徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2013年 6月

新三本木の町並み

 

新三本木の町並み(しんさんぼんぎのまちなみ) 2009年12月10日訪問 新三本木の町並み 細い東三本木通  「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、元禄4年(1691)京大絵図には「あきやしき」「三人衆」と記され、現在の三本木町には町名らしきものはなかったようだ。宝永5年(1708)3月8日に発生した火災、つまり油小路通三条上ルの銭屋市兵衛宅より出火した宝永の大火によって、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋などを悉く焼失している。この大火後の市街地整備に伴った御所拡張も行われ、三… ►続きを読む

 

頼山陽書斎山紫水明処

 

頼山陽書斎山紫水明処(らいさんようしょさいさんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問 頼山陽書斎山紫水明処  丸太町橋の西南橋詰には、明治5年(1872)に開設された新英学校及女紅場が、明治7年(1874)に英女学校及女紅場、明治9年(1876)に京都女学校及女紅場、明治7年(1882)に京都女学校、そして明治20年(1887)には京都高等女学校と校名を変えながら明治31年(1898)までこの地に存在していた。そして大正13年(1924)に竣工した旧京都中央電話局上分局も平成元年(1989)からは商業施設に改修されている。 この場所の対面にあたる丸太町通の北側には、頼山陽書斎山紫水… ►続きを読む

 

女紅場址 その2

 

女紅場址(にょこうばあと)その2 2009年12月10日訪問 女紅場址  丸太町橋の西南詰に建てられた女紅場について調べてみる。石碑の北面には、女紅場址の説明として「本邦高等女学校之濫觴」と記されている。そして西側に「女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校創立当初ノ名称ニシテ明治五年四月十四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ」とある。この女紅場は明治5年(1872)に九条家の別邸に建てられたもので、明治37年(1904)4月に京都府立京都第一高等女学校と改称されている。そのため官立東京女学校として明治4年(1871)12月に設置された東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に次いで最も古い高… ►続きを読む

 

女紅場址

 

女紅場址(にょこうばあと) 2009年12月10日訪問 女紅場址 旧京都中央電話局上分局の北東角  旧京都中央電話局上分局の北東角、鴨川に架かる丸太町橋の南西橋詰には女紅場址の碑が建つ。 女紅場の説明に入る前に明治初年の教育事情について簡単に触れておく。京都では明治2年(1869)1月、前年に決めた上京45下京41の町組を改正した第二次町組が出来る。この町組改正により上京33、下京32の計65町組が一応出来上がる。しかし明治2年の内に下京1町組が分離し2町組となったため、上京33町組下京33町組の66町組となる。 前年の明治元年(1868)9月に既に京都府は小学校の建設を各町に奨励してい… ►続きを読む

 

旧京都中央電話局上分局

 

旧京都中央電話局上分局(きゅうきょうとでんわきょくかみぶんきょく) 2009年12月10日訪問 旧京都中央電話局上分局  行願寺の山門を出て、下御霊神社そして横井小楠殉節地の碑の前を通り、再び丸太町通に戻る。鴨川に架かる丸太町橋を目指し東に進む。河原町通、土手町通を越えると右手に吉田鉄郎設計の旧京都中央電話局上分局が現れる。 建築家吉田鉄郎は、明治27年(1894)富山県東砺波郡福野町の郵便局長を務める五島寛平の3男として生まれる。金沢の旧制四高を経て東京帝国大学建築学科を大正8年(1919)に卒業する。逓信省営繕課に入った鉄郎は、同年吉田芳枝と結婚し以後吉田姓となる。  逓信省は明治1… ►続きを読む

 

行願寺

 

天台宗 霊麀山 行願寺(ぎょうがんじ) 2009年12月10日訪問 行願寺  下御霊神社の鳥居を出て再び寺町通を下る。竹屋町通が寺町通に突き当たる場所に西面して行願寺がある。革堂ともよばれる天台宗の寺院で、山号は霊麀山。西国三十三所観音霊場第19番札所で、清水寺、六波羅蜜寺、頂法寺(六角堂)、善峯寺などが名を連ねている。本尊の千手観音は行円が夢託によって得た賀茂神社の槻木を刻んだものであり、その余材は善峯寺の本尊に充てられたと伝えられている。 初めは一条小川新町にあり、一条北辺堂とよばれた。現在でも小川通一条上ルあたりに革堂町、革堂仲之町、革堂西町などの町名が… ►続きを読む

 

下御霊神社

 

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ) 2009年12月10日訪問 下御霊神社  横井小楠殉節地より、寺町通を南に30メートルほど下ると下御霊神社の鳥居が現れる。 下御霊神社は、「山州名跡志 坤」巻之二十二(「新修 京都叢書 第19巻 山州名跡志 坤」(光彩社 1968年刊))に以下のように記されている。 在リ二京極通大炊御門ノ北東方ニ一門西向 拝殿同 社同 所レ祭ル辨スレ上ニ當社始メ新町通リ近衛ノ南ニアリ。今尚云フ二御霊ノ町ト一。  京極通は東京極大路のことであり、平安京の東端にある大路のことである。現在の寺町通と考えてもよい。大炊御門通も現在の竹屋町通にあたる。鳥居は西を向き拝殿も西向き… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その7

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その7 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  この項では小楠暗殺以降のことをまとめてみる。  新政府の重臣に対する襲撃事件の実行犯を即刻逮捕することは、朝威と政体の上から必要不可欠なことであった。事件発生後直ぐに洛中には軍務官と京都府から捕吏が繰り出された。そして京七口には平安隊の兵が固め、大津・淀・伏見の往来を禁じ、犯人の逃走路を遮断した。早くから十津川人と肥後人が犯行に関わっていると見られ、肥後藩重役に呼び出しがかかり、十津川藩邸や屯所も捜索されている。 事件当日、中町夷川通の中村屋梅吉方で重態の柳田直蔵が発見される。襲撃で深手… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その6

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その6 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地 その5では同世代人である佐久間象山との比較の中から、横井小楠の思想の柔軟さと革新性を見い出した。いよいよこの項では小楠暗殺がどのように行われたかについて記してみる。 慶応3年(1867)12月18日、三職が参内し朝議が行われ、王政復古を諸外国に宣言する擬案とともに人材登用・革政所設置の事が議論されている。「復古記 第一冊」(東京帝国大学蔵版 1930年刊)復古記巻十一の12月18日の条には下記のような人選が成されている。   御任選 御沙汰ニ付言上之向、列藩   德川&#… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その5

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その5 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地から横井小楠殉節地 その4までを使い、横井小楠の思想的な展開について、開国論を中心に書いてみた。最初に比較したように佐久間象山と横井小楠について再び考えてみる。象山は文化8年(1811)2月に松代に生まれている。対して小楠は文化6年(1809)8月生まれと、現在の教育制度では小楠が1学年上となる。ほぼ同世代といってもよく、二人は同じ時代に生き、同じものを見て感じ考えてきたはずである。しかしながら歴史的に小楠と象山が巡り合うことはなかったようだ。「日本の名著 30 佐久間象… ►続きを読む

 

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