京都の名庭巡り その1
京都の名庭巡り その1
2013年新春企画ということで京都の名庭ランキングを作ってみました。このような企画は個人の主観でかなり変わってきますので、御承知の上で御参照ください。また☆はそのランクの中でも秀でた庭園ということで特筆いたしました。自分の目で確かめたものから選びましたので、一般公開や特別公開そして事前申し入れで拝観できる庭だけです。個人所有で非公開の庭などは含まれていません。「なぜ、この庭がないの?」という疑問に答えるため、まだ訪問できていない庭のリストを最後に追加しておきました。
自分で見た庭から選んだと書きましたが、どうしても2つだけは未訪問の庭を入れました。お分かりかと思いますが、これを入れないとランキングにならなかったためです。2つの庭とも、なかなか訪問にはハードルが高い庭ですが、何れの機会に訪問するつもりです。
最後に日本庭園史大系をはじめとする書籍やWeb上での評価も加えておきました。上位20庭位は評価が一致するかと思いましたが、なかなか一致しないものです。恐らく選考の基準が、日本庭園の発展を説明する上で必要とされる庭、純粋に造形的に秀でた庭や建築を含めた空間で評価される庭など異なっているからでしょう。それを見るだけでも十分に考えさせられます。今回のランキングは、建築を含めた空間装置としての庭という位置づけで選んでみましたが、それでも「最低見ておかなければならない庭」は入れてあります。是非これを鑑賞の道具に使って頂ければ幸いです。
「何故見ていない庭2つを最上位に置いたのか?」と問われると答えようがありません。しかしこの2つの庭が後世の作庭のみならず文化自体に与えた影響があまりにも大きいため、外す事ができなかったからです。それでは「星☆の違いがあるのか?」とお感じの方も居られるかと思います。それほど大きな差がないように思われるかもしれませんが、私の中では上記の2つの庭は少し抜きん出ています。
桂離宮の評価の仕方は見る人によって異なります。ただ桂離宮を否定する人を見たことがありません。濃密な空間であるため、建築や庭園などの部位の手法を評価するだけでなく、文化論を展開するための道具として使われることが多いためでしょう。それだけの質と規模を備えた名庭だと思います。表現主義派建築家のブルーノ・タウトは、東照宮の対極に桂離宮を置き、絶賛しています。ここでも日本文化の本質を語るために、桂離宮を取り上げられています。確かにタウトが絶賛するようなシンプルな近代的な美しさが桂離宮にはあります。ただし装飾を廃したことで質素な建築になったかといえば、決してそうではありません。質素で素朴というと日本の民家を代表するように感じられる方も居られるかと思います。むしろミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸のほうが近いと思います。
後水尾法皇が築いた修学院離宮と比較すれば、確かに質素かもしれませんが、一宮家の別業建設としては破格の事業だったと考えます。離宮の基礎を築いた八条宮家初代の智仁親王は正親町天皇の皇孫で後陽成天皇の弟に当たります。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となりましたが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家を創設しています。家康が反対しなければ皇位は後水尾天皇ではなく智仁親王に移ったかもしれない人物です。それだけに資産を政治的に使うことなく、学問文芸に費やしています。そうしないと身に危険を生じると感じていたからでしょう。離宮造営は2代の智忠親王に引き継がれ、数十年間の年月をかけて磨かれた結晶と見ることもできます。
流石にいつまでも見ないでいるのは問題だと考え、2014年10月の平日に申請を出して訪問してきました。朝一番の回に入りましたが拝観者は非常に多く、個人的には撮影が難しくあまり良い写真が撮れなかった訪問になってしまいました。また残念ながらこの日は天気に恵まれず、全くの曇天でした。そのためか庭にも陰影が現れず、非常に平面的な印象を受けました。恐らく陽の光が少し入れば異なった印象になったと思います。さて上記の桂離宮に対するイメージと訪問後の印象に異なった点があったかと云えば、それほど大きな違いはありませんでした。やはりランキングの最上位にあるべき庭園として非常に緻密に造り上げられていました。それでも敢えて違いをあげるならば、先ず庭園自体の規模が思っていたほど大きくなかったということ。凡そ1.5倍程度の規模を想定していたが、非常にコンパクトに纏められていました。どこか後楽園などの大名庭園を想像していたのかもしれません。次に外界と隔絶させるためか外周部の木立が庭の造りに比べて高く、ほとんど借景がなかったこと。この点は確実に創建時とは違う眺めになっているはずである。つまり作者の八条宮智仁親王の目指したものとは異なった景観になっているだろう。さらに相違点を上げるならば、石や木々などの庭を構成する要素の数が予想以上に多かったことである。建築群の表現が装飾を廃し抑制的なのに対して、庭の表情は非常に豊かなものであった。これが訪問して一番強く感じた感想でもある。
西芳寺は暦応2年(1339)夢窓疎石が再興した禅宗寺院です。その際、疎石は荒廃していた西方寺と穢土寺を統一し寺号を西芳寺と改めています。再興間もない暦応5年(1342)には、北朝初代の光厳天皇が室町幕府初代将軍の足利尊氏を従えて寺に行幸しています。そして3代将軍の足利義満も永徳2年(1382)の訪問を最初として、その後何度も訪れています。義満が創建した鹿苑寺は、西芳寺を模したものであることは有名です。応仁の乱で東軍の細川勝元の陣が敷かれたため、西芳寺は兵火により焼失しています。本願寺の蓮如により再興された西芳寺を第8代将軍の足利義政も訪れ、西芳寺と鹿苑寺を模して慈照寺を創建しています。このように室町時代の文化を代表する鹿苑寺と慈照寺の発想の源となった西芳寺庭園は、当時から夢窓疎石の名庭とされてきました。俗な言い方になってしまいますが、自らが世界遺産に登録されるだけでなく、大きな影響を与えた2つの庭園も世界遺産に輝かせた庭ということもできます。
現在、黄金池を中心とした回遊式庭園は苔に覆われ、一面緑色の幻想的な空間となっています。これは夢窓疎石が意図して造ったものではなく、江戸時代末期より改められた姿です。もちろん夢窓疎石の庭園としての評価は、この苔を取り除いて行うべきでしょうが、ここを訪れる人々は誰も望んでいません。この幽玄な雰囲気こそが日本庭園の本質と感じている人が実に多くいます。その人々に対して専門家が説得できる明確な言葉は未だ現れていないようです。
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