御霊神社・下桂
御霊神社・下桂(ごりょうじんじゃ) 2009年12月20日訪問
ここからは桂離宮の周囲を一周する間に出会った社寺を記す。最初は桂離宮の西北にあたる桂久方町の御霊神社である。境内はそれほど広くはないが、大きな立派な樹木が印象的な神社である。境内へと続く参道が2本有り、東と南の二箇所に鳥居が設けられている。 祭神は橘逸勢。神社の御由緒によると創建は貞観18年(870)4月18日に下桂御霊神社に祭神として勧請されている。橘逸勢は空海、嵯峨天皇と共に三筆と称される人物である。
橘逸勢は延暦23年(804)に最澄や空海らと共に遣唐使として唐に渡っている。しかし中国語が苦手だった逸勢は、語学が障壁とならない琴と書を学び、帰国後は何れも第一人者となっている。承和7年(840)に但馬権守に任ぜられたが、老いと病により出仕しなかったとされている。
承和9年(842)7月15日に嵯峨上皇が薨去すると逸勢の生活は一変する。僅か2日後には謀反を企てているとの疑いで伴健岑とともに捕縛される。恒貞親王は皇位継承の争いを避けるため、何度となく辞意を申し出たが、父親の淳和上皇そして叔父の嵯峨上皇の生前は慰留されてきた。しかし、承和7年(840)5月8日に淳和上皇、そして2年後の承和9年(842)7月15日に嵯峨上皇、と相次いで薨去されると恒貞親王の身に危険が迫る。逸勢と健岑は恒貞親王を東国への移送を画策したとされ捕えられている。両人とも罪を認めなかったが同月23日には仁明天皇より謀反人であるとの詔勅が出され、恒貞親王は皇太子を廃される。逸勢は伊豆へ、健岑は隠岐への流罪が決まる。所謂、承和の変である。
笠原英彦氏著の「歴代天皇総覧」(中央公論新社 2001年刊)では、嵯峨、淳和、仁明と平穏無事な時代が続いたのは皇族内部に上皇や天皇、そして皇太子の関係を良好に保とうという深い配慮が働いていたためとしている。しかし水面下では嵯峨上皇・仁明天皇に近い藤原良房一派が、淳和上皇、恒貞親王と親密な藤原愛発や藤原吉野を排斥し、自らの縁戚にあたる道康親王を皇太子に据えるために行われた政変である。そして藤原愛発、藤原吉野を失脚させた上、名族伴氏と橘氏にも打撃を与える結果生み出した。橘逸勢と伴健岑は、平城天皇の皇子にあたる阿保親王に相談している。阿保親王はこれに与せずに、逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后に策謀を密書にて上告している。驚いた皇太后は藤原良房に相談したことで露見している。橘氏として最初の皇后となった檀林皇太后の後に橘氏から皇后が出なかったのは、良房に計画を伝えてしまったためである。恒貞親王の実母である正子内親王は母の檀林皇太后をひどく恨んだというのは納得の行く話しである。いずれにしても藤原良房は妹の藤原順子の子にあたる道康親王を嘉祥3年(850)4月17日に即位させ、藤原北家に権力を集中させることに成功している。
承和の変に話を戻す。伊豆に流された橘逸勢は、承和9年(842)8月13日護送途中の遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没している。その死後に罪を許された逸勢は、嘉祥3年(850)檀林皇太后の没後に正五位下の位階が贈られている。さらに貞観5年(863)に行われた御霊会において、早良親王、伊予親王、藤原吉子、文室宮田麻呂、藤原仲成などとともに六所御霊として祀られた。現在も上御霊神社と下御霊神社で吉備聖霊と火雷神を加えた八所御霊の一柱として祀られている。以上の経緯を経て貞観18年(870)に橘逸勢は祭神として下桂に勧請されている。 さらに神社の御由緒によると、江戸時代に入り八条宮智仁親王より後水尾天皇御使用の鳳輦を神輿として下賜されている。また後水尾天皇御宸翰「御霊宮」の勅額が下賜されている。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会に掲載された御霊神社には下記のように記されている。なお上桂の西居町にも御霊神社があり、こちらの祭神は伊予親王である。
御霊社 中桂村にあり、橘逸成を祭るとぞ
南の鳥居の右脇に御霊神社の神名標石が設置されている。この鳥居の先に舞殿がある。一方、東の鳥居の先には舞殿と拝殿、本殿が並ぶ。舞殿の北側には松が描かれた鏡板のある神楽殿がある。舞殿の南側にある巨木は樹齢400年とされるムクロジ(無患子)の木であった。初夏の6月から7月にかけて長さ20~30センチメートルの円錐花序を出し、淡黄緑色の小花が咲き軸に細毛が密生する。果実は球形をなし堅くて黒い種子が一個入っており、これを羽根つきの羽根の玉にする。
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