京都の神社巡り その2
京都の神社巡り(きょうとのじんじゃめぐり) その2
神社の社格について書いて行く。
律令制における国司は任国内の諸社に神拝することが定められており、諸国の一宮の起源ともされている。これは上記の二十二社制が、中央における祭祀体制であるのに対して、地方での祭祀体制として作られたとも考えられている。原則として令制国1国あたり1社を建前にしたが、一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼んでいた。氏人や神人などの特定の社会集団や地域社会にとっての守護神や一国規模の領主層や民衆にとっての政治的守護神、あるいは中世の諸国にとっての国家的な守護神を祭神としていることからも、中央から地方支配を円滑に行うための手段であったかもしれない。律令制が崩壊した後も、その地域の第一の神社として一宮などの名称は使われ続け現在に至っている。一宮の成立は11世紀から12世紀にかけての頃と考えられている。この時期の文献に一宮の記述が現れている。
11世紀末期には、各国に総社と呼ばれる神社が定められている。特定地域内の神社の祭神を集めて祀った神社であり、国府の近くに総社を設け国司が総社を詣でることで国内巡回を省くために広まったと考えられている。新たに創祀された総社もあったが、従来の一宮制のなかで位置づけられた神社を総社とした例もあったようだ。しかし中世に入ると、かなりの数の総社は廃れている。後に再興されたものもあるが、今に至るまで再興されないものや、いずれに総社が存在していたかすら分からなくなっている例もある。このあたりは一宮とは対照的である。
総社
明治維新により武家政権が終わり、天皇を中心とした新しい政治体制が生まれると、先ず宗教政策の大きな見直しが行われた。慶応4年3月13日(1868)に発した太政官布告と明治3年1月3日(1870年)に出された詔書「大教宣布」などによって神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とを明確に区別させることが行われた。これらの目的は神道国教化にあったが、結果的には廃仏毀釈と呼ばれるように仏教施設の破壊などにつながった。さらに明治4年(1871)の太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収することとなった。神社においても、仏像の神体としての使用禁止、祭神の決定、神宮寺等の寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏具の破壊、仏事の禁止などが行われた。
宗教政策に大改革がなされたが、明治初年における神社行政は二転三転する。戊辰戦争の開戦間もない慶応4年(1868)1月17日に、総裁、参与、議定の三職と共に神祇事務科が設置され、神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科の筆頭に置かれている。同年2月3日に七つの事務科は総裁局のもとに事務局として再編成され、神祇事務科は神祇事務局となる。さらに閏4月21日、古代の律令制に基づく官制に倣い政体書が公布され、太政官制が敷かれている。神祇事務局は神祇官として正式に復興して太政官の下に置かれた。この政体書は副島種臣や福岡孝弟が起草したもので、権力分立・官吏公選・府藩県三治制などについて規定している。国家権力全体を支配する組織を太政官と称し、同時に内部では権力分立を行って専制権力の発生を阻止しながら、諸大名や国民を強力に支配していく体制を組織しようとしたのである。
明治2年(1869)6月17日には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれている。これにより米国の影響を受けた政体書体制を廃止し、祭政一致を原則とした復古的な二官六省制に変更される。これは幕末から目指してきた公議政体論に反し、主要官職を皇族と公家が独占するものでもあった。
明治4年(1871)5月14日に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」が制定されている。これ以前の社格としては、大奉幣社・中奉幣社・小奉幣社などの神祇官直支配社と大祭社・中祭社・小祭社などの勅祭社があった。それらを官社と諸社そして無格社の3つに分類し、そして伊勢神宮を全ての神社の上に据え、社格のない特別な存在と定めている。これを近代社格制度と呼ぶ。
