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京都の神社巡り



京都の神社巡り(きょうとのじんじゃめぐり)

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京都の神社巡り 伏見大社稲荷

 昨年の正月には、京都の名庭巡りということで、京の庭園のランキングを作成した。(京都の名庭巡り その1 その2 その3 その4 その5の1 その5の2 その6をご参照下さい)そこで今年最初の記事として、京都の神社巡りについて書いてみる。
 そもそも、神社の定義とは何だろうか?Wikipediaでは

日本の宗教の神道の祭祀施設、及びその施設を中心とした祭祀儀礼・信仰を行う組織。鳥居の内の区域一帯を、「神霊が鎮まる神域」とみなす。

とある。神社とは神道に関連する施設とその組織自体を指し示す用語として使われているが、その定義は非常に広範で捉え難いものである。神社と寺院を区別する時には神道か仏教かで判断するが、むしろ私たちは鳥居のあるなしのような建築様式で判断している一面もある。しかし近代以前の神仏習合の時代では鳥居の有無で見分けることは出来ない。また神社建築と寺院建築の様式との差異を見出す方法では、神社建築が確立する以前の初源的な神社の形態、例えば磐座や神籬などに当てはめることもできない。手近な神社入門書を見ても、いまひとつ明確な神社の定義に巡り合うことができないのが現状である。

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京都の神社巡り 御香宮神社

 このように神社というものの定義が困難になっている背景には、神社自体が曖昧性を認めてきたことに起因しており、その曖昧性は神社の基となっている神道の成立にあったとも考えられる。多くの宗教にはキリストや釈迦やマホメットのようなカリスマ的創唱者が存在する。しかし神道にはそのような超人的な人物が行った奇跡だけではなく、その創始者さえも存在していない。色々な土着の民俗信仰や仏教を始めとする外来諸教等が融合することによって、神道はひとつの教義を構成している。そのためキリスト教における聖書のような言語による明確な教説も無く、長い年月をかけて執り行なってきた祭祀によって神話や神の存在を伝えてきた。このように神道に備わる多義性とともに曖昧性は複数の信仰を融合する際に生じる摩擦を解消するために生み出された解決方法とも考えられる。つまり日本の古代政権が土着の民俗信仰を認め、これらの人々を支配する上で祭政一致を行ってきた。このことが教義を言語で統一的に定着させなかったことにつながっている。もともと論理的に統一することができないものを内包化したためである。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の融合した例は世界各地でも存在するらしいが、神道に見る多様性は他に例のない程の特異なものとなっている。

 仏教や儒教が日本に入ってくる以前の古神道は、自然崇拝や精霊信仰などから発し、産土神・氏神・祖先神・祖国神等の崇拝へと変遷していったと考えられている。磐座や神籬が神の降臨する場として設けられる以前より、聖性を感じ取れる美しい形状の山には神が住んでいると考えられ、神霊が宿る御霊代を擁した領域、すなわち神奈備を神体とした場所もあった。代表的な例として奈良の大神神社をあげることができる。大神神社は現在も拝殿はあるものの、神座を祀る本殿は存在していない。あくまでも信仰の対象は三輪山とされている。
 精霊信仰は縄文時代に既に始まったと考えられている。そして水稲耕作が日本全域に広まると穀物の収穫を願う農耕儀礼が行われる。瓊瓊杵尊・火照命・火闌降命・彦火火出見尊のように、神名にも農耕や稲作に関係するものが現れ、古神道の中に取り入れられて行ったことが分かる。しかし農耕信仰が神道を生み出したのではなく、あくまでも古代日本の国家経営において稲作を重要視したための結果と考えるべきだろう。狩猟・漁労信仰などから御供物として神前に供えられている事例があることからも、農耕信仰だけに留まらず、鍛冶や冶金・織物等の職能神や雷・火・風等の自然神と共に多くの神や信仰が神道の中に組み込まれて行った経緯が見て取れる。

