文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都の神社巡り その3



京都の神社巡り(きょうとのじんじゃめぐり) その3

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京都の神社巡り 隼神社

 社格の変遷について、京都の神社巡りと、その2を通じて記してきた。ここでは、延喜式神名帳に掲載されている式内社の内、現在の京都市に近い部分を中心に書いてみる。
 宮中神三十六座は以下のとおりである。

     神祇官西院坐御巫等祭神 二十三座
       御巫祭神          八座
       座摩巫祭神         五座
       御門巫祭神         八座
       生嶋巫祭神         二座
     宮内省坐神         三座 
     大膳職坐神         三座
     造酒司坐神         六座
     主水司坐神         一座

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京都の神社巡り 二条城内清流園 神祇官の跡地

 神祇官西院は大内裏の東南部に設けられた祭祀を司る律令制の役所であった。国際日本文化研究センターが所蔵する地図 京城略図を見ると、郁芳門の西側に神祇官西院と東院が東西に並び、宮内省や大膳職などにも近接していたことが分かる。その位置は冷泉小路の北、大炊御門大路の南、櫛笥小路の東そして大宮大路の西となる。冷泉小路は現在の夷川通で大炊御門大路は竹屋町通。櫛笥小路は神泉苑通、大宮大路は大宮通であることから、現在の二条城内の北側の清流園のあたりとなる。清流園は昭和39年(1964)から翌年にかけて造られた新しい庭園で、角倉了以の屋敷から建物の一部や庭石約800個などを譲り受けたものである。「京都坊目誌 上京 乾」(新修 京都叢書 第14巻 京都坊目誌 上京 乾(光彩社 1968年刊))では、神祇官ノ址を以下のように記している。

藁屋町の西南より。四町目及び半は。二條離宮皇宮地の馬場に係る。

 この地に神祇官西院があり、その西北角に八神殿が築かれている。八神殿は一棟の建物で内部が八座に区分されている。やはり国際日本文化研究センターが所蔵する神祇官図真言院図太政官図式徳殿図を見ると神祇官の建物の構成が理解できる。注意しなければならないのは、この図の上方向を西として描いてる点である。八神殿は東面を正面とし三つの鳥居が設けられていた。西院に祀られた二十三座のうちの八座、すなわち御巫祭神 八座の祭神は、神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、御食津神、事代主神であり天皇を守護し、ひいては国家の守護ともなる。なお、上記の「京都坊目誌」では、神祇官は天正12年(1584)までこの地にあり、慶長2年(1597)に八神殿のみ吉田に移されたとしている。そして明治2年(1869)12月17日東京神祇官仮神殿に御遷座されている。 明治4年(1871)、神祇官は神祇省に降格している。そして翌5年(1872)には神祇省も廃止される。これに合わせて八神殿は神祇官から宮中へ遷座し、歴代天皇の霊は宮中の皇霊殿へと移されている。八神殿の八神を天神地祇に合祀し、八神殿の名称を廃して神殿に改称し皇居の宮中三殿の一つとなる。なお八神のうち大宮売神については、神祇官西院の故地に大宮姫稲荷神社の小祠が作られている。その地は京都市上京区主税町の京都市児童福祉施設児童福祉センターの南側にある。

 座摩巫祭神 五座の祭神は、生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神。室町通武者小路下ル東側に福長神社がある。竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻3」(白川書院 1961年刊)によると、福井神と綱長神を祀ることより福長大明神と呼ばれるようになったとしている。竹村は、この二神は座摩巫祭神五座の内の二座とし、豊臣秀吉が聚楽第を築いた時に第内にあったものを、廃城後に現在の地に移したとも記している。碓井小三郎の「京都坊目誌 上京 乾」(新修 京都叢書 第14巻 京都坊目誌 上京 乾(光彩社 1968年刊))でも、福長神社が聚楽第からこの地に移されたこと、天明8年(1787)の火災により小祠となったことを記しているが、座摩巫祭神五座のことには触れていない。京都市の駒札もほぼ竹村と碓井の記述を踏襲している。しかし聚楽第廃城後にこの地に移された点については、天正2年(1574)に織田信長が上杉謙信に贈ったとされる洛中洛外図屏風内に福長神社が描かれていることを併記している。