官社は祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社。先ず官幣社と国幣社に分かれ、さらにそれぞれ大・中・小の格が付けられる。官幣社・国幣社をまとめて官国幣社と呼ばれる。官幣社と国幣社の名称は、律令制の社格に倣ったもので、官幣社は神祇官、国幣社は地方官が祀る神社とされた。主として官幣社は二十二社や天皇・皇族を祀る神社など朝廷に縁のある神社、国幣社は各国の一宮が中心となった。官幣社と国幣社には実質的差異はなかったが、例祭については官幣社へは皇室すなわち宮内省から、国幣社へは国庫から幣帛が供進された点が異なっている。この明治4年(1871)の制定後、国家に功績を挙げた忠臣を祭神として祀る神社など、官幣社でも国幣社でもない官社のために別格官幣社が創設されている。明治5年(1872)に湊川神社が初の別格官幣社に列格している。
緒社の方も府県社・郷社・村社に分類されている。府県社は府、県、台湾の州、台湾、北海道、樺太の庁から奉幣を受ける。郷社は府県または市から奉幣を受けた。また当初あった藩社は藩より奉幣を受けるとされたが、藩社が指定される前に廃藩置県で藩が消滅したため列格した神社はなかった。この他に道供進社は朝鮮の道から、府供進社は朝鮮の府から奉幣を受け、日本国内の府県社に相当した。
無格社は村社に至らない神社のことであるが、正式な社格ではなく社格を有する神社と区別するための呼称として使用された。無格社の神社であってもその多くは氏子を有し、神饌幣帛料供進がなかった点や境内地が地租もしくは地方税免除の対象とされなかった点などが異なる以外に相違はなかった。
官国幣社については官幣社が国幣社よりも格が上とされ、それぞれ大・中・小の順に格が下がる。官幣中社と国幣大社はどちらが上かなどの明確な規定はないが、一般的には下記のような順となる。また上記の別格官幣社は国家皇室の忠臣を祭神とするため、官幣小社と同等の待遇で国幣小社よりも上位ではなかった。
官国幣社の社格順
官幣大社 > 国幣大社 > 官幣中社 > 国幣中社 > 官幣小社 > 国幣小社 > 別格官幣社
諸社の社格順
府社 = 県社 = 藩社 > 郷社 > 村社
明治39年(1906)神社合祀の勅令により、規模の小さな無格社の多くは明治末期までに廃社となっている。これは神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせる政策であり、神社の威厳を保たせ神社の継続的経営を確立させる目的があった。この政策は内務省神社局が主導し、知事の裁量に任されたため実行の程度は地域差が出ている。全国で大正3年(1914)までに全国で約20万社あった神社の内、7万社が取り壊されている。特に三重県では県下全神社のおよそ9割が廃され、和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。一方、京都府では1割程度での合祀で免れている。
明治4年(1871)8月、神祇官は神祇省に降格し太政官の下とされた。太政大臣三条実美が神祇伯を兼任し、密接な祭政一致を意図したものであったが、明治5年(1872)3月14日神祇省は廃止される。新時代の祭政一致は天皇親祭とされ、神祇省が担当した祭祀業務は宮内省式部寮が行うこととなったためである。また国学と儒学中心の宣教は不可能とされ、仏教勢力の地盤と教化能力を取り入れるために神仏儒の合同布教体制となり、国民教化の専門機関として神祇省に代わって教部省が設置されている。
さらに学校教育制度の拡充に伴い、その存在意義が希薄となった教部省は明治10年(1877)1月11日に廃止され、管掌した任務の一部は内務省社寺局に受け継がれている。その後、明治33年(1900)に社寺局より神社局が独立し、さらに昭和15年(1940)には皇紀二千六百年記念の際に神社局に代わって神祇院が設置された。神祇院は昭和21年(1946)2月2日に廃止され、全国の神社の管轄は翌日設立した宗教法人神社本庁に引き継がれることとなった。
上記のように昭和21年(1946)GHQにより、神社の国家管理が禁じられたのとともに、近代社格制度も廃止されている。社格制度廃止後は、伊勢神宮を除き全ての神社は対等の立場であるとされた。しかし旧官国幣社や一部の大規模神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすることと定めることとなり、その対象となる神社が同規程の別表に記載されていることから、「別表に掲げる神社」すなわち別表神社と呼ばれるようになる。当初の別表神社は旧官国幣社のみであったが、昭和26年(1951)に「別表に掲げる神社選定に関する件」という通達が出され、官国幣社以外で新たに別表神社に加える神社の選定基準が示された。別表神社の宮司及び権宮司の任免は各都道府県の神社庁長の委任事項とせず、神社本庁統理の直接任免とすることが規定されている。別表神社は社格のような神社の格付けではなく、あくまでも神職の人事のみにかかわる区別であるが、旧官国幣社と大規模神社から構成されているため、一般には一種の格付けとして捉えられるものとなっている。なお伊勢神宮は別格として別表神社に入れられておらず、神宮大宮司は、神宮規則により勅裁を得て任免するとされている。
この記事へのコメントはありません。