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京都の神社巡り 宇治神社

 磐座と磐境については、松尾神社 上古の庭で、「日本庭園史大系1 上古の庭」(社会思想社 1973年刊)の重森三玲の論文を引用した。磐座は岩を蔵とし、磐境は岩を境とする意味があり、どちらも石の持つ強い生命力=永遠性を認めて、石に託したものでもあり、人為によってみだりに崩されることがないものであった。それ故に巨石を用いた磐座や磐境が現存するのは物理的な強さと共に、神の依代として崇拝の対象となった。蔵は物を納める場所であり、座は人々が集まり座ることである。従って磐座は神と庶民とが一座となる場のことであり、単に神としてだけの存在ではなく、庶民崇拝の座であることに三玲は着目している。そのため磐座は神の示現であることによって庶民は崇拝し、祝詞を奉って神を奉斎する。 磐境は境であり、巨石を集めて円形または楕円形に並べた神聖清浄な地のことで、神を祀る場である。そのため磐座は一石でも成立するが磐境は数石を集めてはじめて境となる。ただし数石を用いたとしても一石々々が磐座であり、石そのものも神として扱われる。磐境は時代が下り玉垣になって行く。瑞垣ともよぶ神社・神域の周囲にめぐらされる垣のことであり、常世と現世の境界でもある神域を明確化するために用いられる。
 これに対して神籬は神を迎えるための樹木であり、基本的には常緑樹が用いられている。このような木々は神木として信仰される対象となっていく。神籬は、かつてはこの自然木をさしたが、次第に臨時の祭祀を行う施設を意味するようになって行く。現在では神が宿るための依代となる榊につけた幣を中心に、注連縄などを張って聖域であることを示したものとなり、地鎮祭で見かけるようなものとなっている。

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京都の神社巡り 宇治上神社

 繰り返しとなるが、古くから残る巨石に生命力を見出した人々は、巨石を用いて磐座を築くことにより普遍性を得ようとした。そして宇佐神宮の亀山神社のように磐座の上に祠的な建築物で覆い、磐座を神像的に扱う例が現れてくる。これは磐座が常世思想と結びつき、亀石組的に中心石が神像と見做され、そして建築によって覆われた形式となる。なお、磐座や神籬に代わって、現在のような恒久的な施設として社殿などの神社建築が誕生したのは6世紀頃のことととされている。
 更に時代が下り、禅宗の祖師の遺骸の上に無縫塔を建立し、その上に昭堂を建てるようになる。重森はこのような祭祀の行い方に対して、古神道の磐座の存在を上げている。これは上古の人々が自然の神を崇拝した形式を仏教の中に取り込んだものであり、昭堂はかつての磐座のような崇拝の象徴として継承したものでもあるとしている。

 6世紀中頃の欽明天皇期に、百済を経て日本に仏教が公伝される。これは以前から行われてきた私的な信仰としての仏教伝来ではなく、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指す。新たに伝来した仏教の如来・菩薩・明王などの仏達も、元よりあった古神道の神と同列の存在として把握された考えられる。これらの新たな神々は「蕃神」あるいは「今来の神」や「仏神」と呼ばれ、その受容には時間を要した。
 一般的には物部氏・中臣氏が、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったのに対して、蘇我氏は渡来人勢力と連携し、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であったとされている。その真偽は分からないが、仏教公伝は物部氏・中臣氏と蘇我氏の間に崇仏・廃仏論争が巻き起こる。大連・物部尾興や神祇を祭る中臣鎌子と蘇我稲目を中心とした宗教上の論争は、物部守屋と蘇我馬子の時代になると、蘇我氏と物部氏の勢力争いに変化して行った。用明天皇2年(587)の丁未の乱で物部守屋が戦死すると、その6年後の推古天皇元年(593)に、聖徳太子は摂津難波の荒陵で四天王寺の建立に着手する。寺の基盤を支えるため、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたとされている。また推古天皇15年(607)には法隆寺が創建されている。また薬師寺、東大寺など国家的な大寺院、そして諸国に国分寺・国分尼寺の建立が続き仏教の国家宗教化が強まっていく。

