難者之墓を右手に見ながら、進むと宮内庁の管理用の建物があり、ここで参道は右手に折れる。皇嘉門院月輪南陵が参道に面して北向きであったのに対して、この九條陵は西向きに築かれている。
後の仲恭天皇となる懐成親王は、建保6年(1218)順徳天皇の第一皇子として生まれている。母は九条良経の娘・九条立子であった。良経は、皇嘉門院の異母弟にあたり九条家の祖となった九条兼実の次男である。長兄の九条良通が早世したため藤氏長者を嗣ぐも、良経もまた元久3年(1206)に若くして急死している。そのため九条家は良経の嫡男・九条道家が継ぐ。母である九条立子が道家と同母妹の関係にあるため、親王にとって九条道家は叔父となる。道家も親王が誕生すると東宮補佐役に任じられ親王の養育に携わり、承久3年(1221)4月20日の即位の後は摂政となっている。
既に承久元年(1219)鎌倉幕府3代将軍源実朝は甥の公暁に暗殺されている。その後の鎌倉幕府の実権は頼朝の正室・北条政子と執権である弟の北条義時に移っている。幕府は新しい鎌倉殿として後鳥羽上皇の皇子である雅成親王を迎えたいと上皇に申し出る。この交渉は不調に終わり、義時は皇族将軍を諦め摂関家から迎えることとなる。承久元年(1219)九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。この将軍継嗣問題は後鳥羽上皇と北条義時の間にしこりを残すこととなった。さらにこの年、内裏守護の源頼茂が、将軍職に就くことを企てたという理由により、後鳥羽上皇の指揮する西面武士に攻め殺される事件が起きている。朝廷と幕府の緊張は高まり、遂には武力的衝突が避けられない状況になっていった。後鳥羽上皇は討幕の意志を固めたが、土御門上皇と摂政近衛家実や多くの公卿達も反対、あるいは消極的であった。しかし順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221)懐成親王に譲位し、自由な立場になっている。またこの譲位に伴い九条道家が摂政となったのも、外戚と言う理由だけでなく討幕反対派の近衛家実を退けた結果でもあった。
承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇は流鏑馬揃えを口実に諸国の兵を集め、親幕派の大納言西園寺公経は幽閉し、翌15日に京都守護伊賀光季の邸を襲撃する。上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに義時追討の院宣を発し、京を守る備えとして近国の関所を固めさせた。京方は院宣の効果を過大視し、鎌倉方が京に攻め上がってくることを想定していなかったのであろう。5月22日鎌倉を発った軍は東海道、東山道、北陸道の三方から京に向かった。6月5日には大井戸渡(現在の岐阜県可児市)で翌6日に墨俣での合戦で鎌倉方が撃破すると、京方は総崩れとなる。6月13日の宇治での戦いで京方が敗れると、支えるものが無くなり鎌倉方は京になだれ込むこととなった。
終戦後に行われた処断により、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。当初より討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されが、後に阿波国へ移されている。後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流されている。
そして、既に前回訪問した東山本町陵墓参考地と仲恭天皇 九條陵で書いたように、この陵の主である仲恭天皇は承久の乱に連座し廃位されている。連座と言っても上記のように僅か2歳で即位し、その81日後(1221年5月13日~1221年7月29日)の出来事であるため、本人の意思によるものではない。また歴代天皇の在位期間としても最短である。承久の乱後の処断として、その即位すら認められていなかった。その後、叔父の九条道家に渡御され、天福2年(1234)17歳で崩御されている。上記のような経緯であったため、諡号・追号がつけられず、九条廃帝、半帝、後廃帝と呼ばれていた。
仲恭天皇の叔父である九条道家は直接討幕計画に加わらなかったため、摂政を罷免されたものの処罰されることなく、政権の中央に残った。そして安貞2年(1228)近衛家実の後を受けて関白に任命され、翌安貞3年(1229)には長女の藻壁門院を後堀河天皇の女御として入内させている。寛喜3年(1231)長男の九条教実に関白職を譲ったものの、朝廷の最大実力者として君臨し従一位にまで栄進する。さらに長女の藻壁門院に秀仁親王が生まれる。親王は貞永元年(1232)後堀河天皇の譲位を受けて四条天皇となると、道家は外祖父として実権を完全に掌握する。そして嘉禎4年(1238)出家し、以後は太閤として権勢を誇る。道家が東福寺の創建を思い立ったのが、嘉禎2年(1236)のこととされているから、最も権勢を極めた時期に当たる。 しかし四条天皇は仁治3年(1242)僅か12歳で夭折する。道家は次の天皇に縁戚に当たる岩倉宮忠成王を推薦するが、北条泰時により拒絶される。忠成王は承久の乱に積極的に加担した順徳天皇の第5皇子となるため、幕府は強硬に反対したのである。そして次の天皇は、土御門天皇の第2皇子の邦仁王が即位し後嵯峨天皇となっている。天皇家と姻戚関係を失ったことにより、道家の権勢に翳りが生じるようになる。また、子の頼経が鎌倉幕府の将軍となっているため、幕府の政策へも介入を行い、北条氏得宗家に反発する一族や御家人達の支持を集めている。このことを危険視した幕府は、寛元4年(1246)頼経の将軍職を廃する宮騒動を期に、執権・北条時頼と得宗家による専制体制を確立する。その後に発生する皇位簒奪や幕府転覆などの謀議に関わった嫌疑がかけられ、この時期には既に政治的立場を完全に失っていた。建長4年(1252)に死去。享年60。
再び仲恭天皇に話を戻す。明治3年(1870)九条廃帝は天皇として認められ、仲恭天皇と追号される。しかし九条殿で崩じたという史実はあるものの、葬られた場所も不明であった。明治22年(1889)に九条通に改めて円墳が作られたものが現在の九條陵である。
2005年の読売新聞の記事(2005/05/08)によると、「歴代天皇や皇族の陵墓と、その可能性のある陵墓参考地について、宮内庁(旧宮内省)が戦前から戦中、戦後の昭和30年代にかけて、一部指定の見直しを本格的に検討していた」とある。昭和24年(1949)の「陵墓参考地一覧」には、すでに確定している天皇陵の他の候補として9つの事例が記載されており、その中には仲恭天皇を被葬者として想定した東山本町陵墓参考地については「現陵よりも確かなり」との記述があった。この記述は昭和32年(1957)頃までに追記されたと見られている。これは明治になって造営された現九條陵よりも東山本町陵墓参考地の確度が高いという意味である。仲恭天皇の葬られた場所を記した確たる記録はないため、東福寺周辺の九条家の寺院等に埋葬されたという推測を否定も肯定も出来ないのが実情であろう。
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