文書と写真・地図による「記憶」の再現

広隆寺

真言宗系単立寺院 蜂岡山 広隆寺(こうりゅうじ) 2009年1月12日訪問

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広隆寺 太子道に面した楼門

 太秦の町並みの項で記したように、木嶋神社の二の鳥居の南側を東西に走る道は太子通と呼ばれている。この道の名称通り、西に進むと目指す広隆寺に至る。木嶋神社を出て200メートル進むと左手後方(東南方向)から三条通が近づいてくる。京都の碁盤の目のような通りからイメージできないかもしれないが、葛野大路通から西側で三条通は、ほぼ45度の角度で上っていき、京福電気鉄道嵐山本線の太秦駅手前で太子通に合流する。すでに嵐山本線は蚕の社駅で三条通から別れ自らの軌道を走っているため、太子道が嵐山本線に出会うのは広隆寺のある太秦の駅となる。 target=_blank”>太秦の町並みの項で記したように、

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広隆寺 楼門から境内を眺める
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広隆寺 右手に講堂

 木嶋神社から太子通を西に進み、三条通と合流した後、さらに200メートル程度歩むと、広隆寺の楼門が現れる。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで有名な広隆寺は、(現在のWikipediaによると真言宗御室派大本山ではなく)真言宗系の単立寺院で、山号を蜂岡山と称する。広隆寺のある地域の地名は太秦蜂岡、太秦映画村の東側が太秦東蜂岡で、西の外れは太秦西蜂岡となっている。蜂岡という地名は、葛野の太秦の岡にたくさんの楓が生えていたため、そこに蜂が多かったためと考えられる。楓は銅鉱床の土壌を好む植物であり、秦氏と銅鉱山開発結び付ける由縁の深い地名であるともされている。「日本書紀」の推古11年(603)11月の条に下記のような記述がある。
     皇太子、諸の大夫に謂りて曰はく、「我、尊き仏像有りてり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて曰さく、「臣、拝みまつらむ」とまうす。便に仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。

 つまり秦河勝が、聖徳太子の申し出に対して、進んで仏像を貰い受け、蜂岡寺を建立したという。これが現在の広隆寺の始まりとされている。しかし河勝が建立した蜂岡寺は、現在の太秦の広隆寺の場所ではないというのが現在の大勢のようだ。
 すなわち7世紀初頭に蜂岡寺は京都市北区平野神社付近に創建され、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力となりつつある。「広隆寺縁起資財帳(承和縁起)」には当初は、九条河原里と荒見社里にあったものが五条荒蒔里に移ったとある。そのため7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野上白梅町の北野廃寺跡が旧地であり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転したとする説がある。

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広隆寺 朱塗りの丸柱を持つ講堂
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広隆寺 講堂

 日本書紀等に蜂岡寺に関わる記述があり、秦氏の氏寺であったことは確かである。そのため秦公寺や太秦寺という別名も残っている。弘仁9年(818)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではないのが実情である。創建時期についても日本書紀によれば推古11年(603)であるが、承和5年(838)成立の「広隆寺縁起資財帳」や寛平2年(890)頃成立の「広隆寺資財交替実録帳」冒頭の縁起には、推古天皇30年(622)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。これらは上記の火災以降に記されたものであることに注意しなければならないだろう。
 このように「日本書紀」と「広隆寺縁起資財帳」とでは創建年に関しても20年近い隔たりがある。これについては、寺院は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈や、603年に建てられた蜂岡寺と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈もある。それ程に、創建当初のことが分かっていないということであろう。

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広隆寺 左に薬師堂 右に地蔵堂
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広隆寺 薬師堂
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広隆寺 地蔵堂

 前記のとおり、弘仁9年(818)の火災で広隆寺は全焼している。そのため蜂岡寺あるいは広隆寺創建当時の建物は残っていない。承和3年(836)に広隆寺別当に就任した道昌は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。道昌は広隆寺が延焼した弘仁9年(818)に東大寺で受戒している。そして天長5年(828)神護寺あるいは東寺で空海に真言密教を学び灌頂を受けている。興福寺維摩会など様々な法会の講師や導師をつとめ、承和年間(834~48年)には大堰川の堤防を改築するなど行基の再来と称されている。貞観6年(864)権律師に任じられ4年後に律師となり、貞観16年(874)には少僧都まで至った。貞観10年(868)嵯峨野の葛井寺は法輪寺に改められ、道昌が少僧都となった貞観16年(874)に、山を開き堂宇を改修し法輪寺の再興を果たしているため、法輪寺の中興開山とされている。
 このように道昌は、大堰川の堤防改修、広隆寺と法輪寺の再興と秦氏に関連する事業を手がけていることから分かるように、延暦17年(798)讃岐国香川郡の秦氏に生まれとされている。

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広隆寺 上宮王院

 その後、広隆寺は久安6年(1150)にも火災で全焼している。この時は比較的短期間で復興し、永万元年(1165)に諸堂の落慶供養が行われている。
 なお、広隆寺には弘仁9年(818)の火災以降の貞観15年(873)成立の「広隆寺縁起資財帳」と寛平2年(890)頃の「広隆寺資財交替実録帳」が伝わっている。これらの資料はともに国宝に指定されている。これにより9世紀における広隆寺の堂宇や仏像、土地財産等の実態を知る手がかりとなる。「実録帳」は「資財帳」の記載事項を十数年後に点検し、異動を記したものとされている。

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広隆寺 竹林
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広隆寺 竹林

 創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となっている。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。「上宮聖徳法王帝説」は蜂岡寺を太子建立七大寺の一として挙げている。林屋辰三郎著「京都」(岩波新書 1962年刊)にも、このあたりの経緯が記されている。秦公寺の名前どおり、氏族結合を強化するための氏寺であった。それが太子信仰に変化して言った裏には、平安京の造都のために大きな犠牲を払った秦氏の衰亡に起因していると考えている。政治的位置を確保できなかった秦氏は衰え、それを利用した藤原氏は興隆していく。氏寺であった秦公寺は、新たな生き方を考えていかなければならなかった。さらに林屋辰三郎は伏見稲荷大社東寺と結んで稲荷祭りを行うことにより、下京松原以南の商業地域の氏子を集め、商売繁盛の神として繁栄していったことにも触れている。まさに寺社の繁栄も永遠ではなく、その寺社の時代毎の運営方針の転換によっていることを示す良き例でもある。 聖徳太子の聖人化は、既に日本書紀にも見えており、8世紀には本朝の釈迦と仰がれ、鎌倉時代までに「聖徳太子伝暦」など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝が成立している。これが聖徳太子信仰の形成に大きな役割を果たしている。聖徳太子像を祀る桂宮院本堂は、建長3年(1251)中観上人澄禅による勧進とされている。恐らくこの時期に、秦公寺は太子信仰の寺院の性格を強めていったのであろう。

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広隆寺

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