 御門巫祭神 八座の祭神は、櫛石窓神と豊石窓神の二神であるが、ぞれぞれ四面門に各一座で八座となっている。四面門とは内裏の御門である建礼門、建春門、朔平門、宜秋門の4つの門である。かつての内裏の位置を、志賀剛の「式内社の研究 第二巻」(雄山閣 1977年刊)では東は浄福寺通の東端の線、西は千本通と六番町通(六軒町通)の中間線、南は下立売通に併行する南の線で北は下長者町通で、中央の南北線は土屋町通、東西線は出水通に沿う南の線としている。すなわち南の建礼門は土屋町通下立売下ルの田中町南端、北の朔平門は下長者町通土屋町通西入ルの二本松町。東の建春門は出水通浄福寺東入ルの田村備前町中央付近の南、そして西の宜秋門は出水通千本西入ルの福勝寺西の町角の尼ヶ崎町と六番町の間と推定し、その址の場所の写真を掲載している。内裏の復元図を地図上に投影したものでないため、その根拠が不明である。
 これに対して京都市埋蔵文化財研究所が掲載している平安京散策マップの方は、最新の研究成果を復元図にまとめているため、こちらの方が精度が高いと思われる。

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京都の神社巡り 現在の京都御所建礼門
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京都の神社巡り 現在の京都御所建春門

 かつての神祇官西院内にあった生嶋巫祭神 二座の祭神は生嶋神と足島神である。これらも現在の二条城の東北部分にあったと推定される。

 宮内省坐神は園神社と韓神社二座で三座となる。園神社の祭神は大物主神で、韓神社の祭神は大己貴命と少彦名命とされている。宮内省は神祇官の北西にあった役所で、現在の上京区主税町、西日暮通の西側の二条児童公園とNHK京都放送局を一部含む地であった。園神社と韓神社は宮内省の敷地内の西北隅に東面するように建立されていたようだ。祭儀は南の園社から先に行われた。竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻4」(白川書院 1961年刊)では以下のように記している。

園韓神社址は現在あきらかにしないが、NHK京都放送局(上京区智恵光院通丸太町下ル主税町)附近と思われる。

また、「式内社調査報告 第1巻 京・畿内1」(皇學館大學出版部 1979年刊)には下記のような記述がある。

明治初年までは、付近に宮内省坐神三座(国、韓神社)の遺址なども芝生となって存してゐたが、後京都府監獄の敷地となり、今またNHK京都放送局の敷地となって旧観を全くとゞめない。

 なお二条児童公園には元禄13年(1700)に建てられた鵺池碑が現在も残る。
 大膳職坐神 三座の大膳職も律令制における宮内省に属する官司で、朝廷において臣下に対する饗膳を供する機関であった。天皇の食事は内膳司が担当し、饗膳の食事を掌る大膳職とは役務が分割されており、さらに主食については大炊寮が掌っていたため、大膳職は副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を受け持っていた。そのため大膳職と大炊寮は南北に接するように配置されていた。
 大膳職坐神三座とは、天太玉命が祭神の御食津神社と火雷命が祭神の火雷神社、そして磐鹿六獦命が祭神の高倍神社である。食物の神、火の神、高瓮の神であり、いずれも大膳職の役務に係わる神である。なお瓮とは、酒・水・醤等を容れる土器のことである。大膳職は現在の地名では一丁目町、三丁目町、中書町にかかる地域にあった。

 造酒司坐神 六座の造酒司は酒や醴・酢などの醸造を司った律令制の役所で、現在の京都市中京区聚楽廻松下町の京都市中央図書館と京都アスニーの地にあった。造酒司坐神六座は、大宮売神社の祭神である大宮津姫神、大宮津彦神、大御膳津命、大御膳津姫命の四神と酒殿神社の祭神である酒弥豆男神と酒弥豆女神の二神である。

