樫原の町並み
樫原の町並み(かたぎはらのまちなみ) 2009年12月9日訪問
松尾大社では重森三玲の松風苑を鑑賞させていただいた。本日の訪問地の中でも最も期待していただけに、予定以上の時間をここで費やすこととなった。この後、再び阪急電鉄嵐山線に乗車し桂駅で下車して徒歩で次の訪問地・樫原の辻に行く予定であった。しかし時間がなくなったので、タクシーを使うことに変更した。この道は、先ず京都府道29号宇多野嵐山山田線であるが、西京区山田の山陰道の交差点から先は、京都府道・大阪府道67号西京高槻線すなわち物集女街道に変わる。同じ直線上に接続されているにもかかわらず、山陰道を挟んで2つの通りに分かれる。タクシーを府道67号と府道142号沓掛西大路五条線の交差点で下車する。府道142号沓掛西大路五条線というよりは山陰街道と呼んだほうが分かり易いかもしれない。京の七口の丹波口、千本通七条上るを起点とし樫原を経由し老の坂を越えて丹波国に入り、亀岡、園部、三和を経て福知山に達する。そのため丹波街道ともよばれる。樫原は東西の山陰街道と南北の物集女街道の結節点にあたるため、交通の要衝であり古くから街道町としても栄えてきた。
山城国葛野郡の松尾村、桂村そして川岡村は、昭和6年(1931)に京都市右京区に編入された後、昭和51年(1976)10月1日に西京区が新設されると、旧大枝村と旧大原野村を含め3村も編入されている。川岡村は明治22年(1889)の市町村制施行によって、川島村・岡村・下津林村・牛ヶ背村が合併してできた村である。樫原は山陰街道と物集女街道が交わる岡村に含まれていた。
岡村は北を御陵、東は川島、西は塚原と長野新田の各村に接し、南は乙訓郡物集女村に接する。享保14年(1729)の山城国高八郡村名帳で、岡村の村高606.6石余とされている。内訳は知恩院領404.5石余、樋口家領96石余、岩倉領72石余、清水谷領25石余、その他は二家の知行とされていた。
樫原は上記のように七条通の西詰で丹波街道(=山陰街道)が西岡の丘陵地にさしかかる入口に位置し、西国街道の山崎宿と四条街道を結ぶ物集女街道も通る宿場町となっている。地名は貞享2年(1685)に孤松子によって刊行された京羽二重(「新修京都叢書 第六巻 京羽二重 京羽二重織留大全」(光彩社 1968年刊))に見ることができる。巻一の「原」の条に以下のようにある。
樫かたぎ原 七條通の西丹波へこゆる道なり
これが樫原の地名として現れる比較的古い例である。また黒川道祐が雍州府志を編纂するために近畿の名勝を歴観したものをまとめた近畿歴覧記の中に納められている大原野一覧にも以下のような記述が見られる。
齋院川勝寺村ヲ過キ、桂ノ邊宿ヲ過、船ニテ川ヲ越ス、
徳大寺村ヲ北ニ見、八條殿別荘ヲ西ニ見ル、
カタギ原ノ町ヨリ右ヘユキ、
陵村ヲ歴テ桓武天皇ノ陵ヲ拝ス
道祐が大原野を訪問したのは天和元年(1681)10月22日のことであった。この頃には「カタギ原」とよばれる地名は存在していた。さらに時代が下り、僧浄慧によって記された山城名跡巡行志(「新修京都叢書 第十巻 山城名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊))第四の葛野郡四にも以下のような記述がある。
わずか京の七條口から一里十二町しか離れていないにもかかわらず、旅宿があるのは不思議に感じられる。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 1979年初版第一刷)によると、江戸時代、参勤交代の大名行列は京都市中を通過することは原則として許されていなかったため、東海道から山陰道へ入る際は、大津から一旦伏見に入り、伏見から樫原を経由して老ノ坂を越えている。勿論、大名が勝手に朝廷や公家と接触を持つことを徳川幕府が許していなかったから、市中の通過はなかった。京が幕末政治の中心となったのは、安政年間(1854~59)から後の幕府の権威が失墜してからのことである。ちなみに参勤交代自体も幕末の文久2年(1862)閏8月、文久の改革の一環として、3年に1回(100日)の出府に緩和されている。
