松尾大社 松風苑
松尾大社 松風苑(まつおたいしゃ しょうふうえん) 2009年12月9日訪問
昭和を代表する作庭家の重森三玲は、庭園史家として、初期と最晩年の2度にわたり研究成果を著している。最初は昭和11年(1936)より刊行開始した日本庭園史図鑑(有光社)である。未だ科学的分析手法を用いた日本庭園研究がなかった時代に、日本庭園史図鑑は画期的な研究書であった。この執筆のために重森は実に日本全国350の庭を訪れ調査を行い、その内から243庭を選出し、全26巻に纏めた。刊行を終えた昭和14年(1939)は第二次世界大戦を間近に控えた混乱した時期でもあった。
「重森三玲 永遠の求めつづけたアヴァンギャルド」(京都通信社 2007年刊)に掲載されている「21世紀は重森三玲をどう感じるか」と題された座談会の中で、三玲の弟子でもあった作庭家の齋藤忠一氏は日本庭園史図鑑と室戸台風の関係について述べている。
昭和9年(1934)9月21日に西日本を中心に大きな被害を及ぼした台風により、大阪では四天王寺の五重塔と仁王門が吹き砕かれ全壊している。京都府でも京都西陣小学校が全壊だけではなく、木造校舎の倒壊・大破が相次いだ。「京都市風害誌 昭和9年9月21日」(京都市役所 1935年刊)でも賀茂別雷別神社、賀茂御祖神社の国宝建物の倒壊を始めとし、建仁寺、知恩院、西本願寺、醍醐寺等で数多くの建物が倒壊損傷している。被害規模は174社、952寺とも謂われ(同書 9月末調)、なんと社寺全体の68.4%(1126/1646件)、そして神社の77.0%(174/226社)、寺院の66.9%(952/1422寺)が被害にあったとされている。直接強風により建物が倒壊したよりは、鬱蒼とした景観を作ってきた境内の古木が倒壊したことによってもたらされたものが多かったようだ。同書には、特に著しい損害を受けた29社49寺について被害箇所が記述されている。松尾社も祓殿と末社金刀比羅社の倒壊と一挙社の半壊が記録されている。 京都市中の社寺が受けた損害は建造物などに留まらず、多くの庭に甚大な影響を与えた。しかし破壊された庭を修復しようとしても資料が少なく難渋した。このような状況に危機感を抱いた三玲は、被災した年に日本全国の庭園の実測調査を提唱している。しかし賛同するものが現れなかったため、ついに昭和11年(1936)より実測調査を開始したというのが実情のようだ。
この期間に重森は庭園研究のみに没頭していた訳ではなかった。春日大社社務所東庭や事実上の処女作となる東福寺方丈の庭、同じく東福寺の塔頭である光明院の波心庭そして芬陀院の復元と新しい庭の作庭を手掛けている。また日本庭園史図鑑刊行の契機となった室戸台風後の修復として東福寺普門院庭園も手掛けている。
特に東福寺方丈庭園は、伝統的な枯山水の庭にモンドリアン的な幾何学を持ち込んだ意欲作であり、重森のその後の方向性を見事に打ち出した作品になっている。最初の作品にしてその完成度は非常に高く、重森の作庭家としての長い経歴を通じても代表作とよべる庭園に仕上がっている。このように過去の庭園を第三者的な立場から研究する一方で、オリジナルな作品を作り上げたことを考えると、重森三玲が多様な能力を兼ね備えた総合芸術家であったことが見えてくる。
例えば建築史家でありながら設計を行った人物を思い浮かべると、まず伊東忠太が現れるだろう。震災祈念堂、築地本願寺そして大倉集古館の設計は伊東の歴史観の表出でもある。京都の地でも平安神宮や真宗信徒生命保険そして祇園閣を手掛けている。伊東の場合は歴史学者よりは設計者としての実績が高く評価されている。現代でも建築史家の藤森照信氏がタンポポ・ハウスやニラハウスなど専業設計者では想いも浮かばないような建築を創り出した事例もある。
確かに建築の作家と研究家の2つを行う人は、作庭家の中では少なくないように思える。例えば御香宮庭園や城南宮庭園を手掛けた中根金作も、東京高等造園学校を卒業した後に京都府文化財保護課記念物係長を務めている。また庭園史研究家として著名な森蘊も大阪万博の日本館庭園を作庭している。どちらかといえば森は研究に重心を置いたのに対して中根は実作に重きをおいたように思える。それに対して重森は、いずれの道にも偉大な足跡を残していることは特筆すべきことである。
