文書と写真・地図による「記憶」の再現

葛野大堰

葛野大堰(かどのおおい) 2009年11月29日訪問

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葛野大堰 渡月橋から保津川を眺める
写真中央の堰が葛野大堰の跡とされている

 大阪市中央区本町4丁目にあるホテルを朝の5時にチェックアウトし、大阪市立地下鉄本町駅より御堂筋線に乗車する。2つ先の梅田駅で下車し、地下街伝いに阪急電鉄梅田駅へと急ぐ。大阪より休日の7時前に嵐山に着くためには、梅田駅5:40発の阪急京都本線に乗車しないとならないようだ。2008年冬に、法輪寺をはじめとした嵯峨野巡りを行なった時も、確かこの列車に乗ったはずである。桂駅で嵐山線に乗換え、3つ目の嵐山駅には7時5分前に到着する。この時期だと丁度7時が日の出となる。
 駅より西側に100メートルくらい進むと、府道29号宇多野嵐山山田線に出会う。府道29号というよりは、渡月橋を渡り鳥居本へと続く嵯峨愛宕街道の分かりやすいかもしれない。この街道沿いには先の法輪寺などが建てられているが、今回は駅より桂川の中洲である中之島に続く道を歩きながら、渡月橋を目指す。嵐山公園管理事務所の置かれている嵐山上河原町の河原は、今は冬であるため見ることがかなわなかったが、桜の名所となっているようだ。いつもお世話になっているフィールド・ミュージアム京都の碑データベースによると、かつてこの公園には、三宅安兵衛遺志の道昌大僧正遺業大堰の碑があったようだ。あまり時間がなかったものの周囲を探してみたが、遂に見つからなかった。フィールド・ミュージアム京都の調査が行われた2002年時点でも、折損し現在地に放置された写真が掲載されていたのだから、既に失われたのかもしれない。後世のためにと願って建てられた三宅安兵衛遺志の碑が、100年を待たずに無くなっていったということだろうか。

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葛野大堰 一ノ井堰碑

 管理事務所の斜め向かいにあるマンションの西側には、新しく建てられた一ノ井堰碑が見える。この碑は昭和55年(1980)一之井堰並通水利組合が建てたもので、碑文は当時の京都府知事の林田悠紀夫による。文中には、5世紀頃に秦氏によって葛野大堰が作られ、その場所はこの地附近と推定されていること、また応永26年(1419)に描かれた桂川用水路図には法輪寺橋のやや下流の右岸に一ノ井と云う名称で用水取入口が記入されていること、そしてこの樋門は松尾桂川岡の十ヶ郷の農地灌漑用水路として潤っていたことが記されている。
 既に嵐山の町並みでも記したように、秦氏の基となった氏族は新羅から日本に渡来している。日本書紀には応神天皇14年(283)に弓月君が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したこととなっているが、実際には、もう少し後の時代の5世紀中頃に日本に渡り、そして山城国葛野の太秦あたりに定住したと考えられている。林屋辰三郎著「京都」(岩波新書 1962年刊)にも、この時期に日本に渡来した秦氏が湿潤な地域の土地改良のため桂川に大堰を造り、河川の水量を調整することにより、大規模な開拓と耕地への灌漑が可能にしたと考えている。古代日本 人にとっては、秦氏の水利技術は驚異的なものに見えたのではないだろうか。秦氏によって築かれた葛野大堰は既に失われている。そのため、その位置を特定することは難しい。この一ノ井堰碑に従うと法輪寺橋、すなわち嵯峨街道が桂川を渡る現在の渡月橋の下流あたりの一之井堰の附近にあったということである。現在も渡月橋の上流に、木の杭を並べた堰を見ることができる。また橋の下流にも近代に堰が作られている。すなわち桂川右岸の中之島の上流と下流側に2つの堰が存在している。恐らくこの範囲が一之井堰の碑文のいう「附近」ということであろう。

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葛野大堰 一ノ井堰碑

 さて一之井堰の碑の足元には2本の流れが南東に向かっている。これらは大堰建設の目的であった桂川用水である。松尾大社の楼門と拝殿の間を一ノ井川が流れる。これは一之井堰が引き込んだ2本の流れの内の西側のものである。また一之井堰の碑が建つ地は嵐山西一川町という地名になっている。
 京都府総合資料館の所蔵されている桂川用水差図には、10箇所の堰が描かれ、それぞれの堰の上流には東岸そして西岸に作られた用水路が描かれている。

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葛野大堰 法輪寺道昌遺業大堰阯の碑
亀山公園への道の入口にある

 先の既に失われたと思われる三宅安兵衛遺志の碑も秦氏が築いた大堰を道昌が修復したことを讃えるものであった。また渡月橋の上流にあたる保津川の左岸、小倉山百人一首殿堂時雨殿の手前にも同様の碑、法輪寺道昌遺業大堰阯が建てられている。 道昌は延暦17年(798)讃岐国香川郡の出身の平安時代前期の僧。俗姓は秦氏。14歳で奈良元興寺の明澄に三論教学を学び、弘仁9年(818)東大寺で受戒している。そして天長5年(828)神護寺あるいは東寺で空海に真言密教を学び灌頂を受ける。天長6年(829)葛井寺に参籠して虚空蔵求聞持法を修す。翌天長7年(830)宮中仏名懺悔の導師となる。淳和天皇より「君主の殺生と臣下の殺生を比べると、どちらの罪が重いのか」という問いに対し、道昌は、「君主は己の贅沢のために殺生を行うためにその罪は重い。臣下の中には生活のためにやむを得ず殺生を行う者もいる。君主はそれすら禁止している。」と答えたとされている。天皇はこれを聞いて倹約を行うとともに贅沢のための殺生を戒める一方で、山沢の禁を緩めて貧しい者が狩漁によって食を得ることを許したとされている。道昌は貞観6年(874)まで欠かさず導師を勤めた

 道昌が葛野大堰を修復したのは承和年間(834~48)あるいは貞観年間(859~77)のことと考えられている。また承和3年(836)には広隆寺別当や隆城寺別当を歴任している。広隆寺は秦河勝が、推古天皇11年(603)または推古天皇30年(622)に建立した秦氏の氏寺である。秦氏の出身である道昌が広隆寺別当を務めたのは自然の流れであったのだろう。貞観6年(864)権律師に任じられ、4年後には律師となり、貞観16年(874)には少僧都まで上りつめている。この年に葛井寺を法輪寺に改め、中興開山となる。翌貞観17年(875)に没す。

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葛野大堰 法輪寺道昌遺業大堰阯の碑

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