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京都の神社巡り 宇治上神社

 仏教公伝から大寺院の建立により、民衆の神社に対する崇敬が失われたわけではなかった。また朝廷においても仏教信仰とは別に神社信仰が存在しており、天皇の祖神にあたる天照大神が祀られる伊勢神宮を中心とした信仰が体系付けられていた。7世紀から8世紀にかけての律令官制の整備に伴い、神社関係を担当し祭祀を司る神祇官が設けられている。さらに、人臣に授けられた位階を神にも授けた文位・武位・品位の神階も制定されている。以下に神階をまとめておく。

神階 文位(なし~従三位)   武位(勲一等~勲七等)   品位(一品~二品)
 9世紀に入ると古神道と仏教を一つの信仰体系の下に再構築する神仏習合の試みが行われる。これらは熊野信仰や怨霊信仰などいくつかの形で現れたが、仏や菩薩を本地であると考え、その仏や菩薩が救済する衆生に合わせた形態、すなわち神の姿を取ってこの世に現れるという本地垂迹説が最も有名である。神は人々の前に現れた仏の仮の姿という、仏教上位の状況下において仏教側からの習合の形とも考えられる。鎌倉時代末期から南北朝にかけて、本地垂迹説の反動として神本仏迹説あるいは反本地垂迹説が現れる。ちなみに天照大御神に対する信仰は、大御神の子孫である天皇への信仰、神儒の合一を主張する山崎闇斎の垂加神道へと連なり、幕末の尊王思想の高揚をもたらすこととなる。
 神仏習合は思想のみでなく、神社内に神宮寺と呼ばれる寺院が建立され、石清水八幡宮や鶴岡八幡宮には供僧と呼ばれる僧侶によって運営がなされるようになっている。また仏像と同じく目に見えない神の姿を可視的に表現された神像が造立されている。

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京都の神社巡り 縣神社

 律令を補完するために格式が出されている。平安時代にも弘仁格式、貞観格式、延喜格式の3つの格式が編纂されている。格は律令の修正・補足のための法令、式は律令の施行細則を指している。延喜5年(905)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たり、延長5年(927)に完成、康保4年(967)より施行された延喜式には、延喜式神名帳と呼ばれる官社に指定されていた全国の神社一覧が含まれている。ここに記載された神社は式内社と呼ばれ、一種の社格となっている。式内社は全国で2861社、3132座に及ぶ。式内社は下記の4つに分類されている。

     官幣大社  198社 304座
     国幣大社  155社 188座
     官幣小社  375社 433座
     国幣小社 2133社2207座

 官幣社と国幣社は、幣帛を神祇官から受けるものと、国司から受けるものの違いにより、さらに大小に分けられている。式内社は全国に分布しているが、圧倒的に畿内に集中している。これは醍醐天皇の時代の朝廷に掌握された代表的な神社という意味合いを持っているためである。また延喜式神名帳には名神と注記された神社がある。霊験あらたかな神社に対する呼称であり、神名帳では224社310座、延喜式3巻の名神祭式では203社285座が記されている。

     延喜式神名帳(宮中・京中及び山城国)

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京都の神社巡り 藤森神社

 上記のように延喜式神名帳により、律令制における祈年祭などの祭事に朝廷から奉幣をする神社が多数定められていた。しかし律令制の衰退などにより次第に少数の特定の神社にのみ奉幣されるようになったと考えられている。平安時代前半期では正史に多数見られた官社撰定および神階奉授の記事が平安時代後半に入ると激減し、恒祇や奉幣記事も次第に範囲を狭めて皇都周辺の大社名社に限定されるようになって行ったようだ。さらに平安時代後半の律令体制の弛緩とあいまって中央の神祇官が一部の名社を重視し始め、地方国司の祠社の管掌もしだいに形式化・疎略化する傾向もあり、白河天皇治世の永保元年(1081)頃には畿内の有名な神社に絞り込んだ二十二社制度が確立したとされている。

     二十二社

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京都の神社巡り 伏見大社稲荷

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