また丹波筋から大阪方面に出る場合も、樫原で南転し山崎へ向うのが最短距離であった。そのため樫原にも本陣が設けられた。享保4年(1719)当地の豪族の廣田庄兵衛永張が京都所司代板倉氏の依頼を受けて本陣の経営に従事したと伝わっている。しかし文献の上では、寛政9年(1797)12月晦日に本陣が類焼したことが、当家が所蔵する文書より分かるのみである。本陣の成立は、恐らくそれ以前となる。焼失の再建には、丹波・丹後・但馬の12藩等からの合力銀・拝借金を得て進められ、同12年(1800)4月に完成している。現存する主屋はこの時に再建されている。また、主屋の後方に建てられた土蔵は、棟札より明和3年(1766)に建てられたことが判明している。
安政2年(1855)松尾下山田の豪族で足利直系の玉村新太郎正継が継承し、今日まで五代にわたり維持している。
主屋内部は、後代に大きく手が加えられているが、東から正面にかけて土間が鍵型に配され、その西に九室が三列に並ぶ平面であったと考えられている。この内、西及び正面寄りの各室は、改造が少なく、中でも西列最奥の六畳は、床を一段上げて上段の間に造り、柱はすべて面皮柱として西面には床と違棚、欄間を構える立派な建物になっている。上段の間の横には隠れ間も存在し、上段の間の南には二の間・三の間が続き、これら三室は、書院造の構成となって本陣座敷としての体裁を整えている。
諸大名が出入りした玄関門は乳門と呼ばれていて、玄関の天井板には、筆太に書かれた「高松少将御宿」「松井伯耆守御宿」等の宿札がびっしり貼られている。また、大名の宿帳や関札等の多くの古文書を蔵している。
伏見宿の本陣が現存しない今日、市内で唯一残る本陣遺構であり、また樫原宿の近世町家として評価され平成4年(1992)京都市指定有形文化財に指定される。
樫原には本陣以外にも旅宿が建てられ、盛期には11の宿が軒を並べる宿場町となっていた。しかし江戸中期以降、淀川水運の隆盛と瀬戸内海航路の発達に伴い、樫原宿の利用度は低下し、本陣も丹波・因幡・伯耆など山陰筋諸大名の利用に限られるようになった。現在でもかつての旅宿を民家として利用するなど、宿場町の面影が残る。
山陰街道沿いに、維新殉難志士墓を探しているうちに、樫原の札場を見つけました。京都市の駒札でないようなので、全文記しておきます。
樫原宿場街と札場
樫原は山陰街道の京都寄りの一番目の宿場であり、現在では三の宮神社の旅所となっています。往時は、旅籠かわち屋の位置でありました。この周辺は、木屋、柴屋、白酒屋、油屋、種屋、うなぎ屋、小間物屋、塩屋等の店が並び、昼間でも三味線の音が聞こえる相当発展した町でした。旅人は多く、その足は駕籠で、帳場がこの辺りにありました。駕籠は東の辻(七条通七本松)までとか西の峠(老の坂)までというように一里(四キロ)位を往復していました。明治になると速さの違いから駕籠は人力車に取って変わられました。暫くすると乗合馬車が登場し、七条ステーションと樫原ステーションを結ぶ乗合馬車が一番の輸送機関とされました。馬の手綱をもつベットウさんの吹き鳴らすラッパの音も高らかでした。馬車松屋という屋号も残っています。
明治二十五年頃、亀岡財界の有力者田中源太郎氏が現在の山陰鉄道を造られたので、樫原の宿場町は火の消えた様にさびれ、自然と札場もなくなりました。
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