かつての名庭を復元することは、その時代の庭の本質を理解していなければならないし、過去とのつながりの欠けた部分には作庭家として類推して埋めなければならない。そういう意味でも古典を知るという庭園史研究は不可欠な存在でもある。そして造園技術も含め全く過去と決別した地点から新たな造形芸術を行うこともできない。実際に芬陀院や同じく東福寺塔頭の霊雲院のように過去の庭の復元と自らのイメージによる新たな庭を共存させることも求められている。 しかし、それでも過去の名作を学ぶこと自体が、創作を行う上で大きなリスクを背負うことにもなる。先の「21世紀は重森三玲をどう感じるか」でも、齋藤氏は下記のように述べている。
彼(重森三玲)は自分でもそう(伝統美に学んだ)思っている。「ぼくは借り物が多くて困る」と。たくさんの庭を実測したから、あらゆるパターンが彼の頭にはいっているわけだ。だから、仕事をするとき、それが自然と頭に浮かんでしまう。そういうものを排除して、自分の世界で夢中になりたい。しかし、知識が邪魔する。それが、「ぼくは借り物が多いからなあ」、「借金が多いからなあ」という言葉になる。辛いんだな。
実際に実測図を作成する作業には多くの時間を要する。普通の人が庭を鑑賞しただけでは印象に残らないものでも、何日もかけて見るという「仕事」を行うと次第に表側に現れてくるとともに、知らない間に身についてしまうのであろう。この座談会の中でも作庭家の野村勘治氏は「染みつく」という言葉を使用している。
これら先人たちの意匠を打ち払い、オリジナリティを創作するために、石を吊り上げた瞬間に判断を行い、瞬時に組んで行く作庭手法を生み出すに至ったのだろう。実際に石組の仕事は、非常に速く、一日で30石から40石を組むことも可能だった。恐らく考え悩み始めると、自らの頭の中に先人達の意匠が現れ始めるため、即断即決で行っていったのであろう。
「きょう石を組むにあたっては、大燈国師の心を借りる」というような言葉を使い、自らの体を依代にすることによって、過去のデザインという膨大な知識から自由になれたのではないかと思う。実際に一度、決めた石は直すこともなく、現場に持ち込んだ石を余すこともなく、足りなくなることもなかったとされている。つまり作業に入る前から完全なイメージが構築されており、そのイメージを現場で乱されることなく創りあげて行くということが三玲の採った作庭手法なのだろう。
昭和46年(1971)重森三玲は75歳にして、日本庭園史図鑑刊行以来となる大規模な実測を開始する。桂離宮・修学院離宮を含む全国130余の庭の調査を行う。これは長男の完途との共著となる日本庭園史大系を刊行するためであった。庭園史家・重森三玲の仕事の集大成となった日本庭園史大系には、上古~室町の庭:82庭、桃山の庭:53庭、江戸の庭一:67庭、江戸の庭二:90庭、現代の庭:65庭の357庭が掲載されている。これは自らの日本庭園史図鑑を超える著作物となり、この大事業を人生の最終段階に着手している。そのため全巻33巻に別巻2巻を追加した大著が完成したのは昭和51年(1976)、すなわち重森三玲が亡くなった翌年のことであった。
第33巻は現代の庭の補巻として昭和51年(1976)2月29日に刊行されている。その序で重森完途は、「庭園史上の最も新しい作品群を提示し、補巻の最後らしい締めくくりをしたかった」と述べている。この巻に掲載された現代庭園は昭和以降の最新の作品であり、特に戦後に作庭された12庭取り上げている。その目次を眺めると中根金作の御香宮庭園から始まり、重森三玲の泉涌寺善能寺庭園そして松尾大社庭園で締めくくっている。この現代を代表するとして選ばれた12庭の内、10庭までもが重森三玲によって作庭されている。まさに重森三玲を追悼するために作られた巻といっても過言ではない。昭和51年(1976)1月7日に記された完途による序文は、以下のように括られている。
昭和51年の正月の空の青さは、日本庭園の未来を暗示しているように思えてならない。
まさに、その言葉を裏切らない作品群であった。戦後の復興期に合わせて、過去の様式に囚われない新たな作品が産み出されてきた。しかし日本庭園の現状を鑑みると、重森完途の想いは本当に遂げられたのだろうか。確かに経済的に安定した時代を迎え、新たな庭園が次々と産み出されてきた。それは寺院や個人住宅に限らず、公共的空間にも多くの作品が作られてきた。しかしその中で新たな方向性を示す庭園がどのくらい現れたのか?何か心地よさと懐かしさを想い起こすイメージは提供できたものの、独立した一つの芸術様式を感じさせるものには出会えていないように感じる。そのように想うと、重森三玲の最後の作品が現れた時期こそが、ある意味でも日本庭園の一つの最盛期でもあったのだろう。
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