長岡天満宮 その2
長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)その2 2009年12月9日訪問
菅原道真の配流に同行した中小路宗則は、道真の没後に再び開田に戻り聖廟を建てている。これが現在の長岡天満宮につながっていったと考えられている。宗則の末裔は、長岡天満宮の神官を務める一方、土豪として勢力を拡大し応仁の乱において細川氏の被官として中小路遠江守が登場するに至る。中小路氏が城主を務めた開田城については、「大乗院寺社雑事記」文明2年(1470)4月27日条に以下のような記述がある。
この山名是豊による攻撃が開田城の初見とされている。このことより、これ以前より開田城は存在しており、興福寺大乗院の門跡が記した日記に記述されるほど、奈良においても名の知れた京の城であったようだ。以後、中小路氏は現代に至るまで長岡天満宮の神官を世襲している。これらのことより、草創年期は不詳ではあるが、既に室町時代には社殿が存在し、中小路家が社家として奉祀していたことが確かである。
八条ヶ池北端と阪急電鉄京都本線長岡天神駅とを結ぶアゼリア通りの南に建つエスリード長岡天神には開田城の土塁が保存されている。Sano567さんのHP デジカメ写真缶 に掲載されている「城跡探訪!開田城」によると、マンションのエントランスには開田城復元模型が設置され、住民以外の人にも公開されているらしい。現在の私たちが城という言葉から想像されるような建築物ではなく、土塁で囲んだ藁葺き屋根の居館であった。昭和53年(1978)、平成8年(1996)そして平成15(2003)の3度発掘調査が行われ、この城が一辺約70mの方形の居館で、周囲に幅約6.5m高さ2mの土塁と、幅約8m深さ約1mの堀をめぐらす構造であることが明らかになっている。城内からは、東西南北が3間以上の大規模な掘立柱建物や石組みの井戸・焼けた土や炭がつまった竈とみられる遺構などが発見されている。しかし、開発計画の途上での発掘のため、計画通りマンションが竣工し遺跡の全ては残されなかった。それでも調査結果を踏まえて開田城土塁公園を設け、一般の人々にも公開していることは珍しい事例ではないだろうか?
八条ヶ池の項でも記したように長岡天満宮を含む開田村は、元和9年(1623)徳川秀忠によって八条宮智仁親王に与えられている。これには元和6年(1620)6月18日の徳川和子入内に関係するとも謂われている。享保14年(1729)の山城国高八郡村名帳によると、開田村の村高は467石であり、櫛笥家領20石以外は全て八条宮領であったことが明らかになっている。
櫛笥家は四条家の支流で、四条隆昌の猶子であった四条隆憲が初代当主となっている。隆憲の没年が天正19年(1591)ということから、戦国時代に入ってから新たにできた四条流7家の一つで183石。四条流7家は、四条家・山科家・西大路家・鷲尾家・油小路家・櫛笥家そして八条家であり、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置する羽林家である。近衛中・少将を経て大・中納言、参議を昇りうる家でもある。なお八条家は第6代当主櫛笥隆賀の二男で元禄15年(1702)に生まれた隆英が初代当主となっている。八条宮智仁親王を祖とする八条宮は4つの世襲親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮)の一つであり、八条家とは直接的な関係はない。
八条宮智忠親王は、寛永12年(1635)歌仙を長岡天満宮に奉納している。そして同15年(1638)境内東に池を開き、同16年(1639)には境内の周囲に堀を掘っている。現在、八条ヶ池と呼ぶのはこの縁によっている。中堤に架かる石橋は加賀の前田氏の寄進とされている。智忠親王は寛永19年(1642)前田利常の女富子を妃としているので、その関係で寄進であったのであろう。延宝4年(1676)に本社が造営されている。
智忠親王は富子との間に後嗣を儲けることはできなかったため、承応3年(1654)後水尾天皇の第13皇子穏仁親王を養子としている。明暦3年(1657)二品に叙せられるが、寬文2年(1662)7月7日に43歳で薨去している。法名は天香院。さらに宮家を継承した穏仁親王も寛文5年(1665)10月3日に薨去する。享年23、法名は金剛壽院。
この後、八条宮は後西天皇の第1皇子長仁親王を継嗣として迎え、寛文6年(1666)宮家を相続している。寛文9年(1669)親王宣下を受け、長仁と命名され、同年11月元服する。中務卿に任ぜられるが、延宝3年(1675)6月25日、20歳で薨去される。法名は霊照院。
長仁親王の遺言により後西天皇第8皇子の尚仁親王を八条宮家の継嗣としている。貞享元年(1684年)11月親王宣下を受け、尚仁と命名される。貞享3年(1686)3月元服し、弾正尹に任ぜられるが、元禄2年(1689)8月6日、18歳で薨去。法名は無量光院。
