小督塚 その2
小督塚(こごうつか)その2 2009年11月29日訪問
拝観を受け付けていない臨川寺の山門前まで来たところで、再び三条通を西に戻る。渡月橋を過ぎた先の道を北に入ると、すぐに左手に小督塚が現れる。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会では小督塚を下記のように記し、そして小督について平家物語をもとに説明している。
小督桜は大井河の北三軒茶屋の東、薮の中にあり
また、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には、小督局塚の図絵を掲載している。この図絵には都名所図会と同じく、以下のような説明が付けられている。
小督局は桜町中納言成範卿の女にして、宮中第一の美人也。平相国清盛に襲れ嵯峨野に隠れ、愁にしづみ琴の音色も洩に曇りながら、想夫恋の曲を弾じ給ふ。官人仲国は帝の仰を承て、月の清きに局の楼を横笛を籟て尋出しけるは、師曠が琴を皷して神明に通じ、白鵠の翔るにも比せんや。
高倉天皇の中宮徳子に仕える女房の中に、葵前という女童がいた。天皇は葵前に惹かれ、何かと大切に扱ったことがあった。しかしあまりに大事にしたため、周りから葵女御と囁かれるようになってしまう。天皇は世間体を憚り、葵前を召さなくなった。それを哀れに思った関白松殿すなわち藤原基房は、葵前を養子にとるから召されるようにと天皇に勧める。しかし後代の誹りになることを嫌い天皇は松殿の申し出を断ってしまう。
しのぶれどいろに出にけりわがこひは
ものやおもふと人のとふまで
という帝の和歌が葵前の手に渡ると、葵前は病気になる。そして数日後に亡くなってしまった。主君の一時の寵愛のために女性が生涯を誤った例ともいえよう。
葵前を失った天皇の悲しみの深いのを見かねて、中宮は小督という女房を召された。宮中一の美人で琴が上手であった。小督は大納言藤原隆房が少将であった時、見初めた女房であった。隆房は小督の会いたさに参内してあちこち捜しまわったが、小督は天皇に召されたのだから、と隆房に会うことはなかった。隆房はこう詠んだ。
たまづさを今は手にだにとらじと
やさこそ心におもいすつとも
平清盛にとって高倉天皇も藤原隆房も娘婿にあたる。この両人の心を奪った小督を激しく憎み、亡き者にしようとする。これを聞いた小督は恐れを抱き内裏から消えてしまった。
天皇の嘆きは尋常ではなかったが、怒った清盛は世話をする女房や参内する臣下を近づけないようにしてしまった。8月10日の夜、人伝に小督の居場所を聞きつけた天皇は、北面の武士源仲國を召し、小督を捜しに嵯峨へ行かせた。いろいろ捜した末に、亀山のあたりで琴の音を聞きつける。その琴の音を頼りに一軒の草庵に辿り着く。仲國は家へ入り天皇からのお言葉を伝え、車に乗せて宮中に連れて帰り、人目につかないところに隠した。
しかし、このことは清盛にも伝わり、遂に小督を捕らえ尼にしてしまった。小督は心ならずも尼にされて、嵯峨のあたりに住んだ。その後、病気にかかって亡くなってしまったということである。
以上が平家物語の巻第6の葵前と小督の大筋である。
平家物語に出てくる小督は歴史上に実在する女性であり、中納言正二位藤原成範の娘として保元2年(1157)に生まれている。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿で、中山家の始祖となった中山忠親の日記・山槐記によると治承4年(1180)の時に小督は23歳であったとされている。このことから小督の生年は保元2年(1157)と考えられている。
父の成範は信西の子であり、保元の乱を経て信西が権勢を握るとともに昇進し、遠江国、播磨国の国司などを経て左中将となる。さらに平清盛の娘と婚約し、その前途は磐石であるかに見えた。しかし平治元年(1159)の平治の乱において信西が殺害されると状況は暗転する。戦後処理において信西の罪状が問われると、連座する形で子息達は悉く流罪となる。これにより藤原成範も下野国に流されている。しかし翌年の永暦元年(1160)には赦免され、承安4年(1174)には参議、寿永2年(1183)には中納言と昇進している。この間、後白河法皇の側近として仕え、治承三年の政変で法皇が鳥羽殿に幽閉された際にも、兄弟の脩範・静賢らとともにその傍に出入りすることを許されている。
小督が生まれたのは、父の藤原成範が下野国に流罪となった平治の乱の直前であった。そして治承元年(1177)高倉天皇との間に第2皇女範子内親王が生まれる。成範が中納言となるのが寿永2年(1183)であるから、平治の乱から復権する過程の皇女誕生であったとも言える。この範子内親王誕生により、小督は平清盛らより迫害を受け清閑寺で出家している。石田孝喜著「京都史跡辞典」(新人物往来社 1994年刊)によると皇女誕生直後に、宮仕えを止め、治承3年(1179)に尼となったとしている。このあたりが小督哀話の歴史的な真相であろう。皇女は猫間中納言藤原光隆の七条坊門の邸で養育される。
高倉天皇と中宮徳子の間に、第一皇子の言仁親王が生まれるのは治承2年(1178)である。その前年の治承元年(1177)に鹿ケ谷の陰謀が明らかになり、後白河法皇と平清盛の関係は危機的状況になっていた。それでも清盛は首謀者の藤原成親・西光の処刑と参加者の配流にとどめ、後白河自身の責任は問うことはなかった。前述のように中宮徳子が皇子を誕生すると、清盛は法皇に皇太子にするよう迫り、親王宣旨が下された直後に立太子させている。
そして治承3年(1179)11月、清盛は軍勢を率いて京都を制圧し、後白河院政を停止する治承三年の政変を起こす。関白藤原基房を辞職させ、藤原師長以下法皇の近臣39名を辞官させている。さらに法皇を法住寺殿から鳥羽殿に連行し幽閉し、院政を停止させる。
翌治承4年(1180)高倉天皇は皇位を言仁親王に譲り、後白河法皇に替わって院政を敷く。しかし後白河院と平清盛の確執に長い間悩まされてきた高倉院は、治承5年(1181)1月14日に崩御する。清盛もまた同年閏2月4日に熱病により没している。
この2人が時を同じくして歴史の舞台から去っていったため、再び後白河法皇による院政が復活する。そして平氏の棟梁の座は、嫡男である重盛はすでに病死、次男の基盛も早世していたため、三男の宗盛が継ぐこととなる。しかし宗盛は全国各地で相次ぐ反乱に対処できないばかりか、後白河法皇にも翻弄され院政勢力の盛り返しを許すこととなる。隆盛を極めた平氏も僅かな時間のうちに追いつめられていった。寿永2年(1183)養和の大飢饉など自然災害が重なった中で戦われた倶利伽羅峠の戦いで平氏軍はついに壊滅する。さらに義仲軍の攻勢に抵抗することもできず都落ちした平氏は、元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いに敗れてついに滅亡する。安徳天皇誕生から7年、高倉天皇と平清盛の死去から4年後の出来事である。なんと歴史の暗転が早かったことか。
出家後の小督の消息については、明月記の元久2年(1205)閏7月21日の条に残されている。明月記の作者である藤原定家が、嵯峨で高倉院督殿(督殿は中﨟女房名で小は接頭語)の病床を見舞ったことが残されている。この時、小督は49歳であったと推定される。高倉天皇は小督を失い悲嘆に暮れ、死期を早めたとも言われているが、定家の記述が正しければ小督は帝の死後、かくも長く生きてきたこととなる。
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