 主水司坐神 一座の主水司もまた水・氷の調達および粥の調理を司った律令制の役所である。大膳職の西に位置し、北に主水司、南に醤司があったので、主水司は北伊勢屋町にあたる。主水司坐神は鳴雷神社で祭神は鳴雷神。雷が鳴ると雨が降るため、水神として鳴雷神を主水司が祀ったと考えられている。なお北伊勢屋町には佐々木酒造店があることからも、昔から清泉があったことが分かる。

 これら宮中神三十六座の外に、京内には左京二条坐神 二座と同京四条坐神の京中坐神 三座があった。左京二条坐神社の祭神は太詔戸命と久慈眞智命であり、志賀剛の「式内社の研究 第二巻」(雄山閣 1977年刊)では、その位置を中京区室町通丸太町下ル西側の道場町の大村紅染加工場と推定している。大村紅染加工場は現存していないが、北が画家の望月玉泉の邸址と記しているので、丸太町通から下った三軒目の空地となっているあたりを示しているようだ。志賀は中古京師図の中に東より西方寺、太詔戸神、大炊道場が並ぶことを見つけている。望月玉泉の居住地には昭和5年(1930)に建てたが現在も残されている。 「式内社調査報告 第1巻 京・畿内1」(皇學館大學出版部 1979年刊)では以下のように違った見方をしている。

「三代実録」貞観5年(863)12月3日の条には「左京職正六位上戌亥隅神授従五位下」とあって、左京職がその庁舎の西北隅に一社を建てこれらの神を祀ってゐたことが知られる。左京職は左京敬業第一坊の大学寮の南に、朱雀大路の東、姉小路の北に方四十丈の地を占めて置かれてゐたことから、その西北隅といへば、その位置はほぼ現在の二条城の西南、神泉苑の西に隣る近辺に当たるものと推定せられるが、今日その社壇の遺跡は不幸全くこれを見出すことは出来ない。

「式内社調査報告」のいう「三代実録」とは、「日本三代実録」であるが、12月3日の条の引用の一部分を省略している。「増補 六国史」(朝日新聞社 1940年刊)によると以下のようになっている。

十二月己未朔。三日辛酉。左京職正六位上戌亥隅神。
山城國春日年祈神。近江國少杖神。阿度河。川内神等並授從五位下。

 左京職の西北隅とは、現在のJR二条駅の東口にあたる。

 同京四条坐神は隼社で祭神は隼神である。現在の隼社は、壬生の町並みで触れたように、四条通坊城の西南角の社地に元祇園椰神社と並んでいる。しかし四条通坊城から北に200メートル進んだ蛸薬師通坊城の角には、隼神社旧蹟の碑が建つ。隼神社は朱雀院の西南隅に石神明神と並んで鎮守社として祀られていたと考えられている。院の廃絶後、隼神社は蛸薬師通坊城の南西角に移され、上記の碑文通り大正9年(1920)に四条通坊城にさらに移されている。
 朱雀院(四条後院)とは、嵯峨天皇が承和年間(834~848)に平安京左京三条から四条にかけての8町を占める敷地に設けた離宮で、宇多天皇の寛平8年(896)に新造され後院としての使用が始まっている。後に朱雀天皇が天慶8年(945)に修復を行い、同じく譲位後に居住している。天暦4年(950)火災に遭い、その後村上天皇により応和3年(963)に修理再興している。しかし円融天皇以降は後院として使われることはなく、右京の衰退と共に荒廃を始める。現在、朱雀院跡にはが建てられている。

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京都の神社巡り 隼神社

「京都の神社巡り その3」 の地図


大きな地図



京都の神社巡り その3 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 隼神社 35.0034 135.744
  朱雀院 北西 35.006 135.7409
01   隼神社旧地 35.006 135.7443
02   朱雀院 35.006 135.7409
03   朱雀院跡 35.0037 135.7394

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