元禄2年(1689)10月、八条宮は常磐井宮に改称され霊元天皇の第10皇子正宮を迎える。元禄4年(1691)正宮から作宮に改称する。翌元禄5年(1692)4月23日わずか2歳で薨去。法名は浄功徳院。
このように八条宮は3代穏仁親王から6代作宮までの4代の当主はいずれも夭折している。八条宮家にとって、この30年間は相次いで不運が続く不幸な時代であった。上記の長岡天満宮の本社が竣工された時には、既に4代長仁親王は薨去され、5代尚仁親王に移っていたこととなる。
霊元天皇の第6皇子で貞享5年(1680)有栖川宮幸仁親王の養子となっていた文仁親王を元禄8年(1695)養子縁組の解消を行い、翌元禄9年(1696)7月常磐井宮家を相続させている。そして新たな宮号を賜い京極宮となっている。このため八条宮智仁親王よりの家領は後に京極宮に継がれていく。
元禄3年(1690)3月吉田三位、神人30人、神子2人が参仕して外遷宮、清水谷大納言、竹内中納言らの参向があった。そして同年5月26日、参向人々同前にて正遷宮が執り行われ、中小路宗信が素袍(直垂)を頂戴している。同年6月に霊元上皇宸筆の勅額が下賜され、院使庭田大納言と勅使高辻少納言らの参向があり、同年9月中小路宗信は山城の称号を賜っている。これらは5代長仁親王が薨去され、霊元天皇の第10皇子正宮を迎え常磐井宮に改称された時期に当たっている。
元禄5年(1692)3月境内に八幡社等が創建されている。石鳥居が建立されたのも元禄5年(1692)であった。元禄9年(1696)社領50石が寄付されている。これは京極宮領からの寄付と考えられている。
このように長岡天満宮の由緒書上では、八条宮智仁親王が家領を得た元和から元禄までの記録が詳しく残されている。これ以降も桂宮家によって奉祭されてきたが、明治維新の上知令によって10余坪あったとされている境内は2万余坪に削減されている。現在の本殿は昭和16年(1941)に平安神宮の社殿を拝領移築したものであるため、伊東忠太の設計による三間社流れ造り、素木の本殿である。かつての本殿は大原野の大歳神社へ移築されている。これらは戦前の紀元二千六百年記念行事の一環として行われた。拝殿は平成14年(2002)の菅公御神忌1100年大萬燈祭を奉賛して、既存の拝殿を増改築したもの。中堤の東側に建つ総御影石製の大鳥居も大萬燈祭を奉賛して、平成10年(1998)に奉納されている。総高9.75m、笠木12m、総重量50トン。境内には春日社、八幡社、稲荷神社、山神社、龍神社、和泉殿社、白太夫社の7社の末社(長岡天満宮の公式HPでは6社としている)と笠松地蔵が祀られている。兼務神社としては、神足神社、長法稲荷神社、走田神社、角宮神社、春日神社の5社がある。この内、神足神社、走田神社、角宮神社は式内社で乙訓十九座とされている。
本殿への参道の途中にある弁天池の周辺は、錦景園として平成19年(2007)に整備されている。高低差のある敷地を活かし、絵馬殿から眼下に庭を望むことと絵馬殿を見上げる眺望を楽しめる構成となっている。
「長岡天満宮 その2」 の地図
長岡天満宮 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 長岡天満宮 正面大鳥居 | 34.9237 | 135.6887 |
02 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池中堤 | 34.9237 | 135.6883 |
03 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池太鼓橋 | 34.9237 | 135.6881 |
04 | ▼ 長岡天満宮 拝殿 | 34.9228 | 135.6864 |
05 | ▼ 長岡天満宮 本殿 | 34.9228 | 135.6862 |
06 | ▼ 長岡天満宮 錦景園 | 34.9231 | 135.6867 |
07 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池 | 34.9231 | 135.6882 |
08 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池水上橋 | 34.9245 | 135.6879 |
09 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池六角舎 | 34.9248 | 135.688 |
10 | ▼ 錦水亭本館 | 34.9227 | 135